第3話

 暗く穏やかな潮の上を、彼女は名のないものとなって流されていた。風よりも希薄な古い夢の数々が、仄白い光となってはためき、繰り返し頬を撫でた。生まれては消えてゆくはかない生命の営みにも似て、彼女にとって何の意味も持たない情景が、緩やかに通り過ぎてゆく。それは彼女が体験したものではない記憶──あの不可解な文字が打ち明けた、大いなる太古の闇に埋もれた筈の、想像を絶する物語の断章であった。生身の人間にその全容がありのまま受け入れられる筈もなく、彼女がそれを平静に眺めていられたのは、意志や判断力というものが失われていたからだった。やがて意識が明滅しながら戻ってくるにつれて、見知らぬ世界の夢は吹き払われ、遠い過去の彼方へと帰っていった。それを理解することもできず、大半を忘却の圧力に委ねてしまったのは、むしろ幸運というべきだったろう。その秘密には人間としての正気を賭けるほどの価値があるわけではない。

 失神していたのはごく短い時間らしかった。中天に浮かぶ十三夜の月は、ほとんど位置を変えていない。アタランテは夜空をぼんやりと見上げ、自分が倒れているのがどこなのか思い出そうとした。意識にかかったもやが溶け去るにつれて、記憶がゆっくりと戻ってきた。倒れた時にぶつけた背中の痛みが、まだはっきり残っている──そして、下半身に異様な感触があった。

 彼女はびっくりして躰を起こし、脚のほうに目をやった。最初、それは黒い肌の赤ん坊のように見えた。大きな頭をしており、無毛で、乾いた皮膚は月の光を吸収して虚無のように黒かった。それはすらりと伸びた少女の白い脚の間にうずくまり、球根のような退化した指で下帯の内側を探り、彼女の秘密の部分をいじくっているのだ。

 悲鳴をあげて払いのけるよりも早く、その黒い生きものは後方に飛びすさり、二度三度と敏捷にとんぼ返りを打って、闇に紛れてしまった。彼女は狼狽してキトンの裾を押さえ、あたふたと立ち上がった。逃げる直前にちらりと彼女の顔を見上げ、洞穴のような空虚な眼で卑しげに笑った表情のおぞましさが、脳裏に生々しく焼きついており、思わず総毛立った。恥辱に対する怒りさえ、一時的に忘れてしまうほどだった。

 気がつくと、あたりにはおびただしい数の黒いものたちが寄り集い、彼女を取り囲む半円形の壁となって騒がしくひしめいていた。それらが肉眼で明瞭に見えるわけではない。地上の四大元素で構成されているのではないそれらのものたちは、通常の光線の法則を拒絶しており、そのため普通の方法では網膜に像を結ぶことはないのだ。まっすぐに凝視しようとしても、眼に映るのは不穏な空気をはらんだ夜の闇ばかりである。ただ、ほんの少し視線を横にそらすようにすると、意志を持った影の群れが騙し絵のように浮かび上がるのだ。あたかも光でない光、視覚を越えた視覚によって見ているようだった。今や彼女はその要領をすっかり飲みこんでいた。

 彼女は悪夢のただ中にいた──汚らわしい目的を持って集まったものたちは、絶え間なくうごめき、はしゃぎ、這い回っていた。大半は形の定まらないものや、形容を絶したものたちであり、その意味を理解できないことに感謝した。鳥のように翼を拡げたもの、蛇のように身をくねらせているもの、巨大な犬のようにうずくまっているものなども見かけたが、実在の動物との相似はごく表面的でしかなかった。時には先程の小さな生きもののように、人間を戯画化したようなものも見かけたが、なまじ人間に似た部分があるために、その異様さはひときわ強烈で、吐き気を催すほどの不快さだった。造化の神への冒漬としか思えない。慌てて顔をそむけ、見てしまったことを後悔した。

 本能的に耳の後ろの隠し場所に手をやり、ぬらぬらした分泌液のような物質が髪に付着しているのに気づいた。失神している間に、何かが彼女の髪をいじっていたのだ。危惧した通り、髪飾りはなくなっていた。

 うろたえて周囲を見回すと、さほど離れていないところに金色に光るものが落ちていた。急いで駆け寄り、拾い上げようとする──だが、気がついてみると、彼女はまったく見当違いの方向に走っていた。驚いて振り返ると、髪飾りの落ちている場所はずっと斜め後方だった。

 何度繰り返しても同じだった。髪飾りに触れることはおろか、近付くこともできない。髪飾りがあちこちへ移動しているようには見えないし、彼女を押し戻す物理的な力も感じられなかった。この周辺の空間が奇妙にねじ曲がり、彼女の方向感覚を惑わせているらしい。まっすぐに歩いているつもりでも、いつの間にかとんでもない方向に進んでしまうのだ。人を小馬鹿にしたような魔法だった。愚かな徒労を重ねた挙句、彼女はついに髪飾りを取り戻すことを断念した。くすくすという意地悪い笑いが、黒い観客たちの間から洩れた。

