第34話巷に雨の降るごとく、わが心にリリの涙雨 

5月10日 Tue.

巷に雨の降るごとく、わが心にリリの涙雨  

●夜来の雨が小止みになった。妻が薔薇の剪定をした。二袋もある――透明なゴミ袋のなかにバラの小枝や緑の葉がびっしりとつまっている。また降りだしたら外にでるのが億劫になる。夜が明けたばかりだ。静かだ。そっと玄関を開けた。昨日のうちに見ておいた場所に袋はあった。あれからまた剪定作業をつづけたのか、袋の中にはドキッとするほど赤い薔薇が一弁はいっていた。梅雨寒のような(まだ梅雨入りはしていないよな、でも肌に感じる寒さは、まさに梅雨寒)朝の寒気にはそぐわない。真赤な薔薇は五月晴れの薫風にこそよくにあう。

●門扉を開けてから、あわてて閉めた。リリが外にでてはたいへんだ。そこで、気づいた。リリはもういない。いないのだ。霧雨が睫毛について、いやリリを思いだして哀れで、涙がでているのだった。

●悲しみはまだ断続的につづいている。ふと、なにげない日常のなかで、こみあげてくるように思いだす。門扉が門柱にあたって大きな音をたてた。まだ寝ている近隣のひとたちをおどろかせてしまったのではないかと気になった。

●ゴミ集積所の黄色い網が黒く、土砂がこびりついていた。食べものの残滓ではないから、カラス避けの網は被せる必要はないだろう。ビン類や空き缶をいれる容器の底にかなりの雨がたまっていた。昨夜はあまり寝なかった。うとうとしながら小説をよんだ。みんな上手く書くものだな。やっぱりおいらは能なしだ、なんて考えた。でもかなりの時間寝ていたのだろう。雨は何時頃強く降ったの? 歳のせいなのだろうか。なにかすべてにおいて、知覚が鈍くなっている。

●それなのに、リリを失った悲しみからはまだぬけだせない。

●30メートルほど歩き宝蔵時の雨に打たれてぬれた墓場を眺めた。

●リリの墓標をたてるかわりに、ホリゴタツの前の襖にリリのシヤシンをはりつけた。こうしておけば、いつでも、リリに話しかけられる……。

5月11日 Wed.

どこにいっても、リリの思い出   

●階下のホリゴタツから二階に移動した。

100円ショップで買った小さな額縁にリリのシヤシンを入れてパソコンといっしょにもってきた。これら7月の初め頃までは、ここが書斎だ。ここで、精進することになる。

●北に面した窓辺にブラッキ―が座っている。

窓の外は空き地になっていて、猫は外を見るのが好きなので、身動き一つしないでジッと座っている。ブラッキ―の隣りにいた三毛猫のリリはいない。リリは胴周りはほとんど白い毛だった。黒と白の対比をもう、楽しむことは出来ない。ブラッキーも寂しそうだ。

●リリは、あんなに、外にでたがっていたのだから――もっと外にだしてあげて、遊ばせてやればよかった。カエルを追いかけた。バッタを咥えて帰ってきたりした。小さなハンターのリリが、まさかこんなに早く死んでしまうとは――。外にだしてあげないで、ごめんな。

●どこにいっても、どの部屋に入っていっても、リリの思いでが蘇える。いつになったら、この悲しみから解放されるのだろうか。いやリリを忘れることはないだろう。

5月11日 Wed.

