第14章:台風作戦

[1] ブリャンスク=オリョール包囲戦

 9月30日午前5時30分、中央軍集団のモスクワ攻勢―「台風」作戦の火蓋が切って落とされた。第2装甲集団(グデーリアン上級大将)の第24装甲軍団(シュヴェッペンブルク大将)はグルホフからセヴスクを経由してオリョールに至る道路を突進した。

 第24装甲軍団の北翼では、第47装甲軍団(レメルセン大将)がブリャンスク西方に展開する第13軍(ゴロドニャンスキー少将)の背後に進出した。南翼では第48装甲軍団(ケンプ大将)がオリョール街道の南翼を防護する任務に就いていた。

 第2装甲集団による総攻撃の矢面に立たされたブリャンスク正面軍の南翼を担うエルマコフ機動集団は拠点を維持できず東方に撤退した。エルマコフ機動集団が後退したことにより、第13軍との境界面に幅50キロほどの間隙が生じた。グデーリアンはこの好機を見逃さず装甲部隊をこの間隙に突進させた。

 10月3日、第24装甲軍団の先鋒を務める第4装甲師団はオリョールの市街地に迫っていた。奇襲は完璧だった。オリョール市の共産党やNKVDに重要な工場を爆破させる時間さえも与えさせなかった。

 機関紙「赤星クラスナヤ・ズヴェズダー」の従軍記者だった作家のグロスマンはオリョールに派遣されていた。現地のホテルで過ごしていたところ、同僚のカメラマンが部屋に駆け込んできた。

「ドイツ軍がまっすぐにオリョールを目指して突進してくる。何百両もの戦車だ。あわやのところでその砲火を逃れて来たのだが、今すぐ出ていかないと、おれたちもつかまってしまうぞ」

 グロスマンはホテルを引き払った。市内は混乱に陥っていた。避難民の一団にまぎれてグロスマンはオリョールを脱出した。それから2時間後の午後6時、第24装甲軍団は市街地に突入した。戦車が大通りの市電の傍らを進んでいると、通行人は彼らをロシア兵と勘違いをして手を振った。

 ブリャンスク正面軍司令部と麾下の各軍司令部の連絡線は早々に途絶し、続く数日の戦闘の中でブリャンスク正面軍司令官エレメンコ大将自身もモスクワの「最高司令部」との連絡手段を喪失してしまった。ブリャンスク正面軍の残存部隊は壊滅から逃れようと、ドイツ軍の包囲網を死に物狂いで突破しようとしていた。

 グロスマンは総退却の光景をつぶさに目撃していた。その印象を次のように記している。

「退却の場面に遭遇すると思っていたが、目前に広がる光景はいままで一度も見たことがないような、ものすごい想像を絶する情景だった。大脱出だ!聖書に出てくるエジプトからの大脱出のようだ!八列になって車両が走り、何台ものトラックが轟音をとどろかせ、一斉に泥沼から抜け出そうとしている。袋や包み、スーツケースを抱えた群衆もいる。あたかも聖書の大混乱の時代にタイムスリップしたかのような、強烈な感覚をおぼえた」

 10月5日、第47装甲軍団の第18装甲師団がオリョールとブリャンスクを結ぶ交通の要衝カラチェフを占領した。第47装甲軍団の第17装甲師団は3日前から攻撃を開始した第2軍とブリャンスク南方で合流を果たそうとしており、ブリャンスク正面軍は早くも完全包囲の危機に直面した。

 10月7日午後2時ごろ、劣勢を悟ったエレメンコは正面軍の残存部隊に対して陣地を放棄して東方へ撤退するよう命じた。この時点ではまだ、重要な道路を制圧されていたとはいえ、第2装甲軍の北翼を形成する兵力密度は疎らだった。そのため各所に開いた空隙から多数のソ連軍部隊が防御戦闘を続けながら、東方への脱出に成功した。

 スターリンはエレメンコにただちに反撃に出るように命じたが、もはやブリャンスク正面軍には反撃のための戦車も兵力もほとんど残っていなかった。第13軍と第50軍は司令部とともに、第2軍によって巨大な包囲網の中に閉じ込められた。

 10月13日、エレメンコは脱出作戦の最中に空襲で脚に重傷を負って軍用機で脱出せざるを得なくなった。ザハロフ少将が翌14日に後任としてブリャンスク正面軍司令官に着任した。

 モスクワに帰還したグロスマンは「赤星」の本社に向かった。編集長はグロスマンを詰問した。

「なぜオリョールの英雄的な防衛に関する記事を送らなかったのか?」

「オリョールは防衛戦などやらなかったので」

 脱出行に関するグロスマンの覚書は記事にされなかった。編集長はグロスマンに再び前線に戻るよう命じた。

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