秘密は動揺・1

 生まれ持っての性格というのは、三つ子の魂なんとやら、ではないけれど、変えること自体がなかなかに難しいものだ。私の場合、特に対人関係についてはそれが顕著で、何につけても内心が表情に出てしまいがち、ということがあるせいか、小鈴には昔から『苦手、って思ってる子の前だと、凄くびくっとするよねー』などと笑われたりもしていて。

 そして、姉には加えて、『プラスならまだいいけど、マイナスまで全力で受け止めようとするのは見てて怖い』とかねてから指摘されていたりもする。要するに、相手に言われたことを何でも丸ごと飲み込むのではなく、いったん受け流すことも少しは覚えないとだめだよ、と、部のことで色々悩んでいた時に、助言をしてもらった記憶も新しいのだけれど。

 「おい、堤部長。ちょっといいか」

 「えっ!?あの、す、少しだけ、なら」

 とはいえ、こうも真っ向から、かつ堂々と向こうから来られてしまっては、受け止める以外にどうしようもないだろう、とも思うわけで。

 五月も中旬に入った、木曜日。今日も今日とて日誌を手に部室へと向かう、その途上で。

 昇降口にさしかかるなり、すぐ脇から掛けられた声に、私は緊張に身が強張るのを感じながら、とっさにそう応じていた。

 それを察したのか、胸にネームの入った白のシャツと青のハーフパンツ(確か陸上部の練習用ユニフォームのはず)に身を包んだ今井くんは、ひときわ濃い眉をわずかに寄せた。

 「俺もこれから部活だから、そんなに時間取らせるつもりはねえんだけど。ひとつだけ聞きたいことがあって」

 意味ありげに切られた台詞に、私は反射的に身構えてしまった。少し前に呼び出された時とは打って変わって平静な態度だとはいえ、部長会の時以外、これまで関わりはさほどなかった相手だから、問われる心当たりとなれば、もちろん彼のことしかなくて。

 盾のように、イエローの活動日誌を胸元に抱えて見つめ返すと、やや細めの一重の瞳が睨むように細められて、ちょっと不安を煽られる。と、

 「そっちの一年三人、もう本入部になったのか?」

 「……ま、まだ、だけど」

 まるで同じ調子で続いた思わぬ質問に、一拍を置いてそう返すと、今井くんは今度こそはっきりと眉間に皺を寄せて、

 「そうじゃねえよ、あいつのことはもう諦めた、って言っただろ。それに今日何日だと思ってんだ、ぼやっとしてると、本多の決めた期日が過ぎたら容赦なく追い出されるぞ」

 「え、あの、でも今月末が期限だし、まだ完全に二週間は経ってないし、そろそろとは考えてたんだけど……」

 そう反論している間にもさらに険しくなった視線を向けられて、情けないことに語尾がしぼんでしまう。まだ確約されたわけではない以上、彼の言うことには一理あるのだ。

 篠上ささがみの部活動にかかる通例のひとつとして、仮入部から二週間経てば、本入部、つまり正式にその部の部員となるか否かの判断を、部長から問うことになっている。ただ、この期間の取り方がどうにもあいまいで、生徒会長たる本多くんには『俺が知るか。それより先に部員確保だろうが』で切り捨てられ、小崎先生に聞いても『んー、昔っからテキトー』としか言われなかったので、私と小鈴は『部活動を二週間分行った時点で』と考えているのだが、それはさておき。

 「それに、やっと皆、活動の中身に興味を持ち始めてくれたかな、っていうところだし、出来るだけじっくり考えてもらった方がいいかと思って。だから、その、来週までには」

 「やっぱ、馬鹿正直だな。おまけに呑気すぎんだろ」

 ストレート過ぎる評価とともに、私の言葉をばっさりと断ち切った今井くんは、呆れたように小さく息をつくと、

 「俺みたいにむやみと突っ走んのもなんだけど、少しは危機感持てよな。さすがにもう他の勧誘はないにしても、そっちはこっちと違ってギリなんだし、一人が土壇場でやめた、ってことになりでもしたら、それこそどうしようもなくなるだろうが」

