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 十一月も半ばになると、さすがに肌寒い夜も増えてきた。真由香は押入れのタンスから今朝、冬用のコートを引っ張りだしてきた。

 今日も銀座の本社でデスクワークのあと、打ち合わせに次ぐ打ち合わせ。『トキオ』の編集やアフレコ作業、『スカイフォース』の最終レーンである北村組の撮影も明日からクランクインになる。シナリオ会議は常に紛糾していたが、最後は皆で納得できる内容に落ち着いたと考えている。あとは監督の北村の手腕に委ねるしかない。

 真由香の多忙は相も変わらず続いている。

 それでも忙しい合間を縫って、真由香は『チャイルド』の森永と今夜二十時に会う約束をしていた。今夜の食事はわたしがご馳走しますとも約束していた。

「どうしてあんな目に遭ったあとでもそんなに仕事が出来るんですか。オーバーワークにも程がありますよ」

 神長倉はさかんに真由香の体調や精神面を気遣ってくれていたが、こちらとしては仕事を続けているほうが気が紛れてよかったので「大丈夫です」と答えておいた。

 神長倉だけじゃない。周囲のスタッフキャスト、みんながさかんに真由香を気遣ってくれるがその都度「心配ご無用」とにっこり笑うことにしている。おかげで真由香は「鉄の女・サッチャーより強い」との評判が立っているらしい。真由香としてはこれ以上自分が休めば、現場のみんながさらにキツくなるからとの思いで動いているだけなのだが。

 それにしても、と思う。

 ほんの一か月前のあの出来事。

 真由香にとって、いまだ現実に起きた出来事とはとうてい思えなかった。



「お元気そうでよかった。こうやって美味しくご飯が食べられるのも生きているからこそ、です」

 本日は堅苦しいスーツ姿の森永惇司はウーロン茶を傾けながら軽やかに言う。彼はこの後、また会社に戻って残務処理があるらしく、「ノンアルコール」とのことだった。もっとも真由香もこの食事が終われば大泉の撮影所に戻る予定だった。仕事を多く残してきているので、今夜は徹夜覚悟だった。

 大泉学園駅前の中華飯店「上正」で待ち合わせることにした。小汚い脂ぎった店内だが、毎回よく利用する。彼にこの前ご馳走してもらったホテルダイニングのチャイニーズレストランとはえらい違いだが。

 でもここでの食事くらいなら何度でも奢ろうと思う。なにせ森永惇司は命の恩人なのだから。

 酢豚が運ばれて来た。「上正」の看板メニューでこの店に来たらこれを注文しないと始まらない。森永は早速口に運ぶと「うまい」と笑顔になった。独特の酸味と辛みが癖になる味だった。

 小汚い店内の奥のカウンターで森永と真由香は向かい合っている。

「改めて言いますが」

 森永は小皿に酢豚を運んだ。

「最初から事情を明かしておくべきだったかな、とも思うわけです。ただたぶん最初にこちらがボディガードをつけると言っても、宮地さんは辞退されたでしょう。だから密かに護衛をつけておくことにした。まあ、結果的にはそれが幸いしたというべきですが」

 真由香はゆるゆると首を横に振った。

「いやもう、感謝しかありません。ありがとうございましたとしか……でも驚いたのは、まさかあの方が森永さんのお姉さんだったとは」

「よく驚かれます。全然似てませんからね。でも正真正銘、本当の兄妹です。腹も同じ、異母兄弟とかじゃなく、ね」

 森永はからからと笑った。

 そう、よくよくこれまでのことを思い出していると、たしかにいつも森永の傍で控えているあの美しい女性。ずっと秘書だと思い込んでいたが、真由香はそう思いこんでいただけで、自分からわたしは秘書ですなんて聞いたこともない。あの美人秘書……もといあの女性は森永の姉だったとは。まさか兄妹なんて思いもつかない。

 それはさておき。

 あの夜の出来事……。

 全国にカラオケチェーンを運営している会社に勤務していた多田義光は、真由香への歪な思いを募らせていき、ついには殺害を企てる決意をする。人気の少ない夜道で真由香はいったんは多田に拉致監禁されてしまう。しかし、実は真由香を陰から護衛している者がいた。それが森永惇司の秘書兼ボディーガード兼実の姉の森永千沙である。一連の脅迫状騒ぎがあったというのに、真由香の無防備さは問題だと危惧した森永が自分の秘書を護衛として密かにつけてくれていたのだった。その前後のあたりからどうも誰かから見られているような感覚があったが、それは間違いではなかったのだ。あれは、真由香の護衛に就いた森永千沙が背後についていたからだった。

 まさに危機一髪。

 森永千沙が護衛についていなければ、もう自分はこの世にはいなかった。おそらくあのアーミーナイフで心臓を刺し貫かれ真由香は絶命していたはず。まさしく森永の判断が真由香を危機から救ってくれたわけだ。最初、千沙は路上で拉致された真由香をその場で救うため素早く駆け寄ろうとしたが、多田の動きがあまりに俊敏だったらしく、近寄るのが遅れたという。多田は白のセダンに真由香の体を押し込んで車を急発進させた。車もなく護衛していた千沙は一瞬焦ったが運よく通りかかったタクシーを捕まえてセダンを追跡、閉店改装準備中の駅前のカラオケ店までたどり着いた。多田は店の裏口から真由香を素早く中に運び入れた。その段階で千沙は警察に通報した。しかし、このまま警察がくるまでここで待機していて大丈夫なのかと危惧したらしく、千沙は自分の判断で店内に突入したという。当然鍵はかかっていたが、そこは裏の技術を駆使してなんなく開錠して突破。そしてまさに紙一重のタイミングで間に合ったというわけだ。

