ALTERNATIVE ~オルタナティヴ~

abyss 零

第一章 What A Wonderful World

始まりは突然

~1~


 ある日曜日の朝、時刻が8時を回った頃――閉まりかけた電車の扉に、一人の少年が慌ただしく滑り込んだ。少年は息を荒立てながら、吊革のぶら下がる天井を見上げた。涼しい送風が心地よかった。

 まもなく少年は空席を探し、人の少ない列の端に座った。念のため肩に提げた鞄の中身を確認するが、特に困るような事態には陥っていなかった。こうせわしない時は、いつも執拗に持ち物を案じてしまうのが、少年の昔からの癖だった。

 数滴の汗が、眉を覆う前髪から垂れた。少年は少し濡れた黒髪を払うと同時に、うなじをさする後ろ髪が煩わしくなって首筋を掻いた。

 車内に吹き渡る冷風では足りず、少年は黒い制服を脱いでシャツのボタンを2つ空けた。素肌に直接、微風が行き届く。まだそこかしこの汗が鬱陶しいが、気にはならない程度に身体は冷やされている。

 少年はポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。どうやら予定には間に合いそうだ。目的地に到着するまでの時間を潰そうと、彼はソーシャルゲームのアプリケーションを起動する。

 こうしていると、少年は時々今現在のスマートフォンの流通と、自身の幼少期の携帯電話……ガラパゴス携帯とを照らし合わせ、比べてみてしまう。時代が既に流れを変えてしまった昨今に、そんな比較も追想も無意味であることは重々承知の上だが、昔を懐かしみたいのか懲りずに浅知恵をひけらかして気取りたいのかもしれなかった。

 少年はアルバイト先の小学生の客が、うまい棒を買うときにポケットから10円玉を出すような自然体で、スマートフォンを弄くり電子マネーをかざす様を度々目撃していることを思い出した。人生経験豊富な壮年の男性よろしく『最近の子供は』と溜め息を吐いてみたりもして。

 少年は、初めて携帯電話を握りしめた時代を思慕した。二つ折りの本体、触れてもスライドしない液晶、小気味いい感触のするテンキー。液晶部分とテンキー部分が上下にスライドしたり、画面が四六時中むき出しなものもあったり、通話をする際にアンテナを伸ばさなければならないものもあったような。

 今の小学生は、そんな携帯電話を、もしかすると知らないのかもしれない。そんなことに思い至ると、いよいよ時流の変化に畏怖の念すら抱いてしまいそうになる。だがそれも親からすれば、ポケベルやらレンタル電話やらを知らない自身もまた、同じようなものである。

 そんな取り留めのないことを考え耽っては、その感傷をソーシャルネットワーキングサービスで不特定多数の見も知らない人々に伝えて回る。この一連の流れが、不思議と定着してしまって仕方ない。云々言っておきながら、結局のところは変化に適応してしまい、慣れてしまっているのだ。

 少年は一頻り心境を意味もなく述べると、いつの間にやら滑稽なほど曲がっていた背中を引き上げ、とうとう飽きて別のアプリケーションを眺め始めた。


「あのー……」


 すると、前方から女性の声が聞こえた。ちょうど猫背を直した視線の先、座席の正面に少年と同じ歳頃の少女が座っている。綺麗な髪の、凛々しい目を持った可憐な少女である。彼女は遠慮がちながらも見定めるように少年をチラチラ見ている。どこかで見たような、そんな気もする。少なくとも知らない誰か、ではないような。


「ひょっとして――お隣さん、ですか?」


 少女は自信がなさそうに訊ねた。少年は顔をしかめて記憶を辿り、そして思い出した。彼女は幼い頃から見知った隣人だ。割りと古い付き合いで、親同士の交流も少しある。少年の両親が結婚を機に現在の自宅へ引っ越して以来、何かと世話を焼いてくれた家族だ。眼前の少女は、その家族の娘である。


「ああ……はい、どうも。お久しぶり」


 当たり障りない、と言えば聞こえはいいが、どちらかと言うと冷ややかな印象の、素っ気ない返事を、少年は咄嗟にしてしまった。彼は人見知りだった。言い終えて間もなく、少年は後悔と自責の念を覚えた。そんな自身の反応が、少女の端麗な容姿に関係していることは明白なように思われた。


「は、はい。お久しぶりです」


 一方、少女も緊張しているのか、ぎこちない語調だ。先ほどの返事を気にしている様子はないが、会話を切り出した本人がこんな調子なら話しかけてくれるな、と少年は思った。


「お、覚えてる? 私たち、小さい時は割りと遊んだりしたんだけど……」


 少女は戸惑いがちに、会話を続けていく。正直、少年は耐えられる自信がなかった。目の前の少女は、自分には似合わないくらい整った顔立ちをしている。人は見かけで判断できないと常日頃から各所で言われているが、少なくとも少年は美男美女には滅法弱かった。

 コミュニケーション力の問題ではなく、少年は周囲から眩しい宝石のように崇められているであろう彼らに、自分はあまりにも釣り合わないと自ら距離を置きたがるのだ。

 そんな少年を尻目に、少女は返答を待ちわびている様子だ。少年は面倒な反面、美少女に会話を持ちかけられた高揚感も覚えていた。


「まあ――少しは」


 少年が控えめに答えると、少女は嬉しそうでもあり悲しそうな、複雑な表情を見せた。それを見て、少年は彼女のことを少しずつ思い出せた。家の近場の公園で遊んだこと、たまに自宅に招いて招かれて遊んだこと、幼稚園でも仲良くしていたこと。

 今まで忘れていたのが不思議なくらい、色々な記憶が蘇っていった。少年は、先ほど少女が見せた表情を、過去に見たことがある気がした。思い出した中でも、かなり後の方の、一番最近の記憶で。それきり、彼女と会った覚えはない。それほど重大で、深刻な出来事があったのだろうか。

 ひょっとすると、もし昔も今も少女が同じ心境なら、自分は二度も彼女を傷つけ、悲しませてしまったのだろうか。そんな思慮が、少年の胸中に深々と突き刺さった。そう考えると、今まさに彼女が浮かべている表情は、とても見るに耐えない。少年は慌てて先の言葉を訂正した。


