〔アタランテ〕 月下の魔宴

山本弘

第1話

 遠方の峰から眺めると、その赤錆色の醜い岩山は、緑の大地に寄生する巨大な毒茸のように見えた。豊潤な樹林に覆われたなだらかな盆地の一画を力まかせに押し開き、むっくりと天に向かって盛り上がったそれは、乾いた傷口を思わせる荒々しい岩肌を、エーゲ海沿岸地方の明るい陽光の下に晒している。みすぼらしい雑草や灌木の類の他は、その表面を彩るものは何もない。周囲の牧歌的な風景とはあまりに異質であるがために、見る者は誰でも、ある種の新鮮な感動とともに、どことなく不吉な疑惑を覚える。

 事実この地方には、苔生し、ほとんど朽ち果てかけたひとつの伝説がある。それは名すら思い出せぬ古い叙事詩の断片であり、いくつもの時代と民族の移り変わりの中で、その真の意味は失われ、今に伝わるのはおぼろげな形骸のみである。大いなる神々と暗黒の勢力の争いのモチーフは、一見すれば馬鹿らしいほどに単純であり、それを心底信じているのかと問われたら、大抵の者は曖昧に首を傾げることだろう。しかし、時として岩山をめぐって起こる説明不可能な怪異は、人々の心を揺さぶり、彼らが現実と呼ぶものが不安定な一枚板にすぎぬことを思い出させるのだ。

 何世紀もの間、近づく者とてなく打ち捨てられていたその不浄の域に、ある時、一人の娘が足を踏み入れた。通りすがりの流浪者にすぎぬ彼女が、岩山にまつわる言い伝えを知っていた筈はなく、まして超自然の不可思議と人生の苦渋を自ら求めてやって来たわけでもない。宿命や因縁など、彼女は信じなかった。自分が巨大な存在に操られる人形にすぎないという負け惜しみじみた思想は、気位の高い人間には受け入れ難いものである。

 だが、あの夜の異常な出来事がすべて、不幸な偶然にすぎなかったと言い切るのには、どうしても躊躇いがあった。生と死の境を越えた残酷な体験に何の意味もなかったのだとしたら、あまりに救いがなさすぎる。ずっと後になって思い返してみても、彼女には分からないことばかりだった。ただひとつ確かなのは、あの夜、自分の中の一部が永遠に変質してしまったということだ。おそらく真実とは常に不愉快なものであり、それをひとつずつ発見してゆくことによって、人は成長し、稼れ、死に近づいてゆくのだろう。

 いずれにせよ、赤い岩山は沈黙して語らなかったし、彼女自身も自分の体験を記憶の奥深く封じ込め、終生、誰にも打ち明けることはなかった。それは後世に語り継がれるような物語ではなく、彼女と共に生き、彼女の死と共に滅びるべき物語だったから……




 変に静かだ、とアタランテは思った。冷え冷えとした地面に片肘をついて半身を起こし、暗がりの中で耳をそばだてた。幽かなざわめきの尾を曳いて樹々の合間をすり抜けてゆく夜風の他は、何ひとつ物音をたてるものはない。葉梟はずくの悲しげな鳴き声も、蟋蟀こおろぎたちの囁きも、今夜は聞かれない。天頂近くに懸かった十三夜のいびつな月から、輝く霧雨のように寂々と地上に降り注ぐ青白い光の下で、生きとし生けるものすべてが、死の国さながらに静まり返っていた。

 彼女は不安にかられて、粗末な毛織物の外套ヒマティオンの中で寝心地悪そうに身じろぎした。これまで何百という夜を野山で過ごしてきたが、こんな落ち着かない気分は初めてだった。月の障りの前とはいえ、あの何とはなしに苛立つような感じとも、明らかに違っている。うまくは言い表わせないが、何か途方もないことが起こりそうな気がするのだ。それは孤独という名の炎で灼かれ、日々の獲物との闘争で鍛えられ、厳しい風雨によって研ぎ上げられた、優秀な狩人のみが有する野性の直感である。

 気味の悪い寒気が背中を這い回り、心の糸をかき乱した。恐怖というものの意味を、彼女は誰よりもよく知っていた。畑仕事や機織はたおりをして平穏な日々を送っている人間には、あらゆる感情を押し潰す圧倒的で純粋な恐怖など、一生のうちにそう幾度も体験する機会はない。数々の死線をくぐり抜け、時には死よりもおぞましい危険と対決してきた彼女には、身に振りかかる苦痛や悪意それ自体よりも、そこに含まれる恐怖を味わうことのほうが耐え難かった。

 今では最も警戒せねばならないのは自分自身だということに気づいていた。十四歳という年齢は、無知を軽率な行動の免罪符にできるほど若くはない。罠を嗅ぎ分けられるだけの分別があるなら、最初から避けて通ればいいのだから。だが、彼女にはいつもそれができないのだった。罠であることが分かっていながら飛びこんでしまい、後で自らの浅慮を悔やむ破目になるのだ。

