黒猫と女 ③

「クロちゃん、ちょっとそこをどいてちょうだい」

 広縁で猫が仰向けで大の字になって眠っていた。あまりに無防備なその姿が滑稽こっけいで、クスッと女は笑った。

 日当たりの良い広縁は直射日光が強いのですだれを吊るすことにした。物置からすだれを持ち出し広縁に運んだら猫が陣取っていたのだ。喉元を撫でてやると猫は目を覚まし、ゆっくりと伸びをして、あくびをしながら座敷の方へ引っ込んだ。

 去年買ったすだれが、新聞紙を巻いた梱包を外すとまだきれいだった(ああ、また今年も夏がきた……)女は手を止めて、窓越しに空を見上げた。

 あの男と付き合うようになって、一年が過ぎようとしていたが、最近、急に男が通って来なくなった。そろそろ一ヶ月が経つ――。

 こんな自分にもう見切りをつけたのだろうか? 男のことは諦めようと女は決心していた。元々お互いを縛り合う関係ではなかったのだから……。一抹の淋しさを噛みしめる。だが、男を恨む気持ちはさらさらない、なんら制約もなく結ばれた二人の縁である。

 一方が飽きてしまえば、この関係は終わってしまうのだ。


 近頃は持病の腰痛がひどくなったので掃除の仕事も辞めて、家の中で猫とひっそりと暮らしていた。広縁に座っていると、いつの間にか猫が戻ってきて、女の膝の上で気持ち良さそうに喉を鳴らしている。

「クロちゃんがいるから、いいよ」

 男が来なくなって分かったこと――待っていないようで、実は待っていた男。

 夕暮れ時になると、少しそわそわする感じがなくなって寂しい気もするが、この猫がいるお陰で女の寂しさも紛れた。

「クロちゃんがいるから、寂しくないよ」

 夕暮れの男を消すために、呪文のように自分に言い聞かせていた。


 女の住む平家には猫の額ほどの庭がある。

 一坪ほどの小さな庭だが、四季を通して花や野菜を植えている。それが女の心の拠り所(秘密の花園)だった。夫が生きていた頃には酔っ払って花壇を踏み荒らしたが、今は野良猫が侵入してふんをされるくらいだ。

 毎年、日除けにゴーヤの苗を植える。成長の早いゴーヤはどんどん伸びて実を付ける。苦瓜にがうりと呼ばれるゴーヤは苦味があって慣れないと食べ難いが、ビタミンCたっぷりの爽やかな苦味が癖になる。

 ――そう言えば、去年の夏には男にも食べさせたなあと思った。

 最初の頃、苦瓜の炒め物、ゴーヤチャンプルーを出すと、これは口に合わないと男は箸を付けなかった。女が身体に良いから食べなさいよと言うと、それからは文句も言わずに黙々と食べていた。嫌いな物を無理やり食べさせたことを、今になって少し後悔していた。

 思えば、夫には健康を気遣ってお酒を止めなさいと言ったことなど一度もない。そんなことを言ったらたちまち平手打ちが飛んでくる、このままいったらお酒で身体を壊すことは分かっていた。

 それでも言わなかったのは、酒で命を奪われてもだと思っていたからだ。やはり相手によって人の感情は変わってくるものなのだ。

 猫の額に植えたゴーヤの苗を見ながら(ああ、今年はひとりでぜんぶ食べ切れるだろうか……)つまらないことをぼんやり考えていた。


 ふと外を見ると、生け垣のあたりに人影が見える。

 一瞬、あの男がきたのかと立ち上がってみたが、見知らぬ若い男だった。年は三十前後、スーツを着た一見サラリーマン風の男は、どうやら、女の家の様子をうかがっているようなので、

「なにか、ご用ですか?」

 広縁のガラス戸を開けて訊ねると、

「あのう、もしかしたらあなたが僕の父の知人ではないかと……」

「どなたでしょうか?」

 若い男は自分の父親の名前を名乗り、自分はその息子だと言う。――それはまさに、あの男の名前だった。

「生前、父がお世話になったようなので……」

 一瞬、耳を疑った(えっ、生前!? 生前って……)その言葉に女は衝撃を受けた。一ヶ月も来なかったのは、亡くなっていたせいだと分かったからだ。

 頭の中が混沌として、もう一度、若い男が言ったという言葉の意味を考えてみる。

 女は生前、男と連絡を取り合うことがなかったので、家も電話番号も何も知らなかった。しかも仕事も辞めていたので噂すら耳に入ってこなかったのだ――。

 だが、しかし……男の息子と名乗る若い男は何の用事できたのだろうか?                 

 女は警戒した。男とは肉体関係はあったが、金品をねだったり、家族に迷惑をかけるようなことは何一つしていない。――どうか、そっとして欲しいと女は心の中で願った。


「どうぞ」

 手招きをすると、遠慮がちに庭に入ってきた。その姿まで、あの男とそっくりで懐かしかった。女は警戒を解いた。

 広縁に腰かけて座った若い男にお茶を出すと、ひと口飲んで、胸のポケットから一枚の写真を取り出した。

「これはあなたでしょう?」

 手にとって見ると、少しピントがずれているが、去年の暮れ町内会の餅つき大会を手伝いにいった時の写真だった。誰かが撮ってくれて、町内会の役員が届けてくれたものだが、生活に疲れたような女の貧相な顔に、こんなものは要らないと玄関の下駄箱の上に置きっぱなしにしたまま、いつ無くなったのかすら気づかずにいた写真である。

 なぜ、男の息子が持っているのだろう?

