南京虫 ①

「女物の小さな時計のことを昔は南京虫なんきんむしって言ったんだよ」

 ふいに、おばあちゃんの声が耳の中に響いた。

 半年前に亡くなった祖母の遺品整理をしている時だった。和箪笥の中からたとう紙を引っ張り出したら、コトリと音がして何かが足元に落ちた。見ると、小さな桐の箱だった。その中には華奢きゃしゃな婦人用の時計が入っていた。

 その時、おばあちゃんの声が何処どこからか聴こえてきたのだ。


 私はおばあちゃんっ子だった。

 うちの両親が共稼ぎだったので、小さい頃から私の面倒をおばあちゃんがみてくれていた。物心ついた頃から、おばあちゃんの側に居たせいだろうか、ふいに口を突いて出てくる童謡も、小さな千代紙で折った鶴も、他所よその家にいったら玄関では靴を揃えてから上がることも、みんな祖母から教えられたことだった。

 母に叱られて拗ねていると、「おばあちゃんも一緒に謝ってあげるから、千尋ちひろもママにごめんなさいって言うんだよ」そういって母に取りなしてくれる。いつも笑顔を絶やさない、優しいおばあちゃんが大好きだった。

 その時計を見つけて、また涙が溢れてきた。――これは形見に私が貰っておこう。

 

 私の祖母の千鶴ちづるは大正十三年生まれで、厳格な教育者の家庭で育ちました。

 太平洋戦争の末期である昭和十九年に地方公務員だった祖父と見合い結婚して、二男二女を儲けた。長男は三歳の時にチフスでうしない、次男である私の父は上の二人の姉から年が離れているが、男の子が生まれた時には、死んだ子(長男)の生まれ変わりだと、祖母がずいぶん喜んだという。そのせいか、末っ子である父には何かと甘い母親だったようである。

 おばあちゃんの連れ合いは、私が物心つく前に他界していて、どんな人だったか記憶にはないけれど、酒も煙草もたしなまない真面目一方の男であったと聞いている。

 頑固で吝嗇家りんしゅくかだったという夫との結婚生活は、あまり幸せなものではなかったようでした。

 夫に先立たれて独りになったおばあちゃんの元に、うち両親が同居することになったのは私が生まれて間もない頃で、赤ん坊だった私を祖母に預けて、母は安心して外で働くことができたと思う。それは共稼ぎの両親に代わって、おばあちゃんがをやってくれていたお陰である。

 極めて健康体だったので、八十歳近くまで自転車で近所のスーパーに買い物に出かけていたが、一度、軽い脳梗塞のうこうそくで倒れてからは歩行が不自由になってしまった。そのため会社を退職した母が家に居るようになって、我が家の家事全般はバトンタッチされた。


 その祖母が米寿べいじゅになった時、自らの意思で養護老人施設のグループホームに入居したいと言いだした。

 世帯主である私の父は大反対し、母も姑とは上手くいっていると思っていただけにショックだったようだ。二人とも口を揃えて祖母を最後まで看取みとりたいといい張ったが、頑として聴き入れず、県外に住む長女に入居の手続きをさせると、さっさとグループホームに入居してしまった。

 昔から芯の強い人で、決めたことは必ず実行する性分だった。


 半年ちょっと前になると思うが、おばあちゃんに会いにいこうと思い立った。

 その頃の私はプライベートで悩みを抱えていて悶々としていた。三十歳近くになるというのに未だに、両親と同居している意気地なしで気難しい娘だった。

 車で小一時間でいけるし、決して遠い距離ではない。

 週末には両親もドライブ気分で祖母の面会にいっている。グループホームでの暮らしにも慣れて元気そうだと母が言っていたが、まるで自分たちの方こそ、おばあちゃんに見捨てられたみたいで寂しいとぼやいていた。

 たしかに祖母は少し変わった人だった。

 女にしては無口で余計なことはいっさい喋らない。気配りの利く性格だが恩着せがましいところがなく、ストイックというか自分に厳しい人であった。他人との間に自然と垣根をこさえて、必要以上に踏み込ませないという気概きがいすら感じる。――それが封建時代に生まれた女の芯の強さなのだろうか。

 こんな祖母に育てられた、この私こそが一番影響を受けていたのかもしれない。


 爽やかな五月晴れ、軽自動車の窓を少し開けて運転している。

 磯の匂いが風にのってやってきたら、祖母の住むグループホーム『潮風荘しおかぜそう』は近い。岬の突端とったん、海に向って洒落た洋館造りの三階の建物が見える。全室「オーシャンビュー」がうたい文句の老人施設なので、昔から海の近くに住みたいとよく言っていたから、ここが気に入ったのだろう。

 駐車場に車を停めて建物の中に入っていく、ここに来るのは三度目だが、一人できたのは今日が初めてだった。海が真正面に見える硝子張りの吹き抜けのロビーは、眩しいほど明るい。フロントで面会を告げると、介護士が車椅子に乗った祖母を連れてきてくれた。

