遠い記憶~最期の手術~



  遠い記憶~最期の手術~


私が小学五年生の時、夏の終わり頃母は腎盂炎を起こし、杉並の総合病院へ救急搬送された。予後が良く、三週間ほどの入院でしたが、その時、母の目を失明させない為の脳外科手術の情報を知ったようです。

秋になり母は大学病院へ手術できるかどうか検査に行っています。この手術に乗り気だったのは母だったようで、父は発表もされていない手術なのだからもう少し考えてからの方が良いと言っていたのですが、言い出したら聞かない母でした。おそらくは失明して娘である私の足かせになるのが怖かったのでしょう。母がそんな事を私に言っていたのを思い出しました。


年が明けて昭和四十九年一月、お正月を家族三人で迎えた後、母は都内の大学病院に手術の為入院した。当日、母は寝間着に厚手のガウンを着て、帰宅する私をバス停まで見送ってくれた。粉雪がチラチラする中、母はバスが見えなくなるまで手を振っていた。外で見た生きている母の最後の姿。母の髪型は入院当日と言う事もあってきちんとセットされており、まだ入院患者という風には見えないくらい綺麗で、着ていたガウンの柄は紺色に色取り取りのお花が幾何学模様のように整列した柄で、今でもハッキリ私は覚えています。


あの時、後部座席に座った私が後ろを振り返ると、母はバスのスピードに合わせて小さくなって行った。本当なら私が遠ざかっていく筈なのに、あの時、母の方が遠ざかっていたのかもしれない。

あの時、あの瞬間なら、まだ引き返せたのだ。「この手術はやめて。」と私はどうして言えなかったのだろう。

バスは無情にも角を曲がり、とうとう母の姿は見えなくなった。


大学病院の看護婦さんや付添婦さん達は、私がが挨拶しても殆ど目を合わせてくれません。特に看護婦さん達は挨拶の返事さえしてくれない有り様で、まるで皆蝋人形のような感じで、私は何だか不気味な病院だな~という印象を最初に受けていました。

まず、一度目の手術が終わり、回復室から病室に母が戻った時、ベッドに付けられている名札を、母は手術前は読めなかった様ですが、読める様になり、視力が少し回復したと皆で喜びました。但し開けた穴がきちんと塞がって安定するまではまだ入院が必要。

ところがある朝「喉の奥に何かが垂れて来ている。」と母が言い出し、調べると脳を浮かせている髄液でした。塞がないとそこから黴菌が入ると脳髄膜炎を起こして大変な事になります。しかし自然に塞がる方が体に負担が無いという執刀医の判断で、暫く様子を見る事になりました。しかし恐れていた事、到頭母は脳髄膜炎になってしまったのです。

その治療は背骨に畳針の様に長い針を刺して髄液を採取し、検査をして抗生物質を注入し、炎症を静めるというものですが、それは過酷極まりない治療でした。

そもそも普段の教授のご回診の時は家族や付添婦達は全員病室の外へ追い出され、患者は先生とはダイレクトに話すのを禁じられていた。何か質問がある時は事前に婦長に申し入れをし、患者や家族ではなく、婦長が代弁をします。質問の答えに対する質問があった場合でも、それを患者が質問することは禁じられていました。

要するにどこの大名行列なの?と皮肉りたくなる様な表敬訪問で、執刀医はその回診の時に教授にピタリとくっついた助教授で、髄膜炎の治療の時は助教授が病室ににやって来るのですが、当時はインターン制が敷かれていました。

回診の時と同様に家族や付添婦は外へ出され、実際の治療はインターンがやるのです。母はインターンの脊椎注射の練習台になっていたのだと思います。いつも病室から聞こえてくるのは母の悲鳴。それは言葉だけで表現出来るものでは無く酷いものでした。

母の悲鳴を聞いていて、子供だった私は大声で泣き出してしまう。看護婦が中から出てきて「うるさいから泣かせないで。」と父が怒られる。

そして中から聞こえるのは、母の悲鳴に交じって看護婦の恫喝するような怒号が響く。

父が「インターンにはさせないでくれ。あんなに痛がっているじゃないか?」と言っても当時の患者の権利等、法律すらも整っていない時代ですから聞き入れてもらえる筈もありません。