 多田が気絶した後、直前に千沙が手配した警察がほどなくやってきて、そのまま多田義光は現行犯逮捕された。多田は素直に罪を認め、警察に対しても素直に供述しているという。殺人未遂は重罪だから、法の下で正当な裁きを受けてほしいと願うばかりだった。

 真由香はチンジャオロースを口に運ぶ。これも「上正」の名物。

「お姉さん、太極拳のなんという拳法の使い手なんでしたっけ? えーっと……」

「制定拳・陳式です。もう昔からずっと稽古に明け暮れてますよ。まさかこういうケースでお役に立てるとは思わなかった」

 以前、森永惇司から兄妹そろって子役だったと聞かされたことがあった。森永が撮影中の不慮の事故で怪我をしたとき、両親によって強制的に子役を辞めさせられたが、姉の千沙は子役の道をスパッと諦め、本格的に太極拳をマスターしようと道場に入門したらしい。森永惇司もその理由を詳しくは聞いていないそうだが。そこでめきめき腕を上げ、世界的な大会で日本人としては唯一入賞するくらいの技術を身につけたという。その後弟が起業するというので、自らはサポート役として秘書に転身したのだとか。

 とにかく真由香にとって、森永兄妹は生涯の恩人だった。一緒にお姉さんにも中華をご馳走させてくださいと真由香は強く申し出たが、自分はあくまで弟の影の存在でありたいからと強く固辞されて、今も店の外の車中で待機しているらしい。なんて奥ゆかしい人なんだと感嘆せずにはいられなかった。

 森永は箸を置いた。

「お仕事のほうはどうなんですか? あんなことがあったあとでも、宮地さんはフル稼働ですね。東光さんは人使いが荒い」

「自分から志願して仕事をしてます。『トキオ』はまあ目途がついて。編集と仕上げと音入れがちょこちょこと。『スカイフォース』は明日から最終組の撮影が始まります。年内までずっと気が抜けません」

 真由香は苦笑する。もっともシナリオ通りに撮影が進むかどうかは監督の北村の裁量によるので、どうなるかはまだわからない。

「それが終われば、一段落つくんですよね?」

「いやそれがですね」真由香は苦笑する。「『スカイフォース』の数字が好評なので、いま特別篇の映画の撮影の企画が進んでるんです。テレビの最終組が終了したらそのままクランクインする予定です。通常、戦軍は夏に映画を一本上映するんですが、それとは別に春に映画ですね。しかも夏映画は尺が三十分程度に対して、春映画は八十分くらいの長尺で考えています。だから今、各部署に企画のすり合わせと予算の調整で駆けずり回っていて」

 突発的に持ち上がった企画だから、今これもスタッフ集めに四苦八苦しているところだった。キャストのスケジュールも調整の真っ最中。彼らの中には次の仕事が決まっているメンバーもいるので、そちらとのすり合わせが必要。『スカイフォース』のスタッフはほぼ全員次回作の『恐竜戦軍ザウルスフォース』に流れ込むわけで人材の確保は急務だった。春映画の監督は『スカイフォース』の中盤まで助監督兼監督として作品に携わり、『トキオ』のローテーション監督でもあった鹿島忠司に依頼している。鹿島はこれが映画監督のデビューになるので打ち合わせの場でも、相当気合が入っていた。

「じゃあまだしばらく、宮地さんの苦難の日々は続くというわけですか」

「ほんとうはタイに休暇で行きたかったのに、もうしばらく先になりそうです……しかも上司からもう次の仕事も内示があって」

「また特撮ものですか?」

「いや、一クールの恋愛ものです。まだ詳細は言えませんが、四月から始まる予定で。それのサブに就くことになってます」

 東光テレビ営業部はいろんなドラマを制作している。主に刑事ドラマ、二時間ドラマ、特撮などのキャラクター作品など。あまり恋愛ドラマはこれまで関わってきていなかったので、これはある意味東光テレビ部の挑戦でもあった。もうすでに企画自体はチーフプロデューサーと局プロで進められており、真由香もそれに合流するように内示があったのだ。

 果たしてまた、どういう世界が真由香を待ち受けているんだろうか。

「宮地さんなら大丈夫なんじゃないですか。まあ根拠は特にないけど」

 森永は薄く笑うと、ふっと息を漏らした。「じゃ、答えを貰えるのは当分先かな」

 その言葉の意味は理解できたものの、まだ真由香の中で結論は出ていなかった。だが答を先延ばしにするつもりはなかった。

「今は制作に集中したいので、『スカイフォース』の映画のせいさくがすべて片付いたあとまで待ってください。わたしのわがままなんですが」

「待ちますよ」

 森永は大きく頷いた。「良いお知らせになればいいんですが」

 本当に真由香の心の中はまだ答えが定まっていなかった。目の前にいる真田広之似の若社長。見た目もカッコよければ、内面もそれなりに。気になる男性ではある。

 でも。

 どうなんだろう。

 ほんとうに忙しいからな、わたし。

 真由香は若鶏にかぶりついた。熱々だったので、口の中が少し火傷した。

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