「いや……でも、割りと覚えてるかもしれない。逆上がりの練習とか一緒にしたし、折り紙も教えてくれたよね、あと隠れんぼの時なんか見つけてくれなくてさ――」


 少年は今しがた思い出したばかりの僅かな記憶、その全てを言葉にした。これ以上話を掘り下げられたら、簡単にバレてしまう。最良の判断が、同時に最悪のピンチを呼んだのである。彼の背筋が少し汗ばんだ。

 すると、少女は先ほどまでの淀んだ表情から一変して、嬉しそうに顔を輝かせた。ぱあっと花が咲くような笑顔に、少年は思わず視線を下げた。あまり良いとは言えない目でも、彼女の綺麗な瞳の光が、はっきり見えたのだ。


「覚えててくれたんだ……へえ――」


 少女は照れているのか、頬の緩みを隠すように顔を伏せた。その仕草は少年には眩しすぎた。彼は思わず少女から視線を逸らす。


「ていうか、髪どうしたの? 前はそんなに髪伸ばしてなかったよね? イメチェン?」


 少女は彼の反応を見ると、慌てて話題を変えた。少しばかり浮かれた自分に気付き、恥ずかしくなったのだろうか。

 少年は尋ねられると、言い難そうに頭を掻いて顔をしかめた。


「いや……視力が落ちてさ、どうも物が見え辛くなってから目つきが悪くなったらしくて。学校の奴に言われてから、ちょっと気にしてるんだ」

「眼鏡かければいいのに」

「いや、眼鏡は抵抗あって」

「それだけで?」


 少女の取るに足らないことだとでも言いたげな、半ば図々しさすら感じられる口調に少年は腹を立て、沈黙でこの話を打ち切った。自分の気持ちが分かる存在を、端から期待していたわけでもない。むしろ、自分の気持ちなんて誰にも分からないし、分かられてたまるか、と彼は思っていた。

 多感な歳頃の少年は、自己を他者とは全く違う相容れぬものとして忌み、尊びたがっていた。

 少年は少女から目を離して、ふと座席の後ろを振り返った。目元の判然としない少年の映ったガラス窓の向こうで、名も知らない町並みの景色が矢のように過ぎていく。少年は電車の車窓から外界を眺めるのが好きだった。誰とも目を合わせることなく、言葉を交わすことなく、人々の送る、それぞれの生活を垣間見ることができるからだ。そうすることで、少年は孤独じゃないまま孤独を楽しむことができた気がした。小気味よく揺れる身体も、また一興。ここで気に入った音楽の一つでも両耳に流し込めば、彼の理想とする世界は容易く完成される。

 少年は、その娯楽を半ば奪っている眼前の少女に、僅かな苛立ちを覚えていた。昔から少し見知った顔であるというだけで、特に用もなく声をかけたのだとしたら、とてもじゃないが愛想よくはできないと思った。半面、自分には勿体ないくらい可憐な少女と束の間の談笑(と言うほど盛り上がる話でもなく、親密な様子でもなかったが)をすることができて、嬉しいと言うよりは自惚れに近い感情も抱いていた。そんな人間であるが故の矛盾した二面性が、少年は自分のことながら煩わしかった。


「何見てるの?」


 半ば少女の存在も忘れ、惚けた眼差しで車窓から外を眺めていると、彼女は少年の脇から顔を出した。彼の世界は音もなく、宙で弾けるシャボン玉のように消えた。

 少女は彼が物珍しいものを見つけたとでも思っているのか、視界に入る景色をぐるりと見渡した。が、少年が特に何を見ていたわけでもないことを悟ると『なーんだ』と上体を起こして向かいの席に掛け直した。

 少年は彼女の一連の動作が鬱陶しかったが、隣に座ってこなかった点は感謝した。隣席に座られたら余計に腹が立つし、余計に自分が調子に乗ってしまうように思われた。


「なにか面白いものでも見つけたのかと思った」


 少女は少し笑って少年に言った。少年はため息の代わりに微かに鼻を鳴らすと、捻った体を戻してぎこちない笑みを返した。


「そんな滅多に見つかるもんじゃないよ、そういうのは」


 すると今度はそんな彼の表情を、少女が凝視した。怪しそうに、いぶかしそうに、疑わしそうに。


「ねえ、本当に昔のこと覚えてるの? 私とのこととか」


 そう、彼女は言った。少年は不意を突かれ、図星を指された。


「私の名前、言える?」


 彼は返答に困ったが、こういった類いの問いに時間をかけるのは得策ではない、と瞬間的に判断した。悩む間もなく、苦し紛れに当たり障りない、なるたけ穏便に事が運ぶような言葉を選びつつ、少年は答えた。嘘とまことが入り乱れようと、もはや知ったことではなかった。


「いや、その……あんまり細かいことは覚えてないけど、覚えてないって言うと嘘になるっていうか、どうでもいいようなことばかり覚えてしまっているというか、全く覚えてないわけでもないわけで――」


 異変が起きたのは、その時だった。突如、車体の大きな揺れに態勢を崩し、少年と少女は座席から転がった。それは他の乗客も同じだった。鉄の軋む不快な音が鳴り響き、少年たちはしばらく宙を舞うと、やがて強力な衝撃と共に。その光景は、端から見ると超常的だった。

 電車は少年たちを乗せた車両を含めた一部だけが、線路を砕いて地上へ落ちていた。路線に残された二つの車体は、その裂かれた一部の断面を綺麗に露見させている。電車はほぼ中央部分のみが、何かに押し潰されたかのように落下したのだ。

 それだけではない。超常的な落下を見せた部位の周辺の道路や小道は、電車の直下の地上と同じように、上からの強大な圧力によって凹んでいた。重力のような、しかし地球上のそれを遥かに超えた力が、電車やその周囲一帯の地形、そして少年たちに異変を起こしている。

 尚も力に潰され続け、落ちた車体の天井はみるみる低くなっていく。しかし、少年たちは逆に、押し潰されている天井に叩きつけられているような、重力を無視した力を受け、苦しんでいた。下への圧力により潰れていく車体、その内部では車体にかかる力とは真逆の上への圧力に乗客たちは苛まれている。

