第2話

 自分でも状況に合わない間の抜けた声だと思った。

 一方でそれは理解が追いついていないゆえの、空振りのような発言だったからだというのもわかっていた。

 自分が誰なのかわからない。あまりにも単純な絶望に、早々に立ち去るべきと決めた場所から私はいまだに動けずにいた。

 どれだけそうしていただろうか、意識の外に追いやられていた扉越しの水音が耳に入り、私は現実に引き戻された。

 そうだ。こんな場所にいるべきではない。

 私は気持ちを切り替えて出口へ向かう。その途中、机に置いてあったカタマリに気づき、再び私の足は止まる。

 それは何度も私の目に入っていたはずだが、今の今まで何であるかわからなかった。というより、机の上の小物だとか、そういうものに気を配れるほど冷静な状態ではなかった。

 しかし、今真横にあるそれは、はっきりとその存在を主張している。

 それはおよそシャワールームの控室などに相応しくない、禍々しいモノ、拳銃だった。

 どうしてそんなものがここにあるのか想像もつかなかったが、私はそれを無意識のうちに手に取り、懐にしまいこんでいた。

 なぜそんなことをしたのかわからなかったが、あまりにも自然な動作で、もしかしたら記憶を失う前の私に関係しているのかもしれないと思った。

 こんなものを持っていてることがバレたら自身の立場を余計危うくするだけとはわかっていたが、どうにもそれを元の場所に戻す気にはなれなかった。

 今は悩んでいる時間も惜しい。私は意を決して扉を開けた。


 廊下は静寂に包まれていた。

 一見して広い建物だとわかるつくりに、しかしそれに見合うだけの人影も喧騒もない。

 もしや自分だけ取り残されてしまったのではないかと一瞬不安が胸をよぎるが、先ほどシャワールームに先客がいた事を思い出し首を振る。

 しかし、回りには地図や案内板らしきものも見当たらない。

「どっちに行けば良いんだ……」

 思わずこぼすが、当然それに答えてくれる声もなかった。

 仕方なく適当に廊下を進んでいると、不意に何かを感じた。

 足を止めて耳を澄ませてみる。それになにやら同じ方角から、温かさというか、空気の流れを感じる。

「まさか、誰かいるのか!」

 異常なまでの静けさと、自身が何者かもわからない不安とで、寂寥感に襲われていなかったといえば嘘になる。

 わからないことだらけではあるし、自分自身も怪しいところだらけではあろうが、少なくとも今の見かけは研究員の一人だ。いきなり撃たれるということもないだろう。話す機会くらいは持てるはずだ。とにかく、急ごう。

 逸る気持ちを抑えきれず、歩みは早足になり、早足は駆け足になり、やがて息をきらしながら音のする方へ走っていた。

 すぐに、半開きになっている扉が見え、音がその先からすることがわかる。

 勢いよく扉を開け飛び込むようにその先へ……そんな行動を取るより一瞬早く、違和感に気づき、半開きの扉に手をかけたまま体を止める。

 音は、確かに聞こえる。

 しかしそれは、足音や談笑のような音ではなく、もっと重く響く振動と、獣が唸るような声だった。

 風は、確かに流れてくる。

 しかしそれは、人ごみの暖かさでも空調による快適な空気でもなく、言いようのない生臭さを運んできた。

 私は、おそるおそる戸の隙間から先の通路を覗きこんだ。

「――ッ!!」

 そして、それと目があった。

 それは、ぬめぬめとしたどどめ色の肌を晒し、おおよそ人とは思えない巨体を持ち、そして周囲に死体の山をつくりあげる、まさに怪物だった。

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