崩壊モラル

 その禁忌は甘美な蜜の味にも似て――


 半年という時間は長いのか短いのか。そう問われたとしたら、僕は「長い」と答えるだろう。

 一年前、この高校に国語の教師として赴任したものの、僕はその風貌のためか、生徒達から「メガネキュウリ」と揶揄されていた。

 子供の頃から病弱で線が細く気も弱い。僕はおおよそ教職に向いている人間ではない。それでもこの就職難のご時世では、職にありつけるというだけでありがたかった。こんな時に、大学時代、親から強引に勧められ取らされた、教員免許が役に立った。

 ただ、随分年下であるはずの生徒達すらも「メガネキュウリ」とせせら笑うほど弱々しく見えるらしい僕にとって、この高校での教師という仕事は、お世辞にも安易とは言い難かった。授業なんてものは名称がそうであるだけで、僕が独り言を呟きながら、黒板に意味不明な言葉を延々と書き記しているようなもので、全くの無意味だった。

 それでも当時、僕の心が折れず教師を続けることができた理由はたった一つだ。その理由がなかったならば、僕は適当な理由を見繕い、何の未練も躊躇もなく教職を辞したことだろう。

 その理由を不純だと断じられても、僕には否定することができない。彼女がこの高校の生徒であり、どんな事情があれども教師と生徒という一線を超えてしまった可能性の前では、教職は罪人であることと同義だからだ。

 理由は定かではないが、彼女は僕の授業をとにかく真面目に受けてくれた。友人との会話、読書、携帯弄り、携帯ゲームとそれぞれが欲望のままに遊び呆け、誰一人として僕を教師として見てもいないあの空間で、彼女だけが僕の言葉を聞き、僕の言葉を記し、時に質問すらもしてくれた。

 騒々しくおおよそ勉学に励むような空間ではないはずのその教室で、僕と彼女だけがひたすらに授業を続けた。それはある意味で至福の時間だった。教鞭を振るう者としては失格であるはずの僕にとっての、彼女はたった一人の生徒だったからだ。

 彼女はとても僕に係わるような生徒には見えなかった。明朗快活ではあるものの、目立つような何かを持つ生徒ではない。容姿も、成績も、行動も、何もかもが普通だった。いや、じっと僕を見詰める妙に艶っぽく潤んだ瞳は印象的だった。

 彼女がどうして僕のような「メガネキュウリ」に興味を持ったのか、その理由は今でも分からない。

 特別な存在となった彼女への心に秘めた感情が、僕のささやかな教師としての矜持を超えてしまうのにさしたる時間は必要としなかった。

 その日の早朝、僕は図書室で蔵書の整理をしていた。図書委員はいるらしいが名目だけで、借りる者も管理する者もおらず、それらは埃に塗れていた。僕に義務がある訳ではないが、それらがあまりにも不憫に思えて、時間を見つけては蔵書を整理し、清掃していた。

 そこに彼女が姿を見せた。それまで彼女との接点は授業中のやり取りにしかなかった。僕は彼女への好意を隠していたし、何よりもその頃は教師と生徒という立場は高すぎる壁だと思っていた。

 その時の彼女の顔を、きっと僕は忘れることはできないだろう。虚ろに開かれ潤んだ瞳、朱色に染まった頬、噛み締められた唇、手首から流れる血、頬に張り付いた髪は汗と涙に濡れ、失禁しているのか内太股をそれが伝っていた。だがそれでいて、彼女はどこか恍惚に微笑んでいるようにも見えた。

「せんせぇ、たすけて」

 呆然としたまま崩れ落ち意識を失った彼女を抱き寄せる。不意に鼻腔をくすぐったのは間違いなく強い女の色香だった。あっさりと決壊しそうになる情けない自制心を必死に支えた。

 何度も頭を振り、愚かな劣情を心の奥に追い遣りながら、彼女を横にしその身体に背広を掛けた。手首には幾層もの切創が走っていた。

 混乱した頭を落ち着かせる為、椅子に座り両手で頭を抱える。どちらにしても彼女の両親に連絡する必要がある。ただこの状況をどう説明すればよいのか、考える必要があった。僕は彼女について教師と生徒という接点以外の何も知らない。当然、この彼女の惨状についても何も分からない。