 超常的な落下と上方からの圧力を受ける車体や道々、そして空の方へ落ちていくかのような少年たちへの謎の力――何が起きているのか、誰も知る由もなく、ただ異変による痛みに耐え、あるいは耐える者を傍観するしか、民衆にはできなかった。成す術など、この超常的な異変の前に、一片たりともなかった。

 少年は平らになっていく天井に叩きつけられ、思考が全く定まらなかった。傍で少女が苦しそうに呻いている。同じ車両にいた乗客たちも耳がつんざくほど叫んでいるのに、なぜか少年は彼女の声が鮮明に聞こえた。

 少年は空気が振動しているような錯覚に囚われた。強大すぎる力に瞼もろくに開かない。だが少年は僅かな視界の端で、微かに少女らしき姿の人影を見つけた。車内がどうなっているのか、車体がどうなっているのか、全く分からない。ただ少年は車体が地面に叩きつけられていること、それに反するベクトルで自分たちが叩きつけられていること、そして無事で済む可能性が限りなく薄いことを、乱れる思考で何とか認識した。

 この上ない苦痛に歪んだ少女の顔が、涙で濡れている。少年はそんな気がした。彼は半ば無意識に彼女の小さな掌に、震える自身の掌を、そっと乗せた。超常的な力による苦痛で動かせたものではなかったが、幸か不幸かその異変は延々と続いたので、少年は長い時間をかけて、ようやく少女の温もりを掴みとったのだった。

 そして丁度その頃、電車が潰されている地上と、少年たちに圧力のかかっている空に、謎の円形の印が現れた。金色に輝く、実に神々しい印だ。やがて印が緩やかに回転を始めると、少年たちは天井をすり抜けていき、地上に叩きつけられる車体より離脱していった。まるで、そこから引き剥がされるように。

 星の中心へと沈められていく電車から剥がされ、少年たちは光に満ちた天へと昇っていく。誰一人として、もはや意識を保ってはいなかった。また、この世界から旅立たんとしている彼らの姿を見た者もまた、一人としていなかった。


~2~


 少年は涼やかな微風そよかぜと青い草花の匂いで目を覚ました。彼は仰向けに横たわっていた。少年は身を起こすと同時に、その手に掴んだ温もりを思い出した。咄嗟に隣を見ると、少女がしかめ面で眠っていた。掌は熱を持っており、また彼女は寝息を立てている。確かに生きているのだ。その事実が、肌に実感として伝わり、少年は一先ず安堵した。直後、自分の鞄の行方を案じたが、無事に足下に転がっていた。

 少年は鞄を肩に掛け、辺りを見回した。百人に満たない程度の人々が、同じ草むらに横たわっているか、既に起きて遠くを見渡していた。少年は着ていた制服の上着を少女に被せ、ふらつく脚を踏ん張らせて立ち上がった。歩けなくはないが、長距離の移動や走行には時間を要すると思われた。

 少年は身近にいた背の高い青年を見つけ、人見知りの性を忘れて声をかけた。青年が振り返ると、人の良さそうな素顔が白日の下に晒された。その顔は、同じ車両のどこかに座っていたような記憶があった。


「すみません、電車に乗っていた方ですか?」

「ああ、そうだよ。君もか」

「はい……あの、俺たちはどうなったんですか?」

「分からない……電車が落ちて、俺は上の方――地面とは逆の方に叩きつけられて、それから先は何も――」

「ああ、やっぱり逆向きでしたか、あれ」

「でも、一つ言えることがある」


 青年は辺りを見回して、泣きそうな笑みを見せた。


「俺たちの電車は、こんなところ走ってなかった」


 少年は改めて、100人足らずの人々がいる草原を見渡した。半径500メートルほどに渡り草花のみの景色が広がり、そこから先は四方八方、木しか見えない。どうやら森の中の草原、といった場所だろう。少年は異変の直前に眺めた町並みを思い出し、戦慄した。

 そもそも、少年たちは電車に乗っていた。その電車が落ち、何らかの超常的な現象が起きた後、彼らは気を失った。少年は見回したが、この周辺の草むらに電車の残骸は影も形も存在していなかった。


「それに俺はあんな空知らない」


 青年が指した彼方の天を見上げると、そこには赤々と燃えるような雲に覆われた、禍々しい空と呼ぶのも迷う光景があった。少年たちがいる草原の空こそ見慣れた晴天だが。


「誰かぁ!助けてぇ!」


 後方から女性の悲鳴が聞こえ、少年は振り返った。すると、既に青年は声の主の元へ駆け出していた。少年は道徳的な青年の精神を尊敬した。とても自分には真似できない、正義感の溢れる行動である。少年も、そんな青年の勇気ある行動の手前、自分だけ知らぬふりをするのも憚られると思い、遅れて女性の方へ走った。


「私の彼氏がぁ! 彼氏の腕がぁ!」


 大学生くらいの女性が、涙と化粧でぐちゃぐちゃになった顔で少年たちを見た。傍には片腕が完全に失くなってしまっている男性が、か細く呼吸をしていた。その顔色は蒼白である。


「ねぇ! しっかりしてよ! ねぇったらぁ!」

「なんだこの傷は?」


 叫ぶ女性を余所に、驚愕した様子の青年が呟く。片腕の断面は非常に綺麗なもので、ギロチンにでも断たれたかのように真っ平らだ。骨や関節、隅々の血管に至るまで、器用に直線を描いている。

 少年は強烈な臭いと光景に、堪らず四つん這いになる。隣を見ると、さすがの青年も少し気持ち悪そうに片膝を着いている。

 青年は気を持ち直すと、懐からスマートフォンを取り出して操作をすると耳に当てる。青年は急くようにぶつぶつと独り言を言った直後、声を裏返して悪態をついた。


「なんで119が繋がらないんだよ!」


 その怒号を聞いて少年も自身の端末で番号に掛けるが、こちらも同じだった。見ると、この場所は圏外だ。

 青年は苛立った様子でスマートフォンをしまうと立ち上がり、周囲を見渡して叫んだ。


「誰か医者はいませんか!? 重傷の方がいます! どなたか協力してください!」


 反応を見せた人々の多くが青年から視線を逸らした。周りを見回して該当者を探すような素振りを見せる者もいたが、声高に助力を求める声を発する者は一人もいない。

 こんな百人にも満たない人々の中に、都合よく医師がいる可能性は低い。少年は諦念を感じると共に、血まみれの男性を憐れんだ。


「どうしたの?」


 傍に幼馴染みの少女が立って、彼の身を案ずるように少年の顔を見上げていた。彼女は少年の脇に横たわる、大量の血を流した男性の姿を見ると、短く悲鳴を零した。少年は慌てて少女の眼前に立ちはだかった。

