夏帆

 金属がすべる重い音をたてて、扉はひらいた。

 古書店の老店主のような、悪徳看守のような顔で、はじめておとずれた教室が結を一瞥いちべつする。結は、つめたいプールにつかる要領で、息をつめて踏みいった。まだ誰もいないことに安堵する。教室に入ったときにあつまる視線は苦手だった。

 黒板に貼られた席順は、出席番号できめられたものらしい。窓際の前よりに見つけた自分の席に、スクールバッグをおいた。

 窓のむこうでは、背のひくい街並のうえに花曇りの空がひろがる。校舎のすぐそばにうえられた木の枝に鴉がとまっていた。

 琥珀の命でここにいるのだろうか、半信半疑でみていると、結と目を合わせた鴉がみじかく鳴いた。どうかえせばいいかわからず、当惑したままお辞儀をしてみる。ふい、と鴉は視線をはずした。自分のしたことがおかしくなり、つい笑みがもれた。

 あのペンダントのおかげか、朝以来おかしな声もきこえない。まわりをたしかめてから、結はちいさく伸びをした。

 扉がひらく。まじまじみるのも気まずいので、さりげない風をよそおってむけた視線のさきに、ひとりの少女の姿があった。

 日にあたったことがないのではとおもわせる肌とながいストレートの髪が、明瞭なコントラストを織りなす。ちいさな顔をいろどる涼しげな目元と通った鼻すじは、まぎれもなく美少女のそれであった。

 結をみてわずかに驚きの色をしめした美少女は、まっすぐにあるいてきた。やましいことなどないはずなのに、ついどぎまぎする。

「おなじクラスなんだね」

「え? あ、あの……」

「ボクは水上みずかみ夏帆かほ、よろしく」

「えっと、……綾里あやさと、結です」

 ボク、という美少女にふさわしくない一人称にとまどっているあいだに、夏帆はきびすをかえして自分の席にむかった。

 次第に教室はぎやかになる。

 生まれたてのクラスでは、理科の実験でかきまぜたビーカーのなかのように、さまざまな分子がうまれ、化合物が成長していく。結も勇気を振りしぼって、話しかけやすそうな女子をさがした。ふと気づく。夏帆はその容姿で注目をあつめながらも、浮世離れした空気をたもったまま、化学反応にくわわってはいなかった。

 やがてわかい女性教員があらわれ、簡潔に自己紹介をすませる。彼女は親しみやすい笑顔で、まだ安定しない水溶液を入学式のおこなわれる体育館へとみちびいた。


     ★☆★☆★


「――綾里さん、綾里結さん」

 担任の池永先生の声で結は我にかえった。

 入学式のあとのホームルームだ。窓のそとの鴉をながめているあいだに、番がきていたらしい。

 自己紹介をするために立ちあがると、全身に視線をかんじた。人前は苦手だ。おさないころの記憶が、胸をよぎった。


 教室は騒然としていた。いまとおなじようにひとりだけ起立した結をのこして。

 きっかけは帰りの会でくばられた一枚のプリントだった。

――来週の月曜日までに、おうちの人に書いてもらってください。

 担任の言葉とともにまわってきたプリントには、「成長を振りかえろう」とあり、名前の由来や自分が生まれるまえの両親の気持ちなどをかくようになっていた。

 結は手をあげた。名前をよばれ、立ちあがる。

――おうちの人がいない子はどうしたらいいですか?

 かるい質問のつもりだった、果物を遠足に持っていってもいいかたずねるのとおなじ程度の。担任の表情の変化をみたとき、どうやらまちがったらしいと気づいた。

 沈黙ののちに、クラスはざわつきだす。

 結はとまどった。家族、というものがいないことを理解しつつあったが、それは自然な状態で、施設でくらしていることに、なんの違和感もなかった。

――そんな子いるはずないじゃん。

 その言葉にきっかけに、無数の否定が突きつけられる。結はただ、だまってうつむくことしかできなかった。

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