街猫のいるところに住みたかった。 

●夜二階でパソコンに向かっていると、街の騒音が聞こえてくる。このところ、パトカーの警笛とか、救急車のサイレンがよく聞こえてくる。事故とか事件がふえているのだろうか。

●しばらくぶりで、暴走族も見かける。街が騒然としている。

●それとはまったく別なのだが、野ら猫がいなくなった。まったくと言っていいほど猫を見かけなくなった。どうしてなのだろう。

●ペットショップでも猫を売っていない。これは、売れないのだと思う。犬の好きなひとはいるが、猫好きがすくない。

●街猫の話題がテレビで流れていると、うらやましい。

●猫をケギライシテ、石を投げる大人がいる街だ。猫を飼っていると肩身がせまい。外にはほとんど出さないことにしている。

●家も広い。庭も表と裏にある。外に出しても、ほとんど家の敷地からはでない。それでも、近所に迷惑をかけないかと心配ばかりしている。

●リリをあまり外で遊ばせることをしなかった、理由でもある。

●猫がのんびりと街をあるいているようなところに住みたかった。

5月12日 Thu.

●表庭も裏庭でも花壇が花ざかりだ。特に薔薇が芳香をはなって咲き誇っている。五月晴れ。薔薇の精気をすって今日も一日小説を書こう。

●この庭をリリが走りまわっていたらな。とふと思う。リリとの別れの悲しさは、忘れようとしない。忘れよう、思いださないようにしよう。とするからよけいに悲しさがつのるのだ。

●リリとはいっしょだ。何時も共にいる。リリはこの薔薇の庭をいま走りまわっている。それでいいではないか。

●カミサンが起きだして、リリの祭壇のある部屋で「リリ、おはよう」と声をかけている。リリに朝の挨拶をしてから、彼女の朝がはじまる。カミサンも、わたしと同じようにかんがえるようになったのだろう。ムリに忘れることはない。毎日、わたしたちが生きている限りリリはここにいる。

●ブラッキ―がカミサンに寄り添い、甘えている。リリのタマシイガ、ブラッキーにのり移っている。リリ、ブラッキ―とカミサンは呼びかけている。

●薔薇と猫のいる暮らし。ほかに、何を望むのか。満足だ。これで思うような小説が書けたら、なおさらいいのだが。それは自己責任だ。わたしの精進にかかっていることだ。

5月12日 Thu.

ブラッキーにリリが憑依した!! 

●ブラッキ―にリリが憑依した。

パソコンとニラメッコをしていたので目が疲れた。これ以上考えてもいま書いている作品の筋の展開は望めそうもない。小説を書くのは一休みと、キッチンに降りた。

●ところが、おどろいたことに、ブラッキ―がテーブルにのっていた。ブラッキ―は厳しく躾けたので、テーブルにのったことはない。ところが、リリのようにテーブルのうえに平然と座っている。

●「美智子。リリがもどってきた。テーブルにいつもの花瓶に水を入れてやろう」

カミサンは動じない。数学の先生で理系女。小説家の妄想には、つきあってくれない。

●しかたなく、じぶんで、リリの祭壇の花瓶をキッチンに持ってきた。花は抜き、お盆のうえに置いた。花瓶に水を満たしてブラッキーの前に置いた。おいしそうに舌をなんども水にひたし、ぺろぺろと飲みだしたではないか。

●わたしは感動した。コウフンした。

●「そのうち、リリが好きだった美智子の後ろの棚にのぼる。二階の教室の本棚の上にものぼるぞ」

わたしは花瓶から水を飲むブラッキ―にリリの姿を重ねている。この動きを――リリの憑依と思っている。

●柴田よしき、キングの作品にもある。死者をあまり懐かしがって、その復活を望んではいけない。わかっているが――。

5月17日 Tue.

リリのこと小説に書くね。

●薔薇が過剰な、てんこ盛りの美しさで咲いている。

花もおおきい。花数もおおい。いつものとは年ちがう。

「天候のせいしらね」

と薔薇作りに没頭している妻がつぶやいている。

たしかに、アジサイの成長もいつもよりこんもりしている。

そのうちみごとに咲きだすだろう。

わたしのすきな紫のアヤメだって、いつもよりおおく花をつけている。

●田舎暮らしの醍醐味は、庭で園芸にイソシムことが出来ることだ。

この季節になると妻は庭にいる時間がおおくなる。

でも、今年はなにか寂しそうだ。

●リリを失った悲しみからまだ立ち直っていない。

なんとか、忘れようとしている。

でも……忘れようとしなくていいのだ。

ムリに忘れなくても、ひとの記憶はしだいに薄らぐ。

いつか……思いでとしての悲しみの引き出しの中にはいっていることになるさ。

●わたしは小説家だから、これからリリのことを、何時になるかわからないが、書きたいと思っている。

悲しみからぬけだした頃、またその悲しみを喚起しなければならない。

因果な仕事だなぁ。

5月18日 Wed.