 大学生の女性は相変わらず男性に叫び続けている。その隣で青年は冷静に、自身の上着を男性の傷口に縛っていた。これで止血の役割を果たそうというのだ。


「医学知識のない人間には、これが精一杯です……あとは、助けを待つしか――」


 青年は言い難そうに女性に言った。女性はそんな青年を気にも留めず、ひたすら男性に呼びかける。青年は無力な自分を嘆き、そして何の処置も望めない男性を憐れんだのか、泣き出してしまいそうな表情でカップルの元を後にした。少年も半ばパニックに陥った少女を引き連れて立ち去った。

 集団から少し離れた茂みに少女を座らせると、やがて彼女は平静を取り戻していった。


「大丈夫?」


 少年が顔を覗き込むと、少女は力なく頷いた。しばらくして彼女は立ち上がり、草原にいる人々を見回すと、少年に言った。


「何があったの? 私たち電車に乗っていたはずでしょ?」

「分からない。ただ電車が線路から落ちて、変なことが起こったのは確か……だと思う」


 少年は言葉をどもらせた。自信がなかっただけではない。いざ現状を口にしてしまうと、自分たちの今後が不安になってしまうのだった。


「うん……でも私たち、こんなところ通ってなかったよね? 覚えてるもん。窓から渋谷の街、見たもん。その後のことだって、ちゃんと――」


 少女の声は途切れた。少年は何事か彼女の顔を再び窺うと、少女は何かに驚愕したような表情をしていた。見方によっては、恐怖の顔と言えなくもない。


「どうかした?」


 少年が尋ねると、少女は今にも泣いてしまいそうな顔で少年を見返した。


「私、忘れちゃった……」


 少女は頭を抱えて喉を震わせる。少年はそのただならぬ様子を前に、彼女の身を案じた。


「君の名前も……私の名前も……他のことは覚えてるのに――」


 少女の目から涙が溢れた。少年は何とか彼女を落ち着かせようと努めて明るく振る舞った。


「大丈夫だよ。多分、軽い脳震盪のうしんとうか何かだ。どこか悪いところを打って、一時的にそうなっているだけだよ」


 しかし、少女の落涙は止まらない。彼女は次第に嗚咽を混じらせ始め、少年は尚更調子のいい言葉を並べた。


「にしても、電車では俺に名前を尋ねたのに、その尋ねた本人が忘れるなんて皮肉なもんだよな――」


 言い終えて、少年は悪寒を覚えた。少女はおろか自分の名前すらも、彼は思い出せない。少女と同じだ。自分も脳震盪を起こしたのか、と半ば現実逃避気味に結論付け、少年は頭を掻いて笑ってみせた。

 だが、それだけで事を済ませることは、少年には到底できなかった。彼は混乱している少女に一言断って、彼女を残し青年の元へ向かった。青年は未だ落胆している様子だったが、そんなことを意に介さず、少年は尋ねた。


「自分の名前、覚えてますか!?」

「何言ってるんだ? 当たり前――」


 青年は少し驚いた顔をすると、すぐに微笑んだ。が、その表情は直後、みるみる曇っていった。


「そんな……思い出せない」


 少年は恐ろしくなって、周囲の人々に手当たり次第に自分の名前を思い出せるか訊いて回った。しかし、ついに覚えている人物はいなかった。

 少年は、先ほどの片腕を失くした男性に付き添う女性を思い出した。女性は今も必死で男性に呼びかけており、その声音は少年の耳にも入っているが、ただの一度も彼の名前を呼んだ覚えはなかった。ひたすら、反応を待ちわびる声かけだけである。

 少年は気味が悪くなって、少女の元へ戻った。少年はふと力が抜けたように芝生に座り込んだ。


「どうしたの? 何かあった?」


 その姿を見た少女が、心配そうに彼の伏せた顔を覗いた。少女の肩にかかっていた髪が少年の頭を撫でたが、彼はそれにすら反応を見せない。少女は彼の両肩を激しく揺さぶるが、少年は苛立った様子で彼女の手を振り払った。顔を上げた少年は、現状に対する不満や憤りをその表情に浮かべていた。

 少女の悲しそうに潤んだ瞳と、少年の怒りや恐れで濁った瞳とが交差した。

 その時、異変の渦中に取り残された人々の耳に、突如として轟音が響いた。草むらの周辺の木々が倒される音と、数えきれない数の足音である。


「助けが来たのか!?」


 誰かが叫んだが、誰も答えない。その音はどことなく不穏で、何やら更なる脅威が着実に侵攻してくるような、言い知れない不安に人々は駆られていた。

 少女も心に芽生えた異質な警戒心に従い、意気を失った少年の身体を支えて集団と合流した。

 木々は続々と人々の視界から消えていき、また轟音も着々と彼らの元へ近づいていった。その尋常でない現象に、ついに少年は我に返った。

 次の瞬間。少年たちの眼前にそびえる一面の樹木が、大きな音を立てて一斉に倒れた。同時に、足音の正体が現れる。それは人ではなかった。異形の者共が、軍勢を率いて歩を進めていった。

 遠方で、赤い空がいかずちを落とした。


~3~


 様々な異形は無数の軍勢を成して少年たちの方へ進軍していく。彼らの目の前の景色が、謎の異形たちに遮られた。集団の先頭に位置する、豚の顔にワニのような鱗に覆われた身体の異形が少年たちを指差し、狂った猛獣の如く吼えた。瞬間、他の異形たちも雄叫びをあげ、各々が手に持った武器を掲げると駆け出した。中には背に生えた翼で空を舞う異形もいた。