 次の瞬間、後頭部に重い鈍痛が走った。薄れていく意識の中、視界の端に入ったのは無邪気でありながらも妖艶な笑みを浮かべる彼女だった。その瞳に恐ろしいほどの劣情が宿っているのを、確かに僕は見た。

 それから数日間の記憶は曖昧だ。医師によれば、それは体験した強烈な出来事の記憶を、自己防衛の為に乖離しているかららしい。

 彼女のことを思い出そうとすると震えが止まらなくなる。だが同時に身体の芯が熱く火照ってしまう。

 いや、本当は分かっている。あの数日間、彼女と僕が何をしていたのか。見開かれ狂気と愛に憑かれた眼、朱色に染まった肌、桃色の蕾、艶めかしく蠢く舌、張りのある果実、溢れる甘い愛の蜜、両手足の痛み、身体の芯までつながった感覚と激しい苦しみと快楽。知らないはずの彼女のそれらを、どうして僕は覚えているのか。

「先生、ぼうっとしてどうしたの」

 あれ以降、雰囲気が変わったと周囲は言う。それまで「メガネキュウリ」と馬鹿にしていた生徒達が真面目に授業を受けるようになった。

 僕自身は何かが変わったと思ってはいない。ただ、彼女のいない毎日に、なぜか心にぽっかりと穴が空いてしまったかのようで、全てが色褪せてしまっていた。

「いつも手伝わせてすまないね」

 この時間の図書室は何かと都合がいい。下校時間を過ぎれば教師も生徒もまず訪れることはない。心の穴を埋める為に何人かの生徒にありもしない愛を囁き関係を持ったものの、それらが埋まることは決してなかった。

「だって、先生の頼みだもん」

 頬を染め微笑む少女に笑みを返しながら、心の中で「君では足りないんだよ」と呟く。

 満たされるはずがない。彼女とこの少女とは何もかもが違う。何もかもが物足りない。清純さなんて糞だ。美貌なんぞ虚飾にすぎない。心遣い、貞淑、尻軽、色、艶、甘さ、冷たさ、殺意、そして狂気。この少女には全てが足りない。

 図書室の整理を手伝ってくれている優しい少女を、僕は酷く醒めた感覚の中で見詰めた。どうしても、つまらない女にしか見えない。

 いつから僕はこんな腐った人間になったのだろうか。僕はどこか壊れてしまったのだろうか。

 何もかも苛立たしい。自由にならない感情も、満たされることのない欲求も、この少女すらも。

「先生、この本はどこに」

「帰ってくれないか」

「えっ」

「帰れ、と言っているんだ」

「そ、そんな――」

「うるさい、帰れ」

 強く睨みつけながら言葉を突き刺すと、少女は顔を背けながら小さく頷き、逃げるように図書室から出て行った。

「あ、ああぁあぁあぁあぁっ、ぁぁああぁぁああぁああぁああぁあああぁっ」

 狂ってしまいそうだ。抑えようにも抑えようがない強い劣情。それが愛だとすればなんて無残な愛なのだろうか。彼女にはもう手が届かない。どうしているのかすらも分からない。

 本棚に並んだ本を手に取り床に叩きつけ、踏みつける。何冊も何冊も。

 不意に背筋に悪寒が走る。覚えのある感覚に身体の芯が火照り、息が荒くなるのが分かった。図書室の扉が僅かに開いていた。そこから覗く妖しい微笑みを、僕の身体は覚えている。

「お帰り」

 ゆっくりと手を差し伸べる。

 ああ、もう一度味わうことができる。あの甘い禁忌の蜜を。

 白い拘束着に身を包んだ彼女は、酷く可憐で美しく、弱々しく、だが恐ろしいほどの魅惑的な存在感を放つ。

 快楽と苦悶と想いの果て、僕のモラルは壊れ果てた。

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