隣の音 ①

ドンドンドン……

なんの音だろう? 


はじめ、咲江には分からなかった。

音は明け方になると、隣の部屋から聴こえてくる。

それはだれかが壁をっている音のようだった。

音は毎日続いて、咲江を悩ませた。


長年連れ添った夫が、去年心筋梗塞で帰らぬ人となった。

子どもは男の子が二人いたが、共に世帯を持ち独立していった。

夫を亡くした当座とうざは、ボーとして何も手に付かなかったが……

少しずつ立ち直って、何かを始めようという意欲がやっと出てきた。


手始めに、長年住み慣れた古家を売ることにした。

家は古いが敷地が広かったので、ソコソコの値で売れた。

そのお金で郊外に分譲マンションを購入した。


10階建てのマンションの7階、端っこの角部屋だった。

間取りは2LDK、広いダイニングで日当たりも良好、見晴らしも最高。

咲江には十分な広さで、つい住処すみかはここだと決めた。


ひとり暮らしを始めてから、いろんなことにチャレンジしようと

市民ホールの絵画教室に週に1回通いはじめた。

最初はわくわくしながら通っていたが、教室の中に偉そうに指図する人がいて、

自分の描いた絵に、勝手に色を塗ったりされて……

咲江は怒って辞めてしまった。


40年近く、専業主婦一筋だった咲江は人付き合いが苦手だった。


結局、家に引きこもってしまった咲江のことを

退屈だろうと、近所に住む次男がパソコンを教えにきてくれた。

最初はチンプンカンプンで覚えられないと何度も音を上げたが、

少しずつマウスを操れるようになっていった。

今度もチャレンジ精神で、ブログサイトに登録してみた。


毎日、パソコンを開いてブログを書いたり、写真を載せたり

他の人の記事を読んだりするのが楽しくなってきた。

それが、ある日、ネットの友だちに挨拶を書き込もうとしたら、

なぜか書き込めなくて……調べてみたら……

自分のHNがに入れられたことを知った。


なぜ? こんなヒドイことをされたのか。

理由も分からず、ショックで2~3日落ち込んだが、

どうせ顔の見えない世界だし、ヘンな人もいるのだからと

気を取り直して、やっと咲江は立ち直った。


そんな具合だったので、他府県に住む長男が心配して、

ひとり暮らしは淋しいだろうとペットを飼うことを勧められた。

そして、ヨークシャーテリアの仔犬をプレゼントしてくれた。

「ポポ」と名付けた仔犬は可愛らしく、咲江の孤独を慰めてくれた。

愛犬のポポちゃんと今はふたり暮らし、近所の公園をお散歩したり、

一緒にお買い物に出掛けたりと、平穏な日々を送っていた。


そんな咲江だが、最近、どうも気になることがある。


明け方近くになると、隣の住人が壁を蹴るので、

その音で、いつも目が覚める。

強く蹴るのではなく、規則的にドンドンドンと蹴り続ける。

耳栓をしても、横になっていると、その振動が身体にまで伝わってきて、

そのせいで熟睡できないのだ。


なにをやっているんだろう?

隣の住人は咲江よりの1ヶ月ほど後から、マンションに入居したが……

引っ越しの挨拶もないし、どういう人が住んでるのかよく分からない。


それでも、時々、通路で見かけたことがあったが、

見たところ、30代の夫婦と5歳くらいの男の子が住んでいるようだ。

奥さんは茶髪で派手な化粧をした、昔ヤンキーだったという感じで、

旦那さんは人相が悪く、怖い商売の人みたいに見える。

マンションの通路で、よく子どもを大声で叱りつけていた。

直接、苦情を言いにいくのは怖いし、嫌だったので……

マンションの管理人に相談することにした。


「じゃあ、お隣さんにそれとなく注意して置きましょう」

咲江の苦情を聞いて、管理人がこころよくそう言ってくれた。

それで、やれひと安心と喜んだ咲江だったが……


やはり、明け方になると……

相変わらず隣の住人の壁を蹴る音が続いた。

本当にお隣さんに注意してくれたのかしら?


もう一度、隣の苦情を管理人に言いにいったら、、

「お隣さんは壁なんか蹴ってないと言ってますよ」

「えっ?」

「それより、明け方に大声でお経をあげるのを注意してくれと言われました」

困ったような顔で管理人がそういった。

まあ! 明け方に大声でお経をあげたりしたことないわ!!

とんだ言いがかりだ! あんな隣の言うことを真に受けて……

管理人なんか信用できないわ、怒って咲江は管理人室から出ていった。


翌朝のゴミの回収日、マンションのゴミ置き場に出しにいった。

ゴミ袋を置いて、集合ポストに新聞を取りに行って、

エレベーターで部屋に戻ろうとしたが、

何気なく振り返って、ゴミ置き場を見た瞬間、「あっ」と驚いた!


咲江のゴミ袋が引き裂かれ、中身が散乱しているではないか……

ゴミ袋は引き裂いたように大きく口を開けていた。

これは猫やカラスの仕業ではない。いったい誰がやったの?

そういえば、咲江がゴミを出そうと部屋を出たときに、

お隣さんもゴミ袋を出していた。

まさか……? 

ヘンなことを想像して、咲江は頭の中で打ち消した。


不可解なことばかり続くので、絵画教室で知り合った、

同じマンションに住む主婦に相談することにした。

隣の住人にされているように思えてならないと話したら、

マンションの主婦は咲江の話を真剣に聞いてくれて……


隣の部屋の住人はマンション内でも、とても評判が悪い。

挨拶はしない、ゴミの分別が出来ていない、通路で大声でしゃべる。

とにかく苦情の多い人だから、くれぐれも注意してね。

と同情してくれた。

やっぱり、同じ主婦だから分かってくれる!

嬉しくなって、咲江は少し安心した。


――数日後、最悪の事件が起きた。


夕方の散歩に愛犬のポポを連れていこうと思って、

玄関のドアを開けた途端、隣の家族と鉢合わせした。

エレベーターに、一緒に乗り合わせたくないので、

ポポのリードをドアノブに引っ掛けたまま、

いったん部屋の中に、咲江は引っ込んだ。


しばらくして、ドアを開けて外に出たら

ポポの姿が見当たらない!

「ポポ―――!!」

名前を呼びながら、マンションの通路を端から端まで探しまわった。

「いったい、誰がポポちゃんを連れていったの?」

咲江は気が動転していた。


階下も探しにいこうとエレベーターの前で待っていると、

管理人が上がってきた。

手にバスタオルで包んだものを抱いている。

咲江の顔を見るなり、

「奥さん、この犬はお宅の飼い犬ですか?」

とタオルを突き出してきた。

「えっ?」

「マンションの下に倒れてました。たぶん上から落ちたんだと思います」

そういうと管理人はタオルを開いて、中身を咲江に見せた。

「キャ―――!!」

それは変わり果てた、愛犬ポポの姿だった!

ショックのあまり、ヘナヘナと咲江はその場に座り込んでしまった。


いったい、誰がポポちゃんをあんな目に合わせたの?

悲しくて、悔しくて、眠れない日々が続いた。

相変わらず、隣の住人は毎朝壁を蹴ってくる。

犯人は隣の家族かも知れないという疑念ぎねんが、

どうしてもぬぐいい去れないでいた。


だって、お散歩にいこうとして部屋に引っ込んだときも

隣の家族が通路にいたんだもの。あの家族の仕業かもしれないわ。

絶対に警察に突き出してやるから……ポポちゃんの復讐よ!

だが、しかし、犯人だという証拠が何もない……。


それとなく、咲江は隣の住人を見張るようになった。

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