 絶望と敗北感を噛みしめながら、黒いものたちの群れに向き直った。邪悪な力線が鳥籠のように彼女を封じ込めていた。所有者を守護する筈の髪飾りの魔力も、黒い力に対しては何の役にも立たない。まして素手や短剣で勝てるとも思えなかった。期待に満ちた黒い視線がちくちくと肌を剌し、恥辱とおぞましさで気が狂いそうだった。

 混沌とした頭の片隅で考えていたのは、あの石板に彫られていた文字のことだった──そこに語られていた物語は、狂人の夢にさえ出てこないような種類のものであり、彼女の知力のすべてを振り絞っても、概略の一端を垣間見るのがせいぜいだった。強引に人間の言葉に置き換えてみるなら、次のようになる。

 逢かな昔、光と闇の勢力がこの世界の覇権をめぐって争った。破れた闇の勢力は、大半が外宇宙の暗黒(それは彼女には理解できない概念だった)へ追放されたが、一部は何らかの理由により、この岩山に封じこめられた。その後、光の勢力がどこへ去ったのかは分からないが、彼らは後世への警告として銘板を遺したのだった。黒いものたちは眼に見えない力によって厳重に封印され、普段は決して岩山の外に出ることができない。ただ二つの要素が重なった時だけ、封印は一時的に弱まり、黒いものたちは自分らの姿や力を外部に投影することができるのだ。その二つの要素とは、ひとつは月の光であり、もうひとつは“血”の匂いであった。

 彼女をとりわけ怯えさせたのはその部分である。“血”という単語のニュアンスは、怪我をした時に腕や脚から流れる血を意味しているのではなかった。健康な女性が月に一度流す血。生命の神秘と密接に結び付いた血。彼らがアタランテを犠牲に選んだのも、迫りつつある“血”の匂いを嗅ぎつけたからだろう。彼女は自分では気付かぬうちに、黒いものたちを解放する鍵になっていたのだ。一夜の仮の自由を得た彼らが、“血”の匂いだけで満足するとは思えない。これからどんなことが起きるのか、想像するのも恐ろしかった。

 黒いものたちはじわじわと前進し、包囲の輪を縮めはじめた。言語に絶したおぞましい行進である。嫌悪感に身を慄わせ、彼女は思わず後ずさった。剥き出しの肩が冷たい岩壁に触れる──と、がっしりした腕が背後から襲いかかり、肩をわしづかみにした。太い指が柔肌に食いこむ。苦痛に悲鳴をあげ、全身の力を籠めて必死でもぎ離した。振り返ると、何十本もの黒い腕が岩壁からぞろぞろと生えており、彼女を捕えようと盲目的に宙を探っていた。

 どこにも逃げ場はなかった。あがいてもどうにもならないことを痛切に思い知ると、絶望のどん底でかえって冷静さが戻ってきた。恐慌にかられて見失いかけていた本来の自分を取り戻すにつれ、誇りを踏みにじられた怒りが、ふつふつと沸き立つ気概となって血管を駆けめぐった。破滅を恐れて逃げ回るのは性分ではないが、強大な力の前にあっさりと屈服するのも自尊心が許さなかった。運命が避け難いのなら、それに正面からぶつかっていってやろう。どんな結果が待っていようとも、最後まで抵抗することをやめたりはすまい。そう決意すると、心にのしかかっていた重圧がいくらか楽になったようだった。

 さっき森の中で出遭ったのと同じ翼のある生きものが、またも頭上から飛びかかってきた。骨ばった指が髪をかきむしる。無茶苦茶に短剣を振り回して追い払うと、その間に蛇のようなものが脚にからみついていた。そいつは歯のない口で足指にしゃぶりつき、何かをすするようなちゅるちゅるという気味の悪い音をたてた。そいつを引き剥がすのはひと苦労だった。

 四方から飛びかかってくる敵に対して、繰り返し短剣をふるったが、空気を相手にしているようでほとんど用を成さなかった。時たま手応えがあっても、切られた生きものはちょっとの間ひるむだけで、すぐまた襲いかかってくる。本来、影のような存在である彼らは、この世の武器で傷付けることはできないのだ。一矢を報いることもできぬ悔しさに、アタランテは憤りの涙を流しながら、痛ましい反抗を続けた。

