第34話 想いは燃ゆる。♯8
三日後。つまり、二十五日。日中から降り続く雪は、数年ぶりのホワイトクリスマスを遠柿市に運んで来た。
恋人たちの聖夜に、私は真奈加とファミリーレストランに訪れていた。背伸びをしない私たちなりのディナーだ。シャンメリーの注がれたグラスは小さな泡を浮かせて、クリスマスメニューの横でささやかな贅沢を演出する。
グラスは三本。私と、真奈加と、実結さんだ。
ことの顛末を真奈加に話すと、蚊帳の外に追いやったことを怒られるかと思ったが、真奈加は今日この場に実結さんを招くことを提案してくれた。実結さんと会うのは、あの夜以来だ。
料理が運ばれて来て、乾杯を前に、実結さんは頭を下げた。
「ありがとうございました。麗奈さんのおかげです、本当に、ありがとうございました」
「いえ。そんな。私は何も」
私は何も出来なかった。単なる運転手に終始するのがやっとだったのだから。
「あの日のわたしは、きっと一人では歩くことさえままならなかったと思います。感謝してもしきれません」
私はほっと胸をなで下ろした。どんな顔をして会えば良いのか分からないでいた私に対して、実結さんは、意外なまでにすっきりとした表情だったのだ。崩壊しかねないと思わせたあの弱々しさも、今は実結さんらしく、かわいらしい儚さに戻っている。
私は照れを隠すためにシャンメリーを飲んだ。甘いけれど少し刺激的。飲み慣れたコーラに比べると、私には、ちょっとだけ大人に感じた。
「あ、乾杯前なのに」真奈加は私を肘で小突いた。
「そうだった。ごめん」
「じゃ、仕切り直しね。ほら、実結ちゃんもグラス持って」
「はい」実結さんは、幸せそうに微笑む。
端から見れば単なる女子会に見えるであろうテーブルの上で、三つのグラスがかわいらしい音を鳴らした。
○
シャンメリーはいつの間にかコーラになっていた。やっぱり私には黒い炭酸の方が似合う。
事件に関しては、食事を終えるその時まで話題にはしなかった。今回は実結さんを元気づけようとの目的も兼ねているから、実結さんが話したくないなら、話すつもりはそもそもなかった。
あとはデザートを待つのみ。となったところで、私は、実結さんの目にうっすらとした涙を見た。「すみません」と言って、実結さんは小さな手で涙を拭う、
「大丈夫ですか、実結さん」声を掛けずにいられなかった。
家族連れで賑やかな店内で、実結さんは穏やかな声音で囁くように言った。
「今日は、本当にありがとうございます。おかげで、素敵な夜になりました」
「こちらこそですよ」
煙のように消えていきそうな実結さんの微笑みは、私の心を掴んで離さない。
実結さんはそのかわいい口許で、こう言った。
「今回の件があって、わたしは、生き方を変えようと思いました」
グラスの泡が弾けて消えるような小さな声に、私と真奈加は目を見合う。
「自分がなんて愚かで卑怯な人間だったのかを思い知らされました。人には、実結は優しいね、と言われます。その度、内心でかぶりを振っていました。わたしは、酷くさみしがり屋なだけなのです。一人でいることが恐ろしくて、だから誰かと一緒にいたくて、それを、ほんの少しの謎を解くことでつなぎ止めていたような気がしていたからです。情けは人のためならず。それしか、出来なかったんです」
心音が一拍聞こえる毎に、胸がずきんと痛む。それはまるであの夜のようだった。その言葉たちを、私は聞きたくなかったのだ。
「でも、それが間違っていた。麻衣ちゃんのことを想うなら、希望的観測で物事を見てはいけなかった。真実から目を背けてはいけなかった。わたしの我が儘を押しつけていただけだったのです。わたしは卑怯でした。他人の人生に、理想を押しつけることで今を繋ごうとしてしまった。故に間違え、だからこそ、生き方を変えようと思いました」
私は相づちを打たなかった。真奈加も、まっすぐに実結さんを見ていただけだった。心の内は、「そんなことはない」と言いたくて仕方なかったけれど、軽々に言えるような言葉でもなかった。
「――でも、それは違う。そう言ってくださる方がいました。変えてはいけない、と」
ふう、と息を吐く。私が言えないことをいとも簡単に言ってのける人がいたものだ。いや、簡単に、とは限らないか。
「反省と後悔で前に進めるなら、これほど容易い世界はありません。それらに満ちていますから。つまり、それらでは前に進めないのです。反省から学び、後悔を経て、わたしは前を向かなければならない。どんな悲しみも、苦しみも、前を向く以外に、乗り越える術はないのです。その覚悟を今日、してきたところです」
