猫の王の章

姿なき声

 ゆいまぶたをひらいたとき、室内はまだ仄暗ほのぐらかった。

 なかば条件反射で枕元の目覚ましに手をのばして、音を発するまえにアラームを解除する。つづいて息をひそめ、全神経を聴覚に集中した。

 しずかな時間がつもる。向かいあわせにおかれたロフトベッドと、そのしたにデスクという二人部屋共通のレイアウトだが、地味ながらも整頓された結の方とは対照的に、反対側はカラフルで雑然としている。

 かすかにきこえる寝息はおだやかだ。とめていた呼吸をそろそろと再開した。午前五時四十五分、定刻である。

 同室の美晴の眠りをさまたげたくないが、目覚ましなしでねむるのは不安だ。その結果、アラームがなるまえに起きてとめる、という日課が身についた結は、いまだに自分の目覚まし時計の音をしらない。

 物音をたてないよう注意ぶかくベットからおりた結が、部屋をあとにしかけたときだった。

――邪魔なんですけど、この布。なんにもみえないよ。

 足をとめてそろそろと振りかえる。規則ただしい呼吸がきこえた。しばらくそのまま様子をうかがったのち、気のせいだとうなずいて結はそっとドアをしめた。

 階段をおりて洗面所の電気をつけた。白々とした光は、まだ払われていない夜気を鋭利にする。ふたつならんだ洗面台の奥側にいった結は、ヘアバンドで髪をあげて蛇口に手をかけた。

――ちょっと、押さないでったら。

 さきほどより幼く、聞きおぼえのない少女の声だ。べつのホームの子だろうかとかんがえたが、こんな時間にそとにいるとはおもえなかった。

 洗面所を見まわしてみるが人の気配はない。首をかしげた結が洗顔をすませ、化粧水を手にしたとき、ふたたび声がした。

――あの青いの、綺麗きれい

 またちがう声だった。化粧水の青い瓶をもったまま、顔だけを窓にむける。見なれた川ぞいの景色があかるみつつあるが、園庭は誰もいなかった。

 念のためにうしろにある数台の洗濯機のなかをのぞいてみたが、当然なにもない。洗いものをいれて洗濯機をまわしたあと、何度も振りかえりながら結は部屋にもどった。


     ★☆★☆★


 シスターのひとこえでにぎやかだったダイニングに静寂がみちた。

 少女たちは手を組みあわせ、瞼をとじる。ゆっくりとみっつ呼吸するほどの時間ののちに、シスターが朝の祈りを紡ぎはじめた。おさないころからきいている結は、一言一句たがわず暗唱できる言葉だ。

 朝の祈りがおわると、少女たちは二組にわかれる。高校生は朝食の支度の手伝いを、ほかの子どもたちは掃除を。ふたたびダイニングにつどったら全員で配膳をすませ、食前の祈りのあとで朝食がはじまる。食卓をともにしているのはシスター佐賀野と早番の職員、そして血のつながりもなく、年齢もばらばらな八名の少女だ。

 彼女たちがすむ「幼き救い主の聖女の園」は、小舎制の児童養護施設である。

 海にちかい川ぞいの斜面にある敷地には、ホームとよばれる建物が数棟たちならんでおり、さまざまな事情で親とくらせない五十名ほどの子供たちが、ことなる年齢で男女別に構成されたユニットという単位ごとに生活する。

 幼稚園児から高校生までがひとところに集う暮らしはにぎやかだ。普段はすこし距離をおいている結だが、朝の一件があったので、いまはかまびすしさがありがたかった。

 普段とかわらない一日がはじまるのだ、うなずいて結がのばした箸は、途中で動きをとめた。

 またべつの声音だ。ちいさな子たちのおしゃべりにまじって、窓のそとから複数の声がきこえた。

「どったのん? こわい顔して」

 正面にはひとつ年下のルームメイト、美晴の顔があった。好奇心旺盛そうないきいきとした目が、その個性をよくあらわしている。

 彼女が入所して二年がすぎた。最初は周囲との衝突がたえなかった美晴が、ちいさな子どもたちの面倒を積極的にみるようになったころ、年のはなれた弟がいるのだと、はにかみながら結にかたったことがある。

「なんか……へんな声、きこえない?」

「なっちゃんのあの謎モノマネ? さすがにあれはいかがなものかとおもうけど」

「ううん。そうじゃなくって」

 そお? としばらく耳をすませた美晴が首をかしげる。

「わかんないや」

「ごめん、わたしの勘ちがいだとおもう」

 ほとんど食事に手をつけないまま、結は席をたった。部屋にもどり、カーテンをひく。自分しかわからない現象。昨日体験したそれに、ふたたび遭遇したのだと理解した。

――閉じこもってしもうたのう、せっかくきたのに。

――もしかしてあれ? 引きこもりってやつ?

――いやいや、なにかの修行かもしれん。

――僕、ちらっとみたけど、普通のお姉ちゃんだったよ?

 声は数をましていた。間違いない。姿のみえないなにかが、窓のそとで自分のことをしゃべっているのだ。頭から布団をかぶった。

 今日は入学式なので施設をでるのが午後からなのは幸いだったが、ほかの子どもたちは普段どおり登校するので、じき一人になってしまう。

 こわかった。部屋に入ってきたら、なにかしてきたら、一体どうなってしまうのだろう。怪談話の悲惨な結末が脳裏をよぎり、ちぢこまった。

 ドアをたたく音がした。悲鳴をあげかけたが、ノックのリズムで誰かわかった。そとの声がやんでいるうちに布団からでる。扉をひらくと、ウィンプルとよばれる白い頭巾のうえからグレーのヴェールをまとったシスター佐賀野さがのの姿があった。

 彼女の静謐せいひつな雰囲気が不安をやわらげる。相手が幼稚園児でも高校生でも、シスターが口調や態度をかえることはない。こわいとかんじている子どももいるが、庭にあるおおきなけやきの木陰にいるようで、結にとってはちいさなころから、彼女のそばは心地よい場所であった。

「結さん、電話です」

「わたしにですか?」

 つい聞きかえす。電話をかけてくるような人の心当たりがなかった。

「ええ。瑠璃るり琥珀こはくどうの琥珀さんというかたから――」

「――ありがとうございますっ」

 はじかれたように駆けだす。瑠璃琥珀堂の人間ならたよれそうだとおもった。

「結さん?」

 わずかに険のある声。動きをとめた結は、おそるおそる振りかえる。

「落ちついているならばすくわれ、穏やかにして信頼しているならば力をえる、です」

「は、はい……」

 ゆっくり階段をおりた結は、シスターの目がとどかないところまでくると足音をたてないように走った。あたふたと受話器をあげ、保留を解除して能天気なメロディーを断ちきる。

「も、もしもしっ?」

「結か? 琥珀だ」

 昨日あったばかりだというのに、彼女の声は一瞬で結の心に染みわたった。

「朝からすまないな。念のために確認しておきたい。なにか、かわったことはないか?」

「かわったこと、ですか?」

「そうだな。妙な気配をかんじたり、みえたり」

「へんな声がしたり……とか?」

「きこえるか」

「はい、朝から……」

「そうか、ずいぶん早かったな。連絡して正解だった。いまちかくにいるのだがでてこられるか?」

「あの……声が、すごくたくさんで……こわいです、そとにでるの」

「無害な連中だし、万が一おかしな気をおこしても、結にふれることすらできないのだが……。そうだな。そこから施設の門はみえるか?」

「門、ですか?」

 みないようにしていた玄関の方をむいた結は、施設の入り口にたたずむ女性の姿に気づいた。

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