 三年前、脳梗塞で倒れてから後遺症で歩行が不自由になった。

「おばあちゃん」

千尋ちひろ、久しぶりだね」

 優しい笑顔で祖母が迎える。

 その顔を見た瞬間、ふいに涙が出そうになった。あんなに可愛がって育ててくれた、おばあちゃんなのに……私ときたら、《ずっと来れなくてゴメンなさい》不義理を心の中でびる。

「散歩しようか?」

 祖母の車椅子を押して、海岸沿いの遊歩道をゆっくりと歩く。

「おばあちゃん、ここでの暮らしはどう?」

「ああ、とっても楽しいよ」

 あっけらかんという。何が不満で家を出たのか分からないが、祖母なりの考えがあったのだろう。

「お前こそ、急にどうしたんだい?」

「うん……」

 私が言い淀んでいると、それ以上、突っ込んで訊こうとはしない。――結局、その沈黙に耐え切れず、いつも自分から話し出てしまう。

「恋人と別れた。六年間付きあってたけど、もう限界だと思ってサヨナラしたの」


 大学時代からの交際相手だった。

 今度地方に転勤になったと知らされたが、一緒にきてくれとも、結婚しようともいってはくれない。ただ、「何かあったら……」新しい住所を書いた紙をくれたが、破り捨ててしまった。憎んでいるわけではないが、六年も交際して結婚を口にしない男に苛立いらだちを感じていた。

 進展のない恋に失望して終わりにしようと心に決めた。

 彼にとって私はどういう存在だったのかな? 都合のいい女にはなりたくない! 私だけを愛してくれる誰かのOnly youになりたかった――。


「そんな顔して……おまえがきたから、何かあると思った」

 掻い摘んで事情を説明したら、そう言われた。私の心を覗きこんだように、おばあちゃんにはお見通しだ。

「結婚は縁だから、その人とは縁がなかったんだよ」

「うん」

「お前が悄気しょげることないさ」

「悄気てないけど……やっぱり寂しい」

「もっといい人が現れるから、安心おし」

 どんな慰めの言葉も耳を通り抜けていく、ぼんやりと海を見ていた。

「……おばあちゃんはおじいさんとお見合いだったの? 知らない人と結婚するのって勇気が要る?」

 ふと、祖母の結婚観を訊いてみたくなった。

「昔はみんな見合いだし、親が選んだ人と結婚するのが当たり前の時代だった。結婚してから相手のことを好きになっていくものさ」

「じゃあ、おばあちゃんはおじいさんのことを好きになれたの?」

 その質問には薄く笑って答えなかった。

「おばあちゃんは恋愛したことないの?」

「あるよ」

 その返答は意外だった。

「おじいさんと一緒になる前に、幼馴染だった人と両想いだった。でもね……家柄が合わないからって親に猛反対されたんだよ」

「別れたの?」

「戦時中でね。その人に赤紙あかがみがきたのさ」

「赤紙?」

召集令状しょうしゅうれいじょうだよ。兵隊に取られて帰ってこなかった。最後にきた手紙で特攻隊に志願したって書いてあったから……。祖国と君を守るために命をかけて戦うんだと……さ、昔の若者は純粋だったからね」

 遠い目をして祖母は海を眺めていた。

「その人とはそれっきり?」

「出征の前日に親に内緒で逢引あいびきしたよ。生きて帰ったら、私を嫁に貰うんだと誓ったくせに、その約束は果たせなかった」

 戦時中にはよくある話だと思った。

「哀しい思い出だね」

「その人とは接吻せっぷんをしたことがある」

 そういって少女のように頬を赤らめた。それが祖母の唯一の恋の思い出なのだろう。

「あの人が英霊となって私のことを守ってくれていたから、あんな激しい空襲にも生き残れたんだ。今は海に眠る人に感謝して、ここから毎日供養しているんだよ」

 やっと分かった! 祖母がここに入居した本当の理由が……。

「今度生まれ変わったら好きな人と結婚したい」

「おばあちゃん」

「それまで天寿てんじゅを全うする。千尋もいい人を見つけるんだよ」

「うん」

「お前は気立ての良い子だから、幸せにしてくれる相手がきっと現れるさ。どこかで千尋と出会うことを待っているから……」

 失恋したばかりの三十前の孫娘をそうやって慰めてくれる。望む結婚ができなかった時代の祖母、今は自分の意思で結婚相手を選べるのだ。――やっと吹っ切れた気がした。

 その時、私の脳裏に軍服を着た青年と白無垢しろむくの花嫁姿のうら若き祖母のイメージが浮かんだ。戦争さえなければ幸せな結婚をしていたかも知れないのに……。

 心の憂さも吹き飛んで、前向きになった私は、祖母に別れを告げて『潮風荘』を後にした。


 その訪問から、二週間後に肺炎を患い祖母は帰らぬ人となった――。 

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