治療が終わり家族が病室に入ると「又インターンにやられた。みんなに羽交い絞めにされてもう嫌だ。」と母は泣きじゃくり、私はとても見ていられない気持ちでした。

何日位続いたでしょうか?来る日も来る日も、時間になると御一行様が押し寄せて、病室の外で母の悲鳴を聞くのが私の日課になりました。あっという間に私は泣けなくなっていた。

母の髄膜炎がやっと落ち着き、開いている穴が塞がらないと又髄膜炎を起こしてしまいます。すぐに手術となりました。

二度目からは、アプローチした穴を塞ぐ手術でした。

左足の母の筋肉を採取して塞いだ術後、暫くは良好でしたが、後三日、髄液が漏れなければ退院となった翌朝、公衆電話から自宅に電話があり、「又、髄液が喉の奥に漏れてきた。」と母が泣いた。

三度目の手術。今度は右足の母の筋肉を採取して塞ぐ手術をリトライ。

ところが、ある日曜の朝、急に母がむせ出し、痰に絡まった何かを吐き出した。父がナースコールをして看護婦さんを呼ぶと「豆でも食べたのでしょ。」と確認もせずにワゴンに付いたゴミ箱に捨てられてしまいました。慌てて父が追いかけて行き、私も付いて行った。

父が「ピンセットを貸してくれ。」と看護婦さんに言って捨てた痰にからまったものを拾い、確認すると骨でした。

「先生を呼んでくれ。」と父が言うと、日曜だったので宿直の先生がやってきた。「これは、頭蓋骨の一部です。」とハッキリとその医師が言ったのを私も覚えています。父は愕然としていました。

翌日助教授がやって来て「あれは肉を固定する為に入れた人工骨で、溶けずに出てきたのでしょう。心配いりませんから。」と言われましたが、母の状態は、その夜から髄液が再び漏れ出したのです。手術の前にはその方法を家族には話して下さる事になっていましたが、父は人工骨を使う等とは聞いておらず、この頃からこの手術に対しての不信感を父は深めて行ったようでした。立て続けに手術は体力がもたないので暫く様子をみる事になり、再度脳髄膜炎を起こすのではないかと言う不安を抱えながら、母の治療は点滴と投薬だけという日々が続きました。

父だけでなく私も子供ながらに、この手術はやらない方が良かったのではないかと思い始めましたが、もう元には戻れない。しかし諦める訳にはいかないのです。父と私は無我夢中で看病しました。


母は元々血管が非常に細く二十四時間点滴をしていると、すぐに血管がボロボロになっていき、最初は付添婦さんを雇って、蒸しタオルをお願いしたのですが、その蒸しタオルは一分位しか持たないのです。そして当時はホッカイロなど無かった。タオルが冷えれば、母は再び痛みを訴えますから、休みなくタオルを交換しなくてはなりません。付き添い婦さんはとてもやっていられないとすぐに辞めてしまうのです。

ですから、私が学校を休んで、母の蒸しタオルを父と交代でやり続けたのです。火傷をしないように熱湯に浸したタオルをゴム手袋で絞り、それをビニールで包み、乾いたタオルを巻いて、点滴の針先にそっと置くと一分位だけ母の痛みが和らぎます。そしてお湯が切れない様に給湯室に行き、大きなやかんでお湯を沸かす。病室に戻る。タオルを交換する。冷えたお湯は大きなバケツに入れる。そのバケツのお湯を捨てに給湯室に行く。湧いたお湯をポットに入れて空になった大きなバケツを持って病室に戻る。タオルを交換する。何個かのポットと何個かの大きなバケツ。いつもあるのは

お湯。お湯。お湯。


一分が勝負の気の遠くなるような二十四時間。発売されたばかりのカップ麺をすすり、私は来る日も来る日も、これを続けていればきっと母は助かる。

そんな呪文のように。祈りの儀式のように。給湯室と病室を行ったり来たり。

私は学校を休み、母の蒸しタオルを交換する。父が帰って来るとバトンタッチする。朝方五時頃、私の番。父は開院時間まで外来の長ベンチで仮眠をして仕事に行く。そう。。父の仕事は俳優。しかし、撮影の無い日はテニススクールのコーチの仕事。父は休んでいなかったと思う。私も父も母の痛みが少しでも和らぐ為に蒸しタオルをやり続けたのです。

