第20話 