第17話 科学より愛を信じる

 そういうわけで、わたしはある拘置所内の死刑囚棟にいる。


 まったくやることがなくて退屈していたら、妻が面会に来た。


「……ぜんぜん平気そうね」

 面会室のガラス越しに、妻が発した第一声はそれだった。

「……まあ、元気だよ。そっちはどうだい?」

 わたしは妻に微笑んだ。


 妻はやつれ果てていた……最後に会った一年前と比べると、十も余計に歳をとってしまったように見える。しかし相変わらず妻は美しかった。

 いや、やつれてさらに美しさに磨きがかかったというか……よくもまあ、こんな美しい女がわたしなんかと結婚してくれたもんだ。


 死刑囚の分際で、のろけている場合ではないと思うのだが。

 妻は青ざめた顔で……大きく目を見開いてわたしを見た。

 何か得体の知れないものでも見るような目で。


「……“そっちはどう”? いま、“そっちはどう?”って、言ったの?」

「ん? どうかしたの?」

「…………あの子が死んだわ」

「…………」


 しばらく黙って、妻の顔を見ていた。

 そのことは拘置所の職員から聞いていたが……今、わたしはこの立場だし、葬式に顔を出すわけにもいかず、わたしにできることは何もないと考え、そのまま 放置していたのだ。


「……死因は何だと思う? 衰弱死よ」

「……そうか」

「“そうか?”……それしか言うことがないの? あの子が死んだのよ?」

「いま、聞いたよ」

「ねえ? わたしたちの、息子が死んだのよ?……噛み跡だらけになって…… ボロボロになって……死んでから、お医者さまがあの子の身体を調べたわ……一〇七箇所! あの子の身体に、一〇七もの歯型があったのよ?」

「ひどいな……」

 わたしはふう、とため息をついた。そして鎮痛な顔を作った。

「……左の耳 たぶと右の乳首、右足の小指は、ほとんど千切れかかってた……で、医者は何て言ったと思う? 何でこんなことになったの、ってわたしが聞いたら『わかりません。わたしたちの理解が及ばない領域の出来事です』って、そう言ったのよ? 人が一人、ズタズタになって死んだのに、そんなふうに言っ た のよ?」

「……かわいそうに……」

 できるだけ、声を沈ませて言った。

「“かわいそう?”」妻が身を乗り出して、わたしたちを仕切るガラス に顔をくっつけて叫んだ。「“かわいそう”じゃないでしょう?……あなたに は、そんな感情なんかないんでしょう? だから、十一人も人を殺して、平気な顔してわたしたちと暮らしてたんでしょう? ……いや、三〇人だったっけ? そ れとも五〇人? ……“かわいそう に?”……よくもまあ、口先だけでそんなことが言えるわね? あなた、ぜんぜんそう思ってないわよね? 自分の息子にも、本気でそう 思ってないわよね? ほら、顔を挙げなさいよ! もう一度言ってごらんなさいよ! ほら、わたしの顔を見て、目を見て“かわいそうに”って 言ってごらんなさいよ!」


 いちいち言葉尻をとらえてくどくど言うのが、妻の悪いところだ。

 でもわたしは、妻を愛していた。


「……いや、かわいそうだと思うよ」わたしは妻の目を見て言った。「辛かったろうなあ……痛かったろう。胸が張り裂けそうだよ」

「ぜんぜん、ぜんっっぜん! 心がこもっていない!」妻がガラスを叩きながら叫ぶ。「一滴も、一ミリも心がこもってない! 死んだのよ?……わたしたちの、 たった一人の息子が死んだのよ?」

「……いい子だった。なんであんな目に……」

「わかってるでしょ?」妻がわたしの言葉を遮った。「わかってるんでしょ? あなた、なんであの子があんな目に遭ったのか、わかってるんで しょ?……いや、わたしにはわかってるわ……お医者さまも『わからない』って言ってたけど、目でわたしに言ってたもの……『これは、“呪い”で しょ?』って……お医者さまが目でそう言ってたのよ……『でも奥さん、あなたの旦那さんがやったことを思えば、こういうことが起こるのも仕方がないんじゃないですか?』って……口には出さないけどそう言ってたわよ!……わたしもそのとおりだと思う……あの子は、あなたが殺した人たちに呪い殺されたのよ! で も、なんで? なんで、あなたじゃなくて、なんの罪もないあの子が? なんであなたが歯型だらけになって悶え死ななかったの? ……なんであなたじゃなかったの? ……あの子はまだ一四歳だったのよ?」