 人々は異形たちの敵意を察知し、恐怖して悲鳴をあげた。少年は小刻みに震える少女の手を掴み、軍団の進行してくるのと逆の方向へ――正常な空の広がる方向へ走った。他の人々も皆、それぞれの道を逃げる。

 だが、片腕を失った男性とその連れの女性は動けずにいた。彼氏と呼ぶ男性の名前も思い出せないのであろう女性は、健気にも血の気の失せて死期も近いと思われる彼の隣で、泣きながら残った方の腕を抱き締めていた。少年は女性が男性の胸に額を預けた光景を最後に、自身の逃げ道の方へ向き直った。こんな、あまりにも唐突で理不尽な悲劇を見ていられなかった。


「ねえ! アレは何!?」

「知らないよ!」

「あのカップルを助けなきゃ!」

「無理だよ!」


 ただでさえ困惑せざるを得ない状況に置かれている中で発せられた彼女の言葉に、少年は一抹の苛立ちを覚えたが、その掌は決して放さなかった。

 間もなく二人は森へ入り、道なき道を疾走する。草や木の根で足場の悪いところを構わず駆け抜けた。視界の端で他の人々が方々へ逃げていくのを、少年は何とか見ることができた。

 だが気にかけている余裕など皆無だ。怪物の大軍が木々を薙ぎ倒しながら背後まで迫ってきている。少年は転びそうになりながらも必死で走る。少女も同年代の男の全力疾走に何とかついていっている。少年は肩に掛けた鞄を手放すことも考えたが、そこそこの額の金銭や個人情報の類いが入っているため、易々とは捨て置けなかった。

 十数秒に一回のペースで、少年は逃走する人々の悲痛な叫び声を耳にした。死を前にした人間の最期の断末魔だ。二人は互いに繋いでいない方の手で片耳を塞いだ。が、悲鳴は彼らの鼓膜に轟き、その心を脅かしていった。

 少年は悲鳴とは別に、すぐ横で空を切る鋭い音を聞いた。直後、近くの木で乾いた音が鳴る。少年はその巨木を通り過ぎる時、幹に深々と突き刺さった矢を見た。意識を周囲に分散させた途端、無数の矢が放たれるのが聞こえ、見えてきた。異形の軍団は弓で獲物を捕らえようとしているのだ。

 少年は振り返ろうともせず、より速く駆けようと努めた。が、同時に苦悩も芽生えた。このままではいずれ体力も底を尽き、その身を弓矢に貫かれる未来も遠くない。しかし、かといって森を抜けてしまったら、その先に遮蔽物が充実した土地がある保証はない。もしかすると見晴らしの良い平地で、追っ手の格好の的となるかもしれない。

 どちらにせよ走らなければ命はない。少年は考えるのを止め、ひたすら逃げることのみに意識を集中させた。木々の間を縫うように進めば、矢に当たる確率は下げられるはずだ、と。

 少年は躓きかけながら、少女の無事と体力の持続を祈り森をひた走る。出口は見えない。生い茂る草木で真昼の陽光もろくに射し込まない。薄暗い闇と風よりも速く吹き抜ける矢が、彼を急かした。いい加減に煩わしさを覚えた頃、ついに少年が肩の鞄を後方へ放った時、ちょうど一矢が彼の背中の中心辺りを舞う荷物を貫いた。少女もあわやと言ったところだ。

 どれほど走っただろう。生を懸けた命の疾走を前に、時間の概念は少年にとって無意味だった。そこら中を針で刺されているような痛みに脚は感覚を失い、胸の中心を内側から杭で打たれているような呼吸の苦しさに、いよいよ残された力も尽きようとしていると思われた頃。二人は前方に一筋の光明を見つけた。森の出口である。

 深い森を抜けることが、果たして吉と出るか凶と出るか、少年は分からない。だが迷っている暇はない。少年は一層強く少女の手を握り、光の元へ向かった。

 その時。少年が掴んでいた少女の手がずり落ちた。少年は慌てて振り向いた。思えば、森に入ってから初めて背後を見ることになる。少女は土を穿つ巨木の根に足をとられて転倒してしまったのだ。

 少年は未だ迫り来る異形の軍団を目にし、急いで少女の手を掴み直した。しかし、少女は動かない。生への執着から限界を超えて走り続けてきた彼女は、一度立ち止まってしまってから、身体が言うことを聞かなくなってしまっていた。少年もまた、再び走り始めることは出来ず、膝から崩れ落ちてしまった。落ち葉の積もった大地に頭を垂れ、もはや立ち上がることさえ死力を尽くしても無理だ。

 少女が泣いているのを少年は横目で見た。その背後からは無限に等しい異形の軍勢が弓を引き、斧を振り回して近づいてくる。ついに、決死の逃亡劇もここまでかと思われた。

 少年は最後の余力を四肢より絞り出し、這いつくばって咽び泣く少女の傍へ寄ろうとする。それに気づいた彼女は、自らも少年に近づこうとすることで応えた。

 結局、ただの一度も名前を呼んでやることすら叶わなかった。今や自分の名さえ忘れてしまい、その亡骸が家族の元へ届けられるかも分からない。圧倒的な死の恐怖に二人は苛まれ、せめて互いの温もりを胸中に、共に苦痛を紛らわせようと身を寄せ合った。

 自身の人見知りの性質など、もう彼は覚えていなかった。少女が涙で濡れた顔を服に擦りつけるのも、少年は黙って受け入れた。自分まで赤子のように泣き出してしまいそうなのを堪え、少年は最後にと、目前の光明を見据えた。

 輝きが満ちていた。少年は空いている手を伸ばした。その手は、光には全く届かない。地を揺るがすような足音が、すぐそこまで来ている。幸か不幸か、草葉の茂る林中に転がる二人の身体を、異形共は射抜くことが出来ない。少年はその現実に笑った。果たしてこの身の最期は、斧で断たれるか剣で斬られるか……あるいは首を括られて見せしめにされるかもしれない――。

 少女は彼の腹に顔を埋め、声なき声で泣き喚く。少年はただ、固く目を閉じた。息もなるべく整えようと試みた。もう足掻いても無駄だ。ならば、いっそ真っ向から迎えよう。恐れず臆せず、とまではさすがにいかないが、せめて最後に傍にいてくれる彼女の拠