 「わ、分かってる、だから、今日も明日も、この先まで続けてもらえるようにしっかり活動するから。でないと、申し訳ないし」

 一応、頭の隅には置いていた最悪の可能性にひるみつつも、なんとかそれだけを告げてしまうと、彼はすっと眉を上げて、

 「申し訳ないってのは、俺にか?」

 「それも、あるけど。部の皆にも、先輩方にも」

 「なら、俺はけといてくれ。別に、お前がそこまで引き受けることじゃねえんだし」

 「おーい、今井、もう一周終わったぞー。さっさと戻れよー!」

 前触れもなく外から飛んできた大声に、私がびくりとして顔を向けると、昇降口の扉の向こうに、彼とまったく同じユニフォームを纏った団体が、とても綺麗な一列縦隊のままこちらを見ていて。

 それにひとつ頷いてみせた今井くんは、話は終わり、といった風に無言で踵を返して、そのまま彼らの元へ走って行ってしまった。さすが、副部長を務めるだけのことはあって、素人目にも滑らかなフォームで、見る間に駆けだす群れに合流してしまう。


 ……ひょっとして、心配してくれた、っていうことで、いいのかな。


 動きとともに、白の地に鮮やかなブルーで『STAF』(Sasagami Track And Fieldということらしい)のロゴが揺れ動くその背中を見送りながら、私はほんの少しだけ、気持ちが軽くなるのを感じていた。



 けれど、いざ部活が始まってみると、もしや彼の忠告は当たっていたのではないか、という事態が、静かに進行していたようで。

 「あれ、浦上くん、今日は来てないの?」

 当初よりも人数が四倍、と増えたせいもあって、小崎先生がどこからともなく調達してきてくれた新たな備品も入り、レイアウトをかなり変えてしまった、プレハブの部室。

 八人全員が座れるように、部屋の中央に二つ縦に並べて据えた長机を囲むように置いてある、赤と緑の丸椅子にてんでに掛けているのは、彼を除いた図書部の四人だけで。

 「みたいです。ていうか、ついさっき俺宛てにメール飛んできたとこなんですけど……チャイム鳴って速攻でトイレ行ってる間にいねーなー、と思ったら、これっすよ」

 そう言いながら、たいていは空いている一番手前の梶先輩用の椅子をひょいと跨いで、私の傍に寄ってきた木原くんが、手にしたスマホをこちらに示してくれた。



 浦上 亨

 To:木原 誠斗

 今日、無理になった。


 悪いけど、部長に連絡頼む。



 「簡潔なのはいつも通り、だけど……なんだか、あまりにも必要最低限過ぎないかな。緊急にしても、理由に全然触れてないのって、浦上くんらしくない気がする」

 「それ、ちょっと思った。無駄に義理堅そうなイメージなのに、なんか変じゃない?」

 一番奥の赤い椅子に掛けて、さっそく読んでいたらしい昨年の会誌を机に伏せながら、要がそう言ってくるのに、その手前の席に座っていた小鈴がうんうんと頷いた。

 「少なくとも、真雪とわたしには絶対連絡してくるタイプだよねー。こないだだって、わざわざ休みます!ってうちのクラスまで走って来てたしー」

 「単にメール送るよりその方が早いだけでしょ。それに、部長はともかくあんたなんか渺漠びょうばくどころか涅槃寂静ねはんじゃくじょうレベル過ぎて視界に入ってたかすら怪しいんじゃないですか?」

 「微妙に見た目とマッチしてるっぽい単位を展開しないー!!それにわたし悟りを開く予定とか未来永劫さっぱりないんだけどー!!」

 「えーと、さりげに難解な用語でじゃれ合ってるアレはもう放置でいいとして、部長ー、俺から浦上に詳しい事情聞いときますかどうしますかー?」

 もはや恒例、となりつつある小鈴とチカくんの攻防(というか、むしろどちらも攻しかないのだけれど)を横にしながら、さらっと提案してくれた木原くんの言葉に、私は少し迷ってしまった。

 小鈴の言うこないだ、は先週のことだけれど、彼自身からきちんと『親の都合で、急に弟を迎えに行くことになりました』と聞いているから、同じ理由で、という可能性も考えられるし、それに一日お休みしたからといって、そろそろ次の会誌の構成を詰めていこうかな、という進行状況だから、まだまだ活動に影響が出るほどでもなくて。