「三ヶ月前に父は急性心不全により急逝きゅうせいしました。遺品を片付けている時に父の定期入れから、この写真が出てきて、とても気になったので調べさせて貰ったのです。それであなたの住まいが分かりました」

 息子は淡々としたしゃべり方だった。


「……あのう私たちは、世間でいうような、そのう、やましい関係ではなくて……ただ、友だちのような……決して、家庭を壊そうとかそういうのではなくて……奥さんにも迷惑かけるつもりはなかったのです」

 女は必死で遺族に弁解した。元より家庭を壊したいとか、男の妻になりたいとか考えたこともない。

 若い男はふっと笑って、

「妻はいません」

「はあ?」

「両親は十年前に離婚しています」

「えっ?」

「父は独身でした」


 意外な返答だった――。

 まさか男が独身だったとは思ってもみなかった。いつもきちんとした身なりだったので妻帯者だとばかり……。そう言えば、男に家族の話など一度も聞いたことがない。

「母は男ができて出ていったのです。だから、僕は父と家に残りました」

「……そうだったのですか。そんな話はなにも聞いていませんでしたので……」

「父は日頃から無口な人だったから、離婚してから余計に無口になりましたが、一年くらい前から、少し明るくなったので……なにかあるとは思っていました」

「はあ……」

 曖昧あいまいに女は笑った。男とは付き合って一年ほど経つ。

「今日はあなたにお礼が言いたくてきました」

「えっ?」

「父は母が家を出て以来ずっと傷心でした。――父が亡くなる前に幸せにしてくれたあなたに、父の代わりにお礼が言いたい」

「そ、そんな……」

「ありがとうございました」

 若い男は女の前で深々と頭を下げた。

 女の目から、はらりと涙が零れた。――その時になって、初めて、もうあの男はこの世にはいないのだと実感した。喪失感そうしつかんで胸が痛い、涙が後から後から止めどなく流れた。


 しばらく嗚咽おえつを漏らして泣いた。

 十数年連れ添った夫が死んだ時には、涙ひと粒零さなかった女が肩を震わせて泣きじゃくる。若い男は泣き止むまで……黙って、それを待っていてくれた。

「ごめんなさい……」

 人前で取り乱した、非礼ひれいを恥じて謝った。

「いいえ、そんな風に父のために泣いてくれたことが、息子の僕にとっては嬉しいのです」

「良い人でした」

「あなたにそんなにおもって貰えて父も浮かばれます」

「……はい」

「これはお返しします」

 写真を取り出して返そうとしたので、その定期入れも形見にくださいとお願いしたら、黙って両方とも女に渡してくれた。

 挨拶をして、若い男が帰りかけたので、ハッとして叫んだ。

「お墓は!?」

 その声に振り向きポケットから手帳を取り出しメモを書いて渡してくれた。メモには霊園の名前と聖地の番号が書いてあった。

「ああ見えて、父は寂しがり屋なんですよ。会いにいってやってください」

 そう言い残して、垣根の向うへ若い男は消えていった。


 お客が帰った後、女は茫然と座っていた。

 急に男が来なくなったのは、自分を嫌いになった訳ではなく、死んだのなら仕方がない、それなら許せる。――変な理屈だが女に取ってはそうだった。

 ふたりとも結婚生活に傷ついて、人を愛することに憶病になっていたのだと思う。なぜ写真を定期入れに持っていたかは分からないが、彼なりに女に執着があったのかも知れない。――それは男の『愛』だったんだろうか?

 男が死んだと聞いて泣いた。もう二度と会えないことへの悲しみだった。――それが『愛』だと女は気づいた。

 一年間付き合っていたが、お互い無口でほとんど会話らしいものがなかった、それでも惹かれ合ったことは確かだ。孤独な心のへこみに、相手の存在がはめ込まれて、抜けなくなったとしたら。――それもひとつの『愛』の形だと思う。

 激しい恋ではなかったけれど、とても深い愛だった。


「また、クロちゃんとふたりきりになったね」

 見知らぬ人がきたので逃げていった黒猫が、いつの間にか女の膝に戻ってきた。撫でてやると気持ち良さそうに喉を鳴らす。(おまえも死ななくて良かった、生きていれば誰かに愛されることもあるのだから……)この猫と、この家で生きていこうと女は決心していた。

 愛してくれた人がいたことで生きる勇気になったから、(わたしの方こそ、ありがとう)生け垣の方を眺めると、夕暮れに佇む男の姿が残像となって瞼に浮かんでくる。

 また目頭が熱くなってきた(もう、寂しがらなくていいよ。あんたのことはずっと心の中で想っているから……)これが最初で最後の人生の結末を飾るべき『恋』だったと女は思った。

 ――そんなことを考えていた自分に照れて、フッと笑みを浮かべる。

 黒猫が膝の上で大きく延びをした。明日、天気が良ければ男に会いにいこう。

                                                              

                  ― 終わり ―

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