力強い言葉の中に一切の迷いがないかと言えば、まだ戸惑いは見えたような気がした。そんなのは当然だ。友人が事件を起こし、逮捕され、地元紙で取り上げられ、二十秒ほどだがテレビでも報道された。忘れられる瞬間は片時もなかっただろう。乗り越えるなんて、言うほど簡単じゃない。
けれど、その気持ちが嬉しかった。私も真奈加もそう言って欲しかったのだ。胸は、もう、痛くない。
「もし実結さんが、情けは人の為ならずな人でなかったとしたら、私は実結さんと出会ってはいなかったと思います。やっぱり、実結さんの情けは、ちゃんと人の為になっていると思います。私の為だけかもしれませんけど。だから私は、今まで通りの実結さんでいて欲しいです。今のままの実結さんが、私は、好きです」
飾った言葉もいらない。私は実結さんが好きだ。恋人の隣で何を言っているんだとも思うけれど、関係ない。好きだって色々ある。色々だから、不埒な想いであることも否定しない。
好きな人の曇った顔が好きな人間なんていない。好きな人が自分を卑下する瞬間なんてこれっぽっちも見たくない。だから、
「これからも、少しお節介で、人の色恋に興味津々で、私たちと一緒に楽しい時間を共有してくれる、素敵で、優しくて、かわいい、実結さんらしい実結さんでいてください」
そして、実結さんは小さく笑って。
「そう言われると、わたしらしさって、なんだか、面倒な人みたいですね」
「それがいいんですよ。そこが、いいんです」
運ばれて来たケーキに舌鼓を打って、笑い合える。こんな日は結局のところ、実結さんがいなければ訪れなかった。
幸福は、実結さんと共にありたいのだ。
ドリンクバーから注いできたコーラを一口飲む。凄くおいしい。
氷が溶けて薄くなったコーラだって、紛れもなくコーラだ。愛する自信はある。
けれど、やっぱり変わらないこの味がいい。甘ったるくて、炭酸が強くて、爽やかで、すこしねっとりしていて。薄くなったって、変わったっていいけれど、私が好きになったのは、この味だ。
つまりそれが、私の我が儘。いつまでもそのままでいて欲しい、私の、不埒な我が儘。
○
実結さんを自宅まで送り届けて、私と真奈加は帰途についていた。
大人だからと一人シャンパンを楽しんだ真奈加は、火照った躰を、運転席に座る私に寄せてきた。真奈加の体温が肩にじんわりと広がっていく。
「危ないよ。どうしたの」
雪で凍結した路面を懸念してか徐行する車が多く、いつも以上に混雑する国道で、ちらっと横を見ると、真奈加はぷっくりと頬を膨らませていた。
「だって、好きとか言っちゃうから」
「ああ。そういうこと。嫉妬してんのね」
「するでしょ、ばか。二人だけで行動しちゃって。ばーか」いつもより少し幼い声で真奈加は言う。酔っているのだ。
「ごめんね。心配させたよね。ほんとごめん。でも、危険な目に遭わせたくなかったし」
「二人きりになるくらいなら巻き込んで欲しかった」
「ごめん」
「でも、良かった。実結ちゃんの元気がないと、麗奈も元気ないし」
「そう見えた?」
「露骨に」
「ごめん」
不本意ながら帰ってきたこの町で、私は車を走らせている。
春の出会いから続くこの道を、快適とは言えなくとも、時に信号に阻まれても、それでも進み続けている。
真奈加と。実結さんと。
退屈な町での出会い。ここだったからこそ生まれた繋がり。かけがえのない、出会い。
「今度、三人でお出掛けしようか」
「実結さんも一緒?」
「その方が嬉しいでしょ。いいよ。麗奈が喜んでくれるなら」
真奈加には、凄く、なんていうか、心配を掛けてしまっているけれど。
「じゃあその後は真奈加と私、二人きりで行こう」
不埒で、本当に救いようのない私は、こうして見せてくれる真奈加の可愛らしい笑顔も、心から愛しているわけで。
少し怖くて、刺激的で、ちょっぴり恐ろしいのが恋だけど、それでも私は、この素敵な恋と青春を止めたくない。そこに色を添えるちょっぴりの謎と、笑顔の実結さんがあるのなら、私の日々は鮮やかになるのだ。
毎日が素晴らしいと思えるのは、きっと、大好きな人と過ごす今があるからなんだと、心からそう思った。
ほら、今日のこの雪だって。
一人じゃきっと、凍えるだけの寂しい一日だっただろう。
誰かの隣にいるって、こんなにも幸せなんだ。
私の毎日が、実結さんと、恋と、青春と、真奈加の笑顔で彩られていく。
不埒な私は、この毎日を、心の底から愛していた。
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