リリを失った悲しみはまだ癒えない

●つる薔薇のアイスバーク。白い花弁がチラチラと舞っている。木製の高いバーゴラから落花してくる。たしかに蝶々が飛んでいるように見える。

●リリがカワイラシイ鼻を空にむけて、花弁を追いかけていた。庭を走り回っていた。

●もうリリの姿はどこにも見当たらない。

●哀感がすこしだけ感傷にかわってきている。

●ソレデモ、悲しみはつづいている。

●露縁にがっくりと座りこんでしまった。

5月19日 Thu.

リリを悼むあまり。Simulacra現象。

●ついに恐れていたことがはじまった。

Simulacra現象。

●リリの死を悼むあまり、リリに会いたい。リリを忘れることができない。

何を見ても、リリに見えてしまう。

●三つの点からどんな形でも想像してしまう。天井のシミを見上げていてもリリ。

机の上のインクのシミもリリ。

●リリの写真を小さな額にいれていたるところに飾ることにした。

これならシミュラクラ現象から解放される。どこをみてもリリのシヤシンがある。

リリが生きているようだ。

●幻聴もする。

あのリリの、キイというような独特の鳴き声がときどき聞こえてくる。

●そのうち、ブラッキ―が三毛猫リリに見えてくるかも。

●すでに、ジッとわたしの顔を見上げる表情がリリに似て来たようだ。

●「わたし、ここにいるよ」

と呼びかけられている。そう思いこんでしまう。

●そう思う――。リリの心がブラッキ―に転写された。

●小説家であるわたしはバカですね。いい歳をして、ペットロス。妻ともどもまだ立ち直れません。

5月26日 Thu.

リリは屋根の稜線をあるいていた。

●リリの夢をみた。リリが尻尾をピンとたてていた。リリはからだが弱かったためか、尻尾をピンとたてたことがなかった。それなのに尻尾をたてて屋根のグシをあるいていた。後ろには五、六匹の猫をしたがえていた。得意顔で、「ねえねえ、パパ。あたしこんなに大勢仲間がいるのよ」と訴えかけている。

●うれしくて涙が出た。

「ああ。元気に生きているのだ。こことはちがう、スピリチャルな世界で生きていいるのだ。この世界でできなかったことを堂々となしとげている。よかったな」

と夢の中でわたしはリリに声をかけていた。

●リリは屋根をあるくことが苦手だった。いちどなど、上がったのはいいが、稜線までいきつくことができなかった。ずるずるとすべって落ちて来た。トタン屋根のせいでもあるが、かわいそうだった。いくら鉤爪をたててもすべってしまう。あやうく、大屋根からおちるところだった。リリの鳴き声に気がついた。わたしは二階の窓から屋根にでてリリを救出した。そうした、思い出があったからこのような夢をみたのだろ。

●目覚めてからもリリに会えたうれしさに、胸の鼓動が高まっていた。

わたしはパソコンをひらいて小説を書きだした。机に飾ってあるリリのシヤシンに話しかけていた。

●妻に夢でリリに会ったことを話した。

「いいな、わたしはまだリリの夢をみていない。ほんと、夢でもいいから会いたいわ」

●夢と現実のちがいは、どこにあるのだろうか。鳴き声をきき、触覚からリリのニオイまでした。リリをだきしめているうちに、これは夢だと気がつき目覚めてたのだった。目覚めても、リリのぬくもりと重さがわたしの腕にのこっていた。

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