第7話 いつでもあなたは。♯3

 今日しかなかったんだ。僕が先輩に、この部室で、想いを告げられるのは。


 一番部員数の多い学年である二年生は修学旅行で不在。三年生のもう一人の先輩は、昨日から胃腸風邪だとかで休みで、さすがに翌日に登校してくることはないだろう。同級生は学級委員をやってるらしく、夏休み前の今は忙しいのか、ほとんど部活に顔を出さない。


 誰にも邪魔をされず、二人きりに高確率でなれるのは、今日しかなかった。


 それなのに――。


「そんな……」


 夕方の色が薄っすら空に浮かび始めた頃、部室にやって来た僕は、汗をだらりと流しながらそう口にした。不意に零れ落ちたと言った方が正確だろうか。


 机の上に、黄色いメモ用紙が一枚。目に飛び込んだ文字に、僕は絶句したのだ。


『きみへ綴る、元の場所に戻しておきました。返す場所を間違えないように』


 慌てて、朝に本を挟んだ場所を、背伸びをして覗き見た。


「ない……ない……ない!」


 ラブレターが挟まれた『きみへ綴る』が、なくなっている。

 確かに、先輩に見つからない場所に僕は本を置いたのに。


「そんな……嘘だろ……」


 目に涙が溜まる。

 堪えなければ。こんなところで涙を流すわけにはいかない。


 図書室で借りた本には、図書室のラベルが背表紙に分かりやすく貼られている。きっと最上段を見た誰かが、呆れ顔で図書室に返してしまったに違いない。


「図書室。図書室だ」


 僕は部屋を出た。廊下を全力で走った。


 誰かに「廊下は走るな」と注意された気もするけれど、そんなことは気にしてられない。


 真夏に息を切らしながら図書室に入ると、エアコンの涼しさに蕩ける前に、僕は本を捜した。昨日と同じ場所にはない。図書委員のおすすめコーナーにもない。作家別コーナーにもない。


 カウンターで訊いてみたが、返却はされていないとのこと。


「あなたが借りたんでしょう」と当たり前のことを言われて、僕は「そのはず」と応えるのが精いっぱいだった。


 肌寒くもある図書室においてここまで汗だくで本の有無を尋ねる一年生など、さぞ不気味だっただろう。図書委員の同級生も引いていた。


 拳を握る。力がこもった。苦しくて、顎が震える。


 文芸部部室に戻ると、一大決心が一気に瓦解しそうになった。


 失敗してもまたチャレンジすればいいじゃないか、と、他人事なら思ったかもしれない。


 でも告白をするって、そんな生半可な気持ちじゃないのだ。好きを伝えることの恐怖は、やっぱり、並大抵のことじゃ乗り越えられない。


 それを経て、今日の僕は、今日を迎えた。それなのに……。


 定位置に座って呆けることしか、今の僕には出来なかった。


「あの、倉橋くん?」


 心臓を握られた。それくらいびくついた。


 部室のドアの方を見ると、そこには、他でもない、松岡先輩が立っていた。


「どうか、したんですか?」


 よりにもよってこんなところを先輩に……。


「いえ、ただ、あの、えっと、大切な、メモというか、それを、なくしてしまって」


 震える声が感情を表してしまう。隠しきれない。涙を堪えることにしか、気が回せない。


「大切なメモを……それは一大事です。わたしも捜しましょうか」


「いえ。そんな。先輩の手を煩わせるわけには」


「お気になさらず」


「で、でも、あまり、その、他人に見せられるような内容ではないと言いますか」


「大丈夫です。見ません」


 先輩は顔の横で両の手を握りしめた。


 大好きな人が目の前にいるのに、なんて情けないんだ僕は。現状にこそ泣きたくなる。僕に「好きです」と直接伝えられるだけの勇気があれば、こんなことにはならなかったのに。


 わたしに任せなさいとばかりに、先輩は胸を叩く。


 情けない。情けないけれど、文字たちに詰め込んだあの想いを失ったままにするのは、どうしても嫌だ。


「じゃあ……お願いしても、いいですか」

「はい。どんと来いです!」


 先輩はにっこり笑う。この笑顔の為に綴った筈の手紙が失われてなお、こうして目の前で先輩の微笑みを見られたのは喜ばしい限りだが、決して本意ではない。


「ちなみに、そのメモというのはどちらに置いておいたんですか」


「本の間に挟んでいたんです。な、なくさないように」つい嘘をついた。


「ということは、昨日読もうとしていた『コバルトブルーに会いに行く』ですかね。その作品は芦田ワタルさんの作品ですから、わたしには取れませんが」


「いえ。違う本です」


「その本とは?」


 ここで口をつぐんでは元も子もない。


「図書室で借りた、『きみへ綴る』です」


「『きみへ綴る』……ええ、憶えていますよ。倉橋くんが最初に図書室で借りてくれた本ですね。懐かしいです。あの本がきっかけで、倉橋くんは文芸部に入部してくださったんですもんね。わたしも思い出深いです」