よりどころ

となろう。


「進めー!」


 すると、少年は異形の軍勢の迫る方とは逆の方向から、人間の猛々しい声音が轟くのを耳にした。脅威の集いが鳴らす地響きのような足音に掻き消され、微かではあるが大軍の猛進する音も聞こえる。

 少年の勇気が胸の奥底から湧き出るようだった。少女も、自身が聞いた希望の足音で気力を取り戻し、彼の身体から頭を離して濡れた顔を輝かせる。

 少年は少女の手を強く握り、自身の持つ人力の全てを奮い起たせ、再び立ち上がって走り出した。眼前の光の先には、生き延びる可能性が待っている。少年は脚や胸の痛み、呼吸の苦しみを忘れ果て、がむしゃらに林中を駆け抜ける。少女もっくに限界を超えている身体を、生きようとする気迫のみで動かしていた。二人とも半ば無心である。

 背後に迫る軍勢。命を貫かんとする矢の雨。それらを掻い潜り、少年たちは光明を目指す。希望の足音が近づいてくる。瞳が眩しさに耐えきれなくなる。そして二人は、ついに深き森を抜け出した。

 そこには幾百もの武装した人間たちが、異形の闊歩する森へ向かって、雄叫びと共に進軍する光景があった。少年たちは両手を高く挙げ、自分たちに敵意はないことを報せる。すると大軍の先頭を走る一人が額の側面に手を当て、馬とも獅子ともとれる珍妙な四足歩行の獣に乗った兵が十数人、勇猛果敢に躍り出た。その生き物は凄まじい速度で平野を横断し、気がつけば少年たちの目前に到着していた。


「これに乗るんだ!」


 一人の男性が言うのと同時に、数人の兵が獣から降り、今もなお勢いの弱まらない侵攻を続ける異形の軍勢に対し、弓や掌から射出される謎の火花やら稲妻やらで牽制する。

 救助の手を目にした安堵から今まで蓄積された疲労が一斉に全身を襲い、二人はその場に座り込んでしまった。獣に乗るよう促した男性は二人をそれぞれ獣の背に横たえると、異形の大軍を牽制する兵に合図する。全員が獣に乗った瞬間、一行は人間の軍団の元へ舞い戻った。

 一歩進むごとにごつごつした獣の背中が当たって痛かったが、少年はその毛並みに包まれ、不思議な感覚に身を預けた。守られているという実感。救われたという実感。それらが、少年の疲労から来る睡魔を駆り立てた。薄目で既に少女が気を失っているのが見えた。

 間もなく前後に激しい衝撃と振動が伝わり、人間たちの雄々しい声音もあって、少年は自分たちを乗せた獣が自陣に戻り、停止したのだと分かった。


「将軍! この辺りで生存している者は、どうやら彼らだけのようです。森の入り口を一通り見ましたが、異形の他に人影はありませんでした」


 先ほどの男性の声が言った。すると、野太く低い声の別の男性――将軍が答える。


「ならば、ひとまずは戦おう。予想以上の数だ。この軍勢を野放しにしておくのはあまりに危険だ。他の生存者は見つけ次第、救助できるよう尽力するように。お前は彼らを連れ帰り、増援を求めてくれ」


 そんなやり取りが耳を通り過ぎるが、もはや少年の意識は深い眠りに落ちてしまっていた。


~4~


 鼻につく薬品の臭いで、少年は目を覚ました。真っ白な天井が、最初に目に止まった。まだ酷く眠かったが、彼は意識を失う前の一連の出来事を思い出し、身体を起こした。

 夢だったのかもしれない。そんな淡い期待は、自分に着せられた見知らぬ白衣を見ることで、半ば打ち砕かれた。

 少年は少女の身を案じて横たわっているベッドから立ち上がろうとするが、身体中に鋭い痛みが走り、思わず上体を倒した。見ると、全身に半透明の緑色の管が繋がれており、それらを辿るとベッドの脇にラグビーボール大の大きな無色透明の水晶体が浮かんでいた。少年が水晶体に触れると、緑色の管は空気に溶けるように消えた。

 摩訶不思議な現象に困惑する少年だが、ふと部屋の外が騒がしいことに気づき、ようやく自由になった身体を動かした。管はなくなったが全身の関節や筋肉が軋むような痛みはまだ残っていた。それでも構わず少年は震える四肢を奮い起たせて部屋の扉を押し開けた。

 するとちょうど真緑の服を着た、30代半ばほどの男性が通りかかり、二人の目が合った。


「ちょうどいい! 来てくれ! 大変なんだ!」


 有無も言わさぬ勢いで男性は少年の二の腕を掴み、一面白い壁と天井で覆われた廊下を走った。今日は何故こうも走ってばかりなんだ、と少年は顔をしかめて溜め息を吐いた。

 すると突如、少年を掴んだ男性の手が放された。少年は苛立って男性を睨んだ。しかし、男性の方もきょとんとした顔で少年を振り向く。そしてその表情は一瞬にして凍りついた。

 男性の視線を追い、少年は自身の腕を見た。だが、そこには腕はなく、平たく潰れた服の袖だけがあった。少年は驚愕し、慌てて袖を捲るが、肘から下の部分が丸々、跡形もなく消滅していた。加えて見下ろすと、透けた細い両足も見え、その姿形はどんどん薄くなっていき、彼の身体の向こうの景色を露見させていた。


「君もか! なら話が早い! 急ごう!」


 男性は少年の服を掴み直し、再び走り出した。少年は存在の希薄な両足を奇妙な心境で動かし、男性の後に着いていった。

 とある部屋に入ると、男性と同じような服を着た男女が数人、寝台を囲んで何かしらの処置を施しているようだった。


「先生、やはり安定しません! このままでは消失ロストしてしまいます!」

「狼狽えるな。彼女の連れに同じ症例が確認された。彼の証言次第では、すぐに対応できる」


 『先生』と呼ばれた男性が、少年の服を掴んだまま寝台の脇に立った。同時に少年は寝台の上に横たわった、幼馴染みの少女を目にすることになる。共に異形の大軍から逃げおおせた彼女の全身は限りなく透けていて、今にも消えてなくなってしまいそうだ。