 「心配だけど、連絡してくれたんだし、そこまではいいよ。また明日もあるんだし」

 それに、本入部の話を切り出すにしても、きっと浦上くんもいる時の方がいいだろう。男子三人で色々と相談したいかもしれないし、などと考えつつ、小鈴の隣の席に着く。

 と、まるで図ったかのように、聞き慣れた短い着信音が響いて。

 「ん、メール?やっぱ王子候補から?」

 「あのね要、いい加減その呼び方やめようよ……あ、梶先輩からだ、けど」



 そちらに


 梶 友哉

 To:堤 真雪


 あれはいるか?



 ……誰のことを指してるのかは、分かるけど。詩乃ちゃん、先輩の中でどういう扱いになってるんだろう。

 「おー、さらに簡潔っぷりを上回ってくるとかやるねー先輩。まだ会ったことないけど」

 「喋る時はもうちょっと普通だよー。99%批評とダメ出しで残り1%はパンの話だけど」

 「うっわー九割九分食らいたくねえー。しっかし、既に『大原』ですらなくなってるんですけどー」

 「そりゃ、しつこく『是非ともわたしのことはしのん!とお呼びください!』とか迫るからでしょ。まあ、あの偏屈キャラに口にさせたら楽しそうではあるけどさ」

 「……あの、覗き込むのはもういいんだけど、誰か彼女のこと見かけなかった?」

 考えを巡らせている間に、気付けば私を取り囲んでいた皆に、取り急ぎそう尋ねてみる。何しろ、ここのところ漫研の二人が二人とも、顔を見るのもまれなほどで、おかげで要が入部してくれたというのに、紹介することも出来ていなかったりするのだ。

 と、意外なことにチカくんが、はいはい、と軽く手を挙げてきて、

 「来る途中で、メモとペンっぽいの両手に持って中庭突っ切って行ったの見ましたよ。えらく急いでたから、先輩に逃げられたか、と思って普通にスルーしましたけど、たぶん昇降口抜けて行ったんじゃないですかね」

 「そうなんだ、有難う。でも、何かあったのかな……」

 ともあれ、得られた情報と浮かんだ疑問を簡単に記してしまうと、すぐにメールを送る。すると、まさに打てば響くようなスピードで返信が返ってきた。



 感謝する。


 梶 友哉

 To:堤 真雪


 次号のプロットの締め切りが明日までなんだが、

 ここ数日、あれの行った先が皆目分からないので、困っている。

 メールの返事すらも寄越さない始末だ。

 もし、見かけることがあれば、知らせてくれ。

 頼んだ。



 「えー、詩乃ちゃん行方不明ー?一歩下がれば踏まれそうなくらい先輩べったりだったのにー、こんなのありえなくないー?」

 「うん……会誌のテーマも決まったから、って、凄く張り切ってたはずなんだけど」

 漫研が次に出す夏季号のテーマは、以前に小崎先生から聞いた通りに『恋か愛か』だ。そういうことに関して、具体的な経験がまるでない私からすると、これは凄く難しい選択だなあ、と思っていたところなのだが、

 『お任せください、自らの経験は皆無ですが、少女漫画はひととおり読んでおりますし、なにより妄想力は人一倍ですから!』

 と、胸を張りつつ、がぜん瞳を輝かせていたのも、記憶に新しくて。

 「とにかく、まだ探し回らないといけないような事態じゃなさそうだし、始めようか。先輩への協力については、あらためて皆にもお願いします」

 「りょーかーい!じゃあ、今日はさっそく新しいリレー連載の設定からねー……」

 私の言葉に、たいていは進行を買って出てくれる小鈴が、てきぱきと資料を配っていく。

 それを目で追っていると、すぐ向かいの、ひとつ空いたままの席に視線が引き寄せられて。


 ……明日は、来てくれたら、いいんだけどな。


 手元に滑り込んできた資料を見下ろしながら、私は微かに波立つ心にそう呟いていた。



 「しかし、結構みっちり真面目にやるもんだねー……なんか私、文系舐めてたわ」

 部活も終わって、ゆるゆるといつもの通学路を駅の方へと向かう、その途上で。

 果実そのままのような色合いのオレンジの自転車を、こちらに合わせてゆっくりと押し歩きをしながら、要がしみじみと零したことに、私はちょっと笑ってしまった。

 「肉体的なトレーニングは必要ないけど、皆で詰めとかないといけないことは多いから。それにまだ五月だって言っても、油断してるとすぐ締め切りだー、ってなっちゃうからね」