そんな姿を、医者や看護婦達は冷ややかな目で見ているように私は感じていた。処が、他の患者さんの付添婦さんたちが協力してくれる様になった。

「お譲ちゃん。給湯室のお湯が沸騰していたからポットに入れといてあげたよ。」とか「火傷したらイケないからおばちゃんがやってあげるよ。」

皆が「お母さん元気になるといいね。」って。。。

そのうち、冷やかな看護婦さん達の中で、一人だけ優しくしてくれる人が現れました。「まだ、小学生なのに毎日付き添い婦用折りたたみベッドではかわいそうです。歩いてすぐの寮ですが、二人部屋の相方が出て行ったのでお布団がありますから、私が早晩か休みの時はお嬢さんを布団で寝かせてあげたい。預からせてください。」と父に申し出があった。

その時には、もうその看護婦さんを私はお姉さんと呼んでいて懐いていました。その看護婦さんが内部告発してきたのです。母が死出の旅立ちとなる最後の手術をして、回復室に入り、一旦病室に戻ったものの再び回復室に入った時の事でした。

父は、最初は何の話か分らなかったので、自分だけではなく娘も一緒なら。という事で待ち合わせたようで私も同席していました。お姉さんは泣いていた。そして最初に謝っていた。その後、少し呼吸を整えて話し始めた。。「黙っていて申し訳ない。お二人の看病する姿にいつの間にか奥様だけは生きて帰らせたいと願っていました。」聞くと彼女が勤務する間、生きて帰った人のいない手術だったそうです。

「奥さんも、いよいよ無理なのではないかと思います。本当に申し訳ありません。」と何度も謝ってお姉さんは泣いていた。「こんなものは医療では無い。私はこれ以上東京で看護婦をするのは無理です。故郷に帰って小さな診療所で看護婦をやり直します。もし、裁判なさる時には証言台に立ちますから呼んでください。」と重ねて父に言っていた。

父も私も驚かなかった。「やはりそうだったのか。」と思っていた。

父はお姉さんに「教えてくれてありがとう。」と言いながら泣いていました。お姉さんと別れて父と病院へ戻る時、父が話し出した。

「前に喉に骨が落ちてきた辺りで、パパは不審に思ったんだ。テニススクールにたまたま大学病院の事務方の職員が通いだして、パパはカマをかけたんだよ。これからママが手術をどうしようか悩んでいるから、どんな手術なのか知っていますか?ってね。そうしたら調べてくれて、言われたんだ。あの手術だけはやってはいけません。奥さん、死んでしまいますよってね。でも、遅かったんだよ。本当はもう手術しちゃってたんだから。それでもパパは諦めていないんだ。今もママは、まだ生きている。絶対に最後迄諦めちゃいけないんだよ。」。。。

私も諦めきれませんでした。どんなに苦しい時でも明るい母でしたが、最後に手術室に向かう時は「生きていられるかな~」等と言って弱気を見せていました。手術室へ向かう母は泣き顔だった。

手術が終わり、その後はいつも通り回復室へ。しかし数日しても母の容体は悪いままでした。処が、容体が悪いまま病室に戻されてしまい、不審に思った父が「何故こんなに悪い状態なのに回復室を出るのか?」と問いただすと「個室に移動しますか?」と聞かれたそうです。

おそらく医師達はもう母は駄目だと思っていたのです。だからお姉さんも父に告白しようと決心したのかもしれません。

しかし、父と私は世の中の誰もが諦めたとしても、母の事を諦めていませんでした。

無菌室でないと、又髄膜炎を起こしたら?二十四時間徹底して治療してもらわないといけない。助かる見込みがたとえゼロであっても、母がまだ生きているうちに諦める訳にはいかなかったのです。