「彼女に何かあったんですか!?」

「落ち着け。君に幾つか問診したい。正直に答えるんだ、なるべく正確に。そうすれば彼女が助かる確率は高まる」


 眠っている少女の儚い寝顔を見て、少年は素早く首を縦に振った。男性は服のポケットから何やら小さい書物を取り出すと、彼の問診を始めた。


「君はこの世界の住人か?」

「え?」


 いきなりの質問に、少女の治療を急く彼も思わず聞き返した。男性は舌打ちすると繰り返した。


「どうなんだ? 答えろ」

「世界って……地球ですか?」

「違う――分かった、別の世界から来たんだな」


 勝手に結論付けられ、少年は男性の言葉を遮ろうとしたが、少女の命を考えて口をつぐんだ。


「自分の名前は思い出せるか?」

「え、あの……いいえ」

「彼女は自分自身の名前を覚えているか?」

「えっと……いえ、思い出せないって言って」


 ました、と少年が言い終えるのを待たず、男性は書物をあるページで押さえ、寝台に横たわる少女に呼びかけた。


「今から君の名前は【レインRAIN】だ」


 次の瞬間、消えかかっていた少女の肢体が、瞬く間に存在感を取り戻していった。やがて肉付きや輪郭が蘇っていき、少女の身体は元の状態に修復された。

 少年が安堵と驚愕の入り交じった表情で立ち竦んでいると、隣から男性が彼の肩を叩いて言った。


「君の名前は【グレイGRAY】にしよう」


 すると少年の身体も同じように透けた部位の色彩が戻っていく。間もなく彼の身体もこれまでと変わりない外見になった。


「よし、処置は終了だ。みんなお疲れ。あとは各自、好きにしてくれ。出来れば近い内に今回の件で資料を作成して提出してほしい。稀なケースだから記録に残したい」


 男性がにこやかに言うと、三人ほど残して他の緑の服の人たちは去っていった。残った者は寝台から彼女を担架に移し、別の場所へと運んでいった。少年が後を追おうとすると、分厚い書類を片手に男性が引き止めた。


「君も安静にしておけ。まだ疲労が回復していないだろう」

「一体なにが起きているんですか?」


 堪らず少年は言った。電車で異変に襲われて以来、全く状況が飲み込めない。彼の精神も限界だった。そんな少年の心境を察したのか、男性は書類を脇の机に置き、隣室から椅子を持ってきて少年に掛けるよう促した。


「僕はレッジLEDGEだ、よろしく」


 男性は不安げな面持ちの少年に手を差し伸べる。少年はそれに応えるが、言葉は出なかった。名乗るべき名前を、思い出せないからだ。


「俺は……俺の名前は……」


 吃っていると、レッジは少年の目を真剣な眼差しで見つめて言った。


「君の名前は【グレイ】だ」


 そう、言い切った。少年は日本の一般的な名前の形は覚えているため、そんな突飛な名前は有り得ないと言った。そもそも、見ず知らずのあなたが、自分の名前を知っているわけがないと。


「ああ。僕は君の『本当の』名前を知らない。君自身もな。だからさっき付けた。彼女と一緒にな」


 少年が眉をひそめると、レッジは『名前はひとまず置いといて』と話を区切った。


「ゆっくりでいい。君がここへ来た経緯を、最初から教えてくれるか?」


 腑に落ちなかったが、少年は全てを話した。電車で異変に襲われたこと、気づいたらあの草原にいたこと、名前を忘れてしまったこと、異形の軍勢に追われたこと――語り終えると、レッジは得心がいったような顔をして少年に向き直った。


「君は元の世界からこの世界へ【召喚】されたんだ」


 そうレッジは切り出した。少年も口を出さずにはいられなかったが、反論よりもまず真実を知りたい気持ちが強く、沈黙を守って彼の話に聞き入った。


召喚主しょうかんぬしは定かでないが、その誰かはかなり切羽詰まった状況だったんだろう」

「どうして?」

「召喚とは言っても、その実『転送』という方が言葉としては正しいんだ。通常、召喚主は特定の物体あるいは人間を指定し、更にそれを送る座標を指定して召喚するんだ――だが先ほどの話にあった、片腕を失った男性やデンシャという乗り物に起こった現象からして、召喚するのに指定されたのはデンシャを含んだ『一定の範囲』だと推測できる」

「一定の範囲?」

「ああ。それも走行中の乗り物の一部だ。座標を定める余裕すらなかったんだろう。そしてこの場合、召喚に指定された範囲外のものは、たとえ物体の一部であれ人間の身体の一部であれ、切り取って元の場所に残してしまう。その隻腕の男性はよっぽど運がなかったんだろう」

「じゃあ、つまり……」

「そう。その男性の片腕はデンシャの中に取り残されている」


 少年は背筋に悪寒を感じ、身震いした。もっとも、先ほどからの非現実的な単語の連続に対する驚愕の意味も大きかったが。


「もっとも、召喚に指定された範囲が完璧に把握できない以上、デンシャの付近を歩いていた通行人なども召喚された可能性も考えられる。君は召喚された人々の全容を確認できたか?」

「いや……大体100人いるかいないかくらいだと思います――多分」

「うむ。まあ、こんな大規模な召喚だ。君たちの目覚めた草原に召喚される途中で、他の場所に漏れてしまった人もいるだろう」


 少年は『あの!』と声を張り上げた。辛抱ならなかった。この一連の会話がどう考えても『異常』であることには端から気づいていたが、今ここで、ようやくそのことについて触れる決心がついたのだ。


「さっきから召喚とか言ってますけど……ここってどういう世界なんですか?」

「んー、どういうって言われてもピンとこないけどなぁ――強いて言うなら『得体の知れない魔物に侵略されつつある世界』かな?」


 レッジは顎に手を添え、熟考するような仕草で言った。少年は顔を歪めて『は?』と聞き返す。


「君たちは魔物に追われたんだろう? あいつらが今、この世界を脅かしているんだ。奴らは【クラウズcrowds】と呼ばれている」


 少年は訳が分からなかった。まるでフィクションのような世界観を当たり前のように語るレッジの気が知れない。クラウズと呼ばれているらしい魔物の大軍を、少年は確かに見ている。しかし、それでもレッジの言っていることを一から十まで鵜呑みにするには抵抗があった。嘘だと思いたい。夢だと思いたい。だが同時に、今まさに起こっていることが現実だと分かっているのは、他でもない自分自身だ。そんな相反する二面性が、少年をことごとく悩ませた。