 妻に、『息子じゃなくてあなたが死ねば良かったのに』と言われたことは、正直言ってショックだった。

 わたしは少し傷ついた……が、まあ今、妻は自分の……いや、わたしたちの一人息子を失って、ちょっと自分を見失っているだけなんだ、と思い直すことにし た。


 妻はそれ以降も泣き叫び続け、わたしたちを仕切っているガラスを叩き続けたので、係官に引き離された。

 わたしはどうすることもできずに、ガラ スの向こうの妻を見ていた。

 取り乱しても妻は美しかったが、自分の伴侶がここまで恥も外聞も投げ捨てて、幼児のように振舞っているのを眺めるの は、正直言ってつらい。


「そんなに泣かないでくれよ」わたしは、ゆっくり静かに、ひとつひとつの言葉を贈り物のように妻に届けた。「あの子は、死んだんだ。もう、どうしようもな い」

「はああ?」係官に両肩を抑えられながら、妻が叫んだ。「何言ってんの?」

「ここから出たら、さっそく新しい子供を作ろう」

「ええ?」

 妻が目を見開いた。眼窩から目玉がこぼれ落ちそうだった。

「二人ならなんとかやっていけるさ……ここから出たら、また一からやりなおそうよ。新しく子供を作ってさ。今度は女の子がいいな……死んだあの子のぶんま で……いや、あの子以上にその子を愛して、甘やかして、三人で幸せに暮らそう……な、そうしようよ」

「あ……あなた……」妻の声はもう枯れ果てている。「しょ、正気なの?」

「もちろん」

「あなた……あなた本気で……ここから出られると思ってるの?」

「ああ」

「……な、なんで…」口紅をしていない妻の唇は、紫色に染まっていった。これまで絞め殺してきた連中と同じように。「なんで……そんなふうに思えるの?」

「だって……おれ、無罪だもん」


 ガラスで仕切られた二つの部屋が、しんと静まり返った。


「………それ、本気で言ってるの?」

「そうだよ。当たり前だろ……? こんなとこじゃあ、冗談も言えないよ。だいたい俺が人殺しなんか、するわけないじゃないか。これは冤罪だよ。完全な誤解 だよ……だって“おれが殺した”と言われている人間の死体なんか、ひとつも見つかってないんだぜ?」

「……あなたの車に……たくさんの見ず知らずの人間が乗っていたことが、証明されたのよ?」妻の声はすっかり落ち着きを取り戻したようだ。少し冷 たく聞こえるくらいだ。「いや、あなたの車じゃない……わたしたちの車から……ねえ、あなた、覚えてるわよね?……あの車で、あの子と わたしと一緒に、何度も旅行やピクニックや、スキーに出掛けたのを……その車から、たくさんの人間が乗っていた痕跡が出てきたのよ?……そのうちのいくつかは、行方不明になって る子供たちのものだって、科学的に証明されたのよ?」

「おれは科学よりも……愛を信じるよ」

「はああああ!?」

 妻が鴉のような声で叫ぶ。

「いや、今のは忘れてくれ。その子たちがおれの車に乗っていたからって、おれがその子たちを殺した、ってことにはならないだろ? おれは殺してない よ。なあ、これは冤罪なんだよ。まあ、弁護士も頑張ってくれてるみたいだし……いずれ、おれの容疑も晴れるよ」


 静かだった……恐ろしく静かだった。

 妻も……ガラスの向こう側にいる係官も、わたしの背後にいる係官も、全員が消えてしまったかのように静かだった。

 ここまでの静寂が一致すると、思わず笑い出したくなってしまう。


「……あなた……」

「信じてくれよ。夫婦だろ?」

 わたしは笑ってみせた。とびっきりの笑顔で。

「…………ねえ」飛び出しそうになっていた妻の目が、みるみる引っ込んでいった。彼女の目の中に点っていた灯りのようなものが、消える。「ねえ……もしあ なたが 言うとおり、あなたが無罪で、あなたの容疑がぜんぶ晴らされたとして……あなたが釈放されたとして……あなたがここから出られたとして……あなたが、 わたしのもとに帰って来れたとして……あなた、わたしとまた、これまでどおりに暮らせると思ってるの? わたしたちが、もとどおりになれると 思ってるの? ………あの子は、もういないのよ?……あの子は、死んだのよ?……あの子が死んだことと、あなたがここに居る理由は関係ないとして も……あの子はもう、いないのよ?……それでも、わたしたち二人がもとどおりになれると、本気で思ってるの……?」


「あの子が、いないだけだろ?」わたしは言った。「大丈夫。時間はかかっても、二人ならきっとやっていける……愛してるよ」

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