父はもう一度母を回復室へ戻させた。

しかし、医者からは「そろそろ親族やお知り合いの方に連絡してください。」と言われていました。ある朝、母は天井の一点を見つめ、待ち構えていたように話しだした。


「パパ。残念だ。私は影から応援するから、有加を音楽の道へ進ませてやって。パパ。お願い。」


ゆっくりと、途切れ途切れに、力無い声なのに、渾身の力を込めて、これが母の最期の遺言でした。

父が「わかった。俺がわかったという時は、絶対に約束は守るから。」と言うと、母は「うんうん。」とうなずく様に、意識がなくなって昏睡状態に入りました。

祖父(母の養父)と内縁関係になったおばあさんが来て、まだすぐではなさそうだからと帰って行った。

その後、母はうわ言で「皐月さん」と母の生母の名前を言ったので、急いで連絡を取り、皐月さんにも来てもらいました。後は、総合病院の担当医だった山木先生と婦長さんも見舞ってくださった。「おそらくもう時間の問題で駄目でしょうね。気をしっかり持ってください。私がもっと調べて、もっと強く引きとめれば良かった。」と山木先生はおっしゃった。それでも、父と私はまだ諦めていないのです。


毎日、朝夕面会に行くのですが、父が母の手を握り、もう片方の手で母の瞼をあけて「来たよ。」と言っても反応が無い。しかし、私が母の手を握ると父によって開けられた母の眼球が動き、手の指先が動くのです。私が「ママ。」と呼びかけると、必ず反応があった。


大学病院の傍に父のテニスの仕事を総括している事務所があり、母の居ない普段の病室に居るよりかは気も紛れるだろうと、父と私は朝夕の面会以外はその事務所に居ました。

母とは毎日朝五分、夕方五分の一日十分しか会えませんでしたが、その繰り返しが未来永劫続くのか?と思い始めたある日、朝の面会を終えて、その事務所に到着して暫くすると、病院から「危篤です!」と電話があった。すぐに父と私は事務所を出た。

病院へ向かう信号で私が泣きだすと、父は「泣くな!」と大声で怒鳴った。私はまるでスィッチが切り替わる様に泣き止み、一心不乱に大人である父の早歩きについていきました。

回復室に到着すると、助教授が馬乗りになって人工呼吸をしていて、それに合わせて母の心電図が動いていた。助教授が動きを止めると、心電図は一本線を描きはじめる。

「四月二十二日、午前十時十分残念です。」


覚悟など何の役に立つというのでしょうか?私は泣けませんでした。それは、その一寸前に父から怒鳴られたからではなく、母はもう助からないと、心の深いところで覚悟している自分と、絶対に母を助けると心の表面で覚悟している自分がバラバラになり、余裕もなくこの日を迎えたからなのか?

否、こうなる事は母がこの病院に来た時から決まっていた事なのに、何処かのドラマで見たような儀式的な人工呼吸をしている様を見て茶番だと感じたからか?

認めたくない現実を突きつけられた瞬間、呆然自失と言う言葉を習うよりずっと前の私が体感した瞬間でした。

看護婦さんが「御遺体を綺麗にします。」と言って、父と私に回復室から退室を促し、母は個室に移された。私はどこかの付添婦さんが言っていた言葉を思い出した。「死んだら刃物を持っていないと無事に三途の川を渡れないんだよ。」と。

私は母が元居た病室へ果物ナイフを取りに急いで行くと、同じ病室の人や付添婦さん達が私の何かの異変に気付いたのか?「どうしたの?」と聞くので、私は「ママが死んだ。」と事務的に言って、果物ナイフを持って個室へ戻りました。

死化粧を終えた母の両手は、包帯で目立たないように括りつけられていて、その手に私は果物ナイフを持たせ、母と二人きりだったので抱きついてみた。生き返るかもしれないと私は思ったのかもしれない。そして連絡を受ける前のこの日の朝の面会の時、いつも通り父がやっていたように母の瞼を指で開けて、私は「ママ!」と言ってみました。

もう、私の声に反応する事はありません。それより、母の眼は、死んだ魚の眼のように抜け殻になっていた。ついさっきまで生きていた母は、確かに死んでいました。

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