「そ、そんな世界……危険じゃないんですか?」


 少年は平静を保つべく、加えて訊ねた。何も言わずにじっとしていたら、とてつもない恐怖と不安に頭がおかしくなってしまいそうだ。


「安心しろ。我々には【救世主】様がついている」


 レッジは自信ありげというよりは誇らしげな表情と声音で言った。その調子は、自分の親を自慢するようだ。


「救世主とは、この世界に危機が訪れる度に、状況を打開する切り札として任命される『選ばれし者』だ。彼がクラウズの軍勢を殲滅し、世界に安定と平和を取り戻してくれる。我々軍部は、その援護を使命としているんだ」

「そんな重大な責務、どんな人が担うんですか? そもそも誰が任命するんですか?」

「それは誰も――救世主様さえも知らない。歴史の表舞台には現れない、超秘密機関の一翼が決めているのかもしれないし、あるいは世界そのものが独立した意思を持って選んでいるかもしれない」

「それじゃあ救世主本人は、どうやって自分が選ばれたことを自覚できるんです?」

「古くからの書物によると、救世主は前触れなく突然、自分がそういう存在になったことを悟るらしい。その使命は知覚した時には、既に身に馴染んでいるとか」


 なんとも不明瞭で曖昧で、且つ突拍子もない選定だな、と少年は思った。第一、世界の存亡を懸けた使命をたった一人が、それも何の前兆も説明もなく背負うなど、考えただけでも怖じ気づいてしまいそうだ。それも、今回はあんな恐ろしい生命体を相手に。


「あんな奴らとどう戦うんですか……」


 逃避行の最中に刻まれた異形への畏怖は、未だ少年の精神を鉄鎖で縛りつけているようだった。


「ここで、君がさっき触れた名前が深く関係してくるわけだよ」


 最初からこの会話の流れを想定し仕組んでいたのかは知れないが、レッジは話題が上手く着地したことに喜んでいるようだ。少年は、その笑みがどこか自賛の色が濃く出ているかに思えた。


「まず名前とは、特定の存在を区別するための記号・呼称だけに留まらず、その存在そのものを世界に定着させる、いわば『魂の色付け』とようなものだ。分かりやすくいえば、名前があるからその存在は、その存在として世界にいることができる。僕だって『レッジ』という名前があるから、今ここに唯一無二のレッジとして存在していられるわけだ」


 なんとも抽象的な概念で判然としないが、少年は何となく分かった気になろうとした。


「君の元の世界では知れないが、少なくとも君が今いる我々の世界では、それが名付けの意味であり必要性なのだ。しかし君たちをこの世界に召喚するにあたり、元の世界での名前は、ここでは君たちを元の世界に定着させているものだ。だから召喚する際に、君たちはデンシャを始めとした世界そのものと一緒に、本来の名前さえ『引き剥がされた』んだ」


 確かに、車内で起きた現象を思い返すと、少年は重力に逆らって地上から引き剥がされるような感覚だった気がした。あれ以来、少年は自らの名前を忘れてしまったのだ。


「名前を引き剥がして元の世界の定着を切り離し、この世界に召喚できたはいいが、君たちには先ほどまで、この世界に独立した存在として定着するための名前を付けていなかった。だから存在として不安定であり、今回のような消失ロストの危機に瀕したのだ」


 だから俺が新たな名前を付けることで、君たちは存在としてこの世界に定着できたんだよ。と、レッジが言い終えたが、やはり少年には現実味の欠けたなんて話ではない、奇想天外で摩訶不思議な設定を容易には受け入れられなかった。

 だが、不思議と当初のような抵抗はなかった。鵜呑みにできないとはいえ、自分が『そう』なってしまったという事実を、少年は半ば認めてしまっていたのだ。

 他の生物にも言えることかもしれないが、人間は変化に自ら適応する生き物だ。逆に言えば適応しなければ生きていけない。適応を強いられている生き物だ。

 少年もまた、この世界に徐々に適応する姿勢を見せていたのだ。これは、少年がそれを初めて自覚した瞬間だった。


「混乱するのも無理はない……僕も配慮が足らなかったな。悪かった。今日はゆっくり休め。話ならいつでもできる。しばらくは絶対安静だから、院内で生活することになる。少しばかり窮屈かもしれないが、すぐに『慣れる』だろう」


 少年はレッジの『寝室まで案内するか?』という気遣いを遠慮して、一人、目覚めたベッドに戻った。しばらく独りになりたかった。

 少年は色々なことを考えた。元の世界の電車の事故はどうなったのか。行方不明扱いであろう自分や隣人である少女――レインの家族は今ごろ何を思っているだろう。あの草原にいた人々は無事に逃げおおせただろうか。森の出口で救助に駆けつけてくれた男性は、人間の軍隊は異形の軍勢に勝ち星をあげたのか。レインは今、どんな夢を見ているだろう。もしくは既に目覚めているかもしれない。ならば、まずは自分が付き添って状況を説明し、安心させてあげなければ。もっとも、こんな突飛な話を聞けば、更に困惑するだろうが。

 少年は、ふと自身のことを思った。忘れてしまった名前……かつて、元の世界で自分の身を案じているであろう家族が付けてくれた名前。それに代わる【グレイ】という新たな名前。自分という存在が、自分でいるための称号。今日から、自分は【グレイ】という新たな存在となるのだろうか。思えば、先ほども少女の家族や少女自身を考えた時、元の世界での本当の名前も忘れていたとはいえ、既に新しい名前で少女を認識していた。彼女はもう、【レイン】になったのだ。

 そういう意味では、今日は自分の……【グレイ】としての誕生日になるのか。こんな日に生まれるなんて、とんだ災難である。いや、こんな災難に巻き込まれたからこそ、今の自分が『生まれた』のだ。

 考えを無限に張り巡らしていると、グレイはいつの間にか眠ってしまっていた。

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