「ええ……まあ……」

 ついつい口許に笑みを浮かべてしまった。


 憶えていてくれた。憶えていてくれた。憶えていてくれた。現況を忘れさえすれば、これだけでも絶頂ものだ。それをなんとか隠そうと、僕は話を先に進めた。


「それで、本がなくなっているのに気づいたのは、このメモがあったからでして」


 僕は机の上に置かれていた、一枚の黄色い紙を先輩に見せた。


「きみへ綴る、元の場所に戻しておきました。返す場所を間違えないように……ですか。ということは、誰かが勝手に図書室へ返却してしまったのでは?」


「いえ。今確認して来たんですが、図書室には返ってきてない、と」


「そうですか。考えてみればそうですね。部室には図書室からお借りしている本がたくさんありますから、『きみへ綴る』だけが返されることはありませんね」


 図書室の本には、一目見て分かるよう背表紙にラベルが貼られている。けれど、この部屋にはそんな本は一冊二冊ではない。部誌の書評を書く為に部員が借りている本が山ほどある。主に、やたら読むのが早い葛西先輩が借りた本だろう。盲点だった。そう考えれば、図書室まで全力疾走する必要も、図書委員にどん引かれることもなかったのに。


「一体誰がこんなことを……」イライラしながら、僕は吐き捨てた。


「メモが走り書きです。よっぽど急いでいた方なのでしょう。そういえば、部室に鍵は?」


「掛かってました。職員室に鍵を借りに行った時も、ちゃんとありましたし」


「今日は修学旅行で二年生は不在。山下さんは風邪でお休み。となると、鍵を借りられるのは、わたしと倉橋くんと鹿島さんだけですから、本の在り処を知っているのは鹿島さんということになります」


「でも、僕は放課後すぐにこの部室に来ました。鹿島さんが本をどうこうする時間はなかったと思うんです」


「今日の朝にはこうなっていた可能性もありますよ」


「いえ……その、本を置いたのは、今日の朝なんです」


 先輩は目をぱっちりと開いた後。


「朝早く部室に来るなんて珍しいですね」とにやにやしながら言った。部員に内緒で小説でも書いていたと思われたのだろうか。「でも、確かに。昨日わたしが本を取る時には『きみへ綴る』はなかったように思います」


 先輩は腕を組んで「うーん」と悩む。部室奥のいつもの椅子に座って、部室内とメモを何度も見ては、「うーん」と唸る。


「部員以外に文芸部部室に入る理由があるとしたなら、図書委員くらいでしょうか。しかし、でしたら部室の本の戻し場所についてどうこう言われることはないでしょうし、たとえ指摘されることがあったとしても、わざわざ自分から元の位置に戻すなんていうことはしない筈ですから……」


 こんな時なのに、僕は先輩の一挙手一投足から目が離せない。見惚れてしまっている。


「となると……」


 そう言うと、先輩は、はっ、としたような表情で僕を見た。


「倉橋くん、犯人の可能性があるのは、わたしの中には一人しか浮かんできません」


「え、一人浮かんでいるんですか?」


「はい。その方以外には考えられません。その方には、本の位置について文句を付ける権利も、場所を移す権利もありますので、きっとそうです。と、いうことは、です」


 先輩は僕のすぐ隣に立って、上目遣いで僕の目を見つめてくる。


「メモには『きみへ綴る、元の場所に戻しておきました。返す場所を間違えないように』とあります。この部屋の状況から、『図書室の本が部室にあるのが不適切である』、という意味でないとするならば、このメモを残した方はこう言いたかったのではないでしょうか。『きみへ綴る、片付ける場所が違いますよ、この部室内における、片付けるべき場所、に戻しておきました』、と」


「返す、場所……片付ける場所」


「倉橋くんは、『きみへ綴る』を、一体どこに置いたんですか」

「それは……」


 それは、先輩が背伸びをしても見えない場所。部室に入って左手の棚の最上段。


 逡巡しながら、僕は、そこを指差した。


 すると先輩は、「なるほど。やはりそういうことですか」と言って、にっこり微笑んだ。


「メモにあるところの、『元の場所』の部分に、惑わされてはいけなかった、ということですね」


「ど、どういうことでしょうか」


「重要なのは、『返す場所を間違えないように』の部分ですからね。このメモを書いた方は、部内におけるルールを順守するため、『きみへ綴る』が適切な場所に返されるべきと判断し、このメモを書いて、わざわざ場所を移した」


 僕ははっとした。「そういうことか」と呟きながら、思いっきり背伸びをして、棚の最上段を見た。


 そう。

 部室に入って右手側。


 つまり、朝に本を置いた方ではない、もう一方の棚だ。

 さほど身長の高くない僕には、この棚は高すぎる。だから、混乱する状況では気付けなかったのだ。


「あ、あった……ありました先輩!」

 涙声が露骨に出ていた。


 蓮野東次郎はすのとうじろう、『きみへ綴る』――本来の場所ではないものの、あって然るべき場所に、それはあったのだ。


 ほっと胸をなでおろしながら本を手にして、先輩に見えないようにメモが、いや、先輩へのラブレターが無事かどうかを慌てて確認する。


 水色のレターセット。たった一枚の紙が入ったレターセット。先輩への想いを、大好きを詰め込んだ、大切な手紙。


「はあ。良かった……あった……」


 全身の力みが一気に抜けて、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。目線の先には、椅子に座った先輩の足。スカートの中が見えそうだ。思わず目を逸らすけど、もう一度見てしまう。


「そうですか! それは良かったです」


 僕がドキドキしているなんて知りもしないような、心の底から喜んでくれている声がする。目線を上げてみれば、先輩は満面の笑みで祝福をくれる。


 やっぱり、先輩はとても素敵だ。


 こうして今日も、僕は先輩のことを、またさらに、好きになってしまった。

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