 あたりに張り詰めた冷たく忌まわしいものの気配は、彼女に動くことを禁じていた。闇の中に潜む何者かが、彼女が行動を起こし、自分から罠に落ちることを期待して、息を殺して見守っているのである。好気心は今夜は死を意味していた。アタランテは拗ねたような唸り声をあげると、外套ヒマティオンを肩に引き寄せ、胎児のよう躰を丸めて、何とか眠ろうと努力した。朝になったらすべては去ってしまっているだろう。そうしたら何もなかったふりをして、また旅を続ければいいのだ。眠っている間に忍び寄ってきた何者かに殺される懸念がないではないが、気づく暇もなく死ぬのなら、それは大して恐ろしいことではない。

 だが、自分の感情を偽ろうとするのは徒らな努力でしかなかった。固く眼を閉じて無理に眠ろうとすればするほど、安らかな眠りは遠のき、胸騒ぎはひどくなる一方だった。ある意味で、彼女はあまりに自分に対して正直でありすぎるのだ。それは彼女の最大の美徳であると同時に、致命的な欠点でもあった。もし今夜、怠慢と弱気ゆえに何も知ることのできぬまま終わってしまったら、これから一生、卑下の念に苛まれるだろう。恐怖に満ちた死と比して、どちらがよりつらいことだろうか。

 彼女は呪った。自分自身を──その信念、その生き方を。どうしてこんな苦しい道を選んでしまったのだろう? 他の娘たちのようなありふれた慎ましい生き方が、何故できなかったのだろう? 水を汲み、パンを焼き、機を織り、夫の服の洗濯や赤ん坊の世話……いや、それは今さら悩んでも仕方のないことだ。決断を下したのは遠い昔のことであり、今となっては後戻りは許されない。これまでも積極的に危険と対決してきたのだし、これからもそうする以外ない筈ではないか。

 しばらく闇の中にじっと臥したまま、心の中の圧力が臨界点に達するのを待ち受けた。彼女の気性からすれば、いずれは起こらねばならないことである。やがて大きく吐息をつくと、自らの気弱さを振り払うかのように勢いよく起き上がった。肩に付いていた枯葉が乾いた音をたてて舞い落ちる。

 葉叢はむらの合間から差し込む仄白い月の光が、立ち立がった若い女狩人のしなやかな躰の曲線を、老練の画家が白墨チョークで描いた素描画さながらに、闇の中に将かび上がらせた。陽光の下では黄金色に輝く肌も、今は雪花石膏アラバスターを思わせる病的な白さだ。まだあどけなさの残る少年のような顔立ちは、肉感的と呼ぶにはほど遠いものであったが、力強く生きる者のみが持つ容姿を超越した魅力を、ふつふつと内にたぎらせていた。黒曜石の瞳はさざめく小さな光の華を宿し、艶やかな黒髪は夜の闇に溶けこんでいる。

 自分を取り巻くものの視線を心の隅で意識しながら、アタランテはゆっくりと身繕いを整えた。あちこち綻びた薄汚れた外套を無雑作に羽織り、枕許に置いておいた弓とえびらを拾い上げ、肩に吊す。入念に研ぎ上げられた青銅の短剣を腰帯に挟み、火打ち石ややじり、麻紐といった細々とした日用品は、ひとまとめにして小さな革袋に入れ、腰にぶらさげた。男物の亜麻布の薄衣キトンの下からすらりと伸びた両脚は、粗末な革畦サンダルをふくら脛に締めただけの裸足も同然である。これらが彼女の財産のすべてだった。

 いや、もうひとつある──彼女は耳の後ろにそっと手をやり、髪の中に隠された尖った二又の留針の感触を確かめた。無一文の娘に似合わぬその黄金の髪飾りは、不思議な経緯から彼女の所有となったもので、超自然の力か物質の形に結集したものらしかった。それは一度ならず彼女の生命を救った強力な武器であるが、得体の知れぬ力の裏に潜む危険性をおぼろげながら感じていたので、どんな危急の際にも決して信頼すまいと心掛けていた。破壊のみの力など、王にしか必要のないものだろう。狩人にふさわしくないこんな代物など捨ててしまえればいいのだが、それを手放す時は所有者が死ぬ時であるという警告を受けていたので、そうもいかなかった。今夜にしたところで、いつこれが敵に回るか知れたものではない。

 重い心を引きずるようにして、少女はそろそろと歩き出した。足の下で枯葉が鳴った。この静寂の中では森中に彼女の位置を知らせているようなものだったが、今さら身を潜めても仕方がない。何かが襲ってくるのなら、むしろ早く来てくれたほうが気が楽だ。

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