第一章 5 第一の懸案

 好天に恵まれ、捕鯨船は予定の航路にもどった。

 逆に、空中高く水を吹き上げるクジラの姿もぴたりと絶えてしまったが、おいらはそれどころではなかった。


 問題はエサだった。


 ボコイは腹をすかせたようすをまったく見せないし、元気がなくなるわけでもなかった。

 だが、生き物であるかぎり、何かを食べなければ生きていけるはずがない。

 おいらはちょっと心配になり、そしてだんだんあせりはじめた。


 いちばんそれらしい木の実からはじまって、船で手に入るかぎりのあらゆるものを与えてみたが、すべてだめだった。

 途方にくれたおいらは、リョウマがいるいつものへさきにへたりこんだ。


「なあに、ほんとに腹がへれば食いはじめるさ。もしかしたら、船員のだれかがこっそりこいつの大好物でもくれてやってるのかもしれんぞ」

 リョウマはまったくのんきなものだった。

 とっておきのタバコを取り出し、パイプにつめて防水マッチをすった。

 ひと揃いの喫煙道具は、水の都ヴェネツェラの海岸で、お忍びで保養に来ていたデンマールの王子と知り合いになったときにもらったものだった。

 リョウマは不思議なほどだれとでもすぐ友だちになれる男だ。

 やっと火がついて煙をプーッと鼻から吹き出すと、用のすんだマッチを海にむかって投げ捨てようとした。


 そのときだった。


 ボコイがいきなりおいらの肩を蹴って跳び上がり、空中でマッチの燃えがらをパクッとくわえたのだ。


 おいらとリョウマは、きょとんとしてそれを見ていた。


 ボコイは甲板にトンと着地し、こちらを見ながら口をもぐもぐとさかんに動かした。

 やがて、もういいとでもいうように、海面めがけて粉々に噛みくだかれた木の軸と燃えかすをププッと吹き飛ばした。


 リョウマの眼が輝いた。


「そうか……わかったぞ!」

 そういうと、新しいマッチを一本、ボコイの眼の前に放った。

 ボコイは首を伸ばし、小さな口から舌を突き出して、ちろちろとマッチの先端をなめはじめた。

 眼を満足そうに細めながら、一心不乱にその作業をつづけている。


「やっぱりな。木が好物であるはずがない。もしそうだったら、今ごろ船はあちこちこいつのかじり跡だらけになってるだろう。ほら、憶えているか? 卵があった場所じゃ」

「あっ」


 おいらも気づいた。

 ボコイの卵がのった岩の上からは、煙がモクモクと立ち昇っていた。

 噴気孔があったのだ。

 そこから噴き出したものが岩肌にこびりつき、黄色い粉をかけたようになっていた。


「あれはイオウじゃ。マッチの燃える成分にはイオウが含まれちょる。こいつの食い物は、イオウだったんじゃ!」

 いうが早いか、リョウマは甲板を駆けだした。

 おいらもボコイを抱き上げ、あわててその後を追った。


「船長、イオウがほしいんじゃ」

「い・お・う? ホワット?」

 リョウマがマッチを示すと、エイブラハム船長はうなずいてポケットから自分のマッチを取り出した。

「いや、そうじゃなくて……おい、訳してくれ。イオウじゃ!」

 リョウマはいらだたしげに頭をかきむしり、おいらに助けを求めた。


 何かの交渉のときのお決まりのパターンだ。

 おいらが通訳してやらなかったら、話はろくに通じない。

 リョウマがだれかと意気投合して大いに盛り上がっていても、両者がぜんぜんちがうことについて話しているなどということは日常茶飯事だったのだ。


 リョウマは最初ラメリカに渡り、ろくにイグランド語もしゃべれないまま、数年間その国をあちこち放浪していた。

 しかも子連れでだ。おいらが無事でいられたのが不思議なくらいだ。

「そういやァ、ニューオークへ行くつもりが、夜行列車で目覚めたらニューオーレアンだったなんてことがあったな」

 などと平気でいう。

 ニューオークは広大な大陸の東の端っこ、ニューオーレアンは最南端の街だ。

 あきれてものもいえない。

 結局、背負った赤ん坊が成長し、なんとか通訳をつとめてくれるようになるまで、万事その調子だったってことになる。


「ちがう、リョウマ。そっちはレストラン。こっちがホテルだとゆうちょるんじゃ」

 おいらの記憶のほとんどは、そんなふうにリョウマの聞きまちがいを正す場面で成り立っている。

 ドーチェス語もフランセ語も、その土地に着くたびに、おいらは眼と耳を総動員してほんの数日で憶えてしまわなければならなかった。

「おまえさえいなかったら」なんて、よくもまあいえたもんだと思う。


 だが、イオウなどという単語は知らなかった。

 こまるのはこういうときだ。

 リョウマが身ぶり手ぶりをまじえて日ノ本ヒノモト語でまくしたてる。

 それをいちいちイグランド語に訳して、相手になんとか理解してもらうしかない。

「ええと……銃や大砲を撃つときに使う……ひどい匂いがする……黄色い粉で……」


 ようやくエイブラハム船長も合点がいって、武器庫に案内してくれた。

 おいらが少し手のひらにとってボコイの鼻面に近づけてやると、大豆ほどの塊を口に入れ、コリコリとかじって満足そうな顔をした。

「ほう。こんなものを食う動物がいるとはなあ」

 エイブラハム船長はそのようすを珍しそうにのぞきこんでいった。


 ボコイが大量にむさぼり食うわけではなさそうだとわかると、当面必要な分だけ分けてくれた。

 火山島が連なる列島を航行しているのだから、つぎの補給地に着けばイオウくらい簡単に手に入るからである。


 懸案はようやく解決した。

 こうして、何から何まで奇妙な動物が仲間になった。


 そして気がついてみると、リョウマとおいらが捕鯨船を降りる予定になっている目的地が、もうすぐそこまで近づいてきていた。

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