 「そーそー、中身がなんとか出来ても校正とか梶先輩と青柳先生ダブルチェックとかー、掲載順決めとかも結構悩むしー、特に夏号はその前に中間テストと体育祭があるからさー、地味にスケジュールがきっついんだよねー」

 私の言葉に頷きながら、小鈴がそう後を続けると、要は軽く眉を寄せた。

 「ん、ちょっと待って、青柳先生ってそもそもうちの顧問じゃないじゃん。小崎先生は何してんの?」

 「え、えーと、日誌のチェックとコメントは毎日……返ってくるの、よく遅れるけど」

 「あとー、ふらっとやってきてたまーに麦茶差し入れしてくれてー、誰かの原稿読んで、この展開おかしくない?って突っ込んで帰る、みたいな?」

 「うっわー普段と変わんないー。クラスでもまるっきりそんなんだわセンセー」

 天を仰いで、呆れと感心が混ざったように言ってくるのに、また笑みを誘われてしまう。

 小崎先生は、図書部の顧問であるとともに、要の所属している二年二組の担任だから、そういう意味でも関わりは深いのだ。だから、こうして帰るのが二人から三人になっても、何かと話題に困ることはないのが、密かに嬉しいポイントだったりするわけで。

 そんなことを考えている間にも足は進んで、行く先にはコンクリートの表面も未だ白い電車の高架橋、そして、まだ真新しい外装(梶先輩が入学した年に改修されたらしい)の、シルバーのフレームとガラスで構成されている、篠川駅ささがわえきが見えてきた。

 ここからは、小鈴と私は行く手にある階段を上がり、上にある改札に向かうのだけれど、自転車通学の要は、高架下を南北に真っ直ぐに貫いている、二車線の道なりに帰路につくことになる。のだが、

 「あ、真雪ー、そっちの電車出ちゃったよー」

 「ほんとだ。でも、タイミング的に間に合わないな、って思ってたし、どこかで適当に時間潰そうかな」

 小鈴の上げた声に、行先表示の青の地に、白の文字で『普通』と示された、沢合さわあい行きの列車がホームを出ていくのを見上げながら、およそ二十分弱の待ち時間をどうしようか、本屋さんにでも寄ろうかな、などと考えていると、

 「……真雪、小鈴。ちょっと自信ないから、あっち見て」

 「え?なに……」

 奇妙に低めた声に振り向くと、歩道の真ん中で立ち止まった要が、きつく目を細めて、睨むようにひたと一点を見つめている。その眼差しに押されて、私も小鈴も見えない線を、つっと視線で辿っていくと、

 「あれ、あの高架下の、コンクリの柱のすぐそば。立ってるの、王子候補じゃない?」

 さらに情報を補ってきた言葉に、驚いて目を凝らしてみる。こちらに半ば背中を向けているけれど、相変わらず長めの前髪と、何より傍に立ててある黒い自転車は、紛れもなく彼のものだ。

 要が示したのは、通学で私と小鈴が毎日使っている、高架に沿うように作られた階段の、丁度陰になるような、そんな場所だった。頑強な橋桁はしげたを支える、幾本ものシンプルな太い橋脚きょうきゃくが並ぶその間のスペースには、市営駐輪場や倉庫などがさまざまに設置されていたりするのだけれど、彼が立っている位置には、未だに何もなかったはずで。