 今や数多くの黒い生きものが彼女の四肢に取りついていた。あるものは苦渋する男の顔を背中に刻んだ大きな蛞蝓なめくじで、白い太腿ふとももを這いながら汗を舐めていた。首にからみついた乾いた生きものは、芋虫のような触手を耳の孔にねじこもうとしている。他にも頬に流れる涙を啜るもの、脚を撫で回す煙のようなもの、キトンの下に潜りこんで乳首を噛むものなどがいた。

 めくるめく混沌の渦に紛れて、耳許でぼそぼそと囁く声があった。あの石板に刻まれた文字と同じ、彼女の聞いたこともない言語だったが、その冒漬的な内容を直感的に理解してしまった。人間としての自尊心が強烈な嫌悪に慄え、恥辱で顔が熱くなった。

 轟音をたてて回転する巨大な暗黒の中心にあって、彼女は嵐に翻弄される一匹の蝶のようにはかない存在だった。少女のしなやかな肢体に群がった黒いものたちは、彼女を嘲笑し、振り回し、揉み苦茶にした。絶叫がひときわ高く夜の大気を慄わせた。しっかりと握り締められていたか細い指が強引に押し開かれ、汗で湿った短剣が虚空に奪い去られる。ささやかな反逆のよすがすら否定され、彼女の野性の闘志は氷の矛のように砕け、勢いを失った。凶暴な黒い旋風になす術もなく押し流されるまま、ちっぽけな躰はぐるぐると回転し、奇怪な舞踏を演じた。一回転ごとに身に着けた衣類が少しずつ剥ぎ取られてゆくのを感じたが、どうすることもできなかった。

 星と月が頭上で旋回していた。あらゆる印象が混乱し、恐怖と不快感で息が詰まった。虚空から打ち寄せる熱い歓喜のどよめきは、砂浜をかき乱す荒々しい潮にも似て、肉体を侵蝕し、魂の深奥の暗い部分を揺さぶった。狂気じみた眩暈めまいに苛まれ、目に見えない網から脱け出そうと必死にあがきながらも、混沌の中を貫く一連の旋律には気づいていた。それは人間の生み出す音楽とはおよそ異質なものであったが、心の裏側にうごめく暗い野獣の欲望を刺戟し、気味悪いほどの親しみを感じさせた。詰まるところ、この黒いものたちの本質は自分の内にあるものと同一なのかもしれない。そう考えると、身に迫る脅威に対する不安はいっそう激しいものとなり、ここから逃がれたいという想いは切実になった。だがそれは自分自身から逃がれようとするに等しい無益な努力だった。

 彼女を苦しめる黒いものたちは、強烈な悪意に満ちてはいたが、奇妙にも一片の敵意も感じられなかった。その悪意でさえある種の愛情に根ざしているように思えた。彼らは少女を傷つけるつもりなど毛頭なく、それどころか彼らなりのやり方で精一杯の愛を表現しようとしているのかもしれない。狂気の一歩手前の錯乱状態の中にあって、彼女はその虫唾の走る考えを否定しようと必死だった。

 熱烈な好意から出たものにせよ、黒い小悪魔たちの理不尽さは筆舌に尽し難く、とうてい正気の人間に耐えられるものではなかった。数知れぬ手が、羽根が、舌が、ひれが、触手が、花弁が、偽足が、訳の分からぬ異様なものが、全身に泥のようにまとわりつき、限りない優しさをこめて肌を愛撫する。毀れやすいガラス器を扱うような愛おしさでたおやかな肢体を撫で回し、恐怖と混沌の渦を通して、想像したこともない心地良い感触をもたらし、彼女を戦慄させた。狂ったように笑い、叫び、身をよじっても、躰の中から湧き上がる熱い血のうずきからは逃がれようがない。それどころか、屈辱や不快感が狂おしく身を焦がせば焦がすほど、それはこの異常な快楽の香辛料となり、魂の中の汚らわしいものを歓ばせ、愛撫をよりいっそう淫らで強烈なものにするのだ。意識はしだいに朦朧となり、自分を中心に回転する全宇宙が、巨大な石臼となってわずかに残った正気を摺り潰してゆくのを、ぼんやりと感じていた。

 もしその光景を目撃した者がいたなら、あまりの異様さに絶句したことだろう。灰を溶かしたような仄白ほのじろい月光にとっぷりと浸された岩山の麓の斜面で、一糸まとわぬ姿の少女がただひとり、狂ったように叫び、泣き、苦悶し、地上のものではない悦楽に半ば酔いしれながら、不器用に踊り回っているのだ。その白い裸身に群がる黒い生きものたちは、視覚の外の影でしかなく、地鳴りのように轟く異世界の凱歌も、彼女の耳にしか聞こえなかった。すでに反抗する力も意志も喪失した少女は、見えない力に弄ばれる哀れな操り人形だった。

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