 「……帰ってたんじゃ、なかったんだ」

 理由がどうあれ、きっと帰宅済みなのだろう、と思っていただけに、戸惑いつつもそう呟くと、小鈴がうーん、と唸って、

 「一応連絡アリでもさー、こんなとこでサボってるっぽくも見えちゃうようなことしてるのって、なんか変な気がするよねー?」

 「まあ、目につくような近場にはいないよね、普通は。よっし、行こう」

 「……えっ、か、要!?ちょっと待って、あの」

 がしゃん、と音を立てて自転車の向きを変えると、明らかに彼の元へと向かおうとしているのに、私が慌てて後を追うと、要はくるりと振り向いてきて、

 「私、真雪の時間潰しに付き合う、そのために駐輪場を利用しよっかなーと思いました、でよくない?」

 「おー、まさしく完璧な言い訳ー。よーし、この際三人で行っちゃおうかー」

 「小鈴まで……あの、でも、もし誰かと遊んでるとかなら、声を掛けるのは」

 「はばかられるかもしれないけど、それは近付いてみてからかな。ちゃんと空気は読む、ってことでさ」

 それで決まりとばかりに言い切ると、どこか面白がっているように笑みを浮かべた要は、迷うことなく先に立って歩き始めた。

 ……こういう自分にない思い切りの良さは、新鮮ではあるけど、心臓にも悪い気がする。

 そんな感想はさておいても、結局のところ気になっているのは私も同じだ。どことない後ろめたさをひしひしと感じつつも、階段前で向かって右に折れると、一方通行の道路に沿うように、要、私、小鈴の順で列をなして進んでいく。

 次第に近付いていくにつれ、より状況がはっきりと見えてきた。さほど広くはないそこは、整えられているとはいえ土が剥き出しのままで、片隅に倒した三角コーンが置かれている以外は何も見当たらず、殺風景極まりない。そんな場所だというのに、浦上くんは、奥の薄暗い一角の方を向いたまま、じっと立ち尽くしているようで。

 「遊びに、とかいう雰囲気じゃなくない?これ」

 「うん……人を待つにも微妙だし」

 さすがに囁き声でそう要とやりとりしていると、ふいに背後から腕を取られて、危うく声を上げそうになる。焦って振り向く前に、横に一歩進み出てきた小鈴が、口パクと腕の激しい振りで、あれ、と指してみせるのに、私はようやく気付いた。

 彼の立つ位置から、ほんの数メートル先。次の幅の広い橋脚の傍らに止めてあるのは、鮮やかなまでに赤い色の、見覚えのある自転車で。

 「おーい、なんで止まってんのー、二人ともー……」

 その間に、五歩ほど前に進んでいた要が私たちの様子に気付いて、自転車を巡らせた時、細い車輪の先が何かを引っかけて、跳ね飛ばされて。

 あ、と思う間もなく、短い放物線を描いたものがアスファルトに跳ねて、高い金属音を辺りに響かせる。転がる黒と銀に、コーヒーの空き缶だ、とその正体を見て取った瞬間、鋭く振り向いてきた彼と、私はまともに目を合わせてしまって。

 

 幾度も閃いた眼光が脳裏を過ぎって、縫い留められたように身体が固まる。

 けれど、現れたのはあの眼差しではなく、一瞬の驚きと、明らかなうろたえの表情で。


 次の瞬間、さっと奥に向き直ると、二言三言何事か言うように唇を動かした浦上くんは、じきに浅く、頷いて。

 こちらにはそれ以上目もくれず、傍らの自転車に飛び乗ると、見る間に高架下を抜けて、線路と並行に延々と伸びている細い道を、沢合方面へと走り去ってしまった。

 「……せ、先輩方、申し訳ありませんー!!」

 呆然としているところを、追い打ちを掛ける高い声に呼び戻されて顔を向けた時には、同じように高架下をくぐった赤の自転車が、彼とは真逆の方向へとひたすらに遠ざかっていって。

 「……えーっと、一応聞くけど。あれ、ひょっとして例の子?」

 「……うん、詩乃ちゃん……だけど」

 「密会はともかくとしてさー、謝られるのはやっぱ、意味わかんないよねー……」

 

 ……そうだ、結果として、秘めた場所に土足で踏み込んでしまった、ということで。


 気まずさを露わにした小鈴の言葉に、胸の中でぐるぐると渦巻くものがひとつ増えて、私は不安と混乱に揺さぶられたまま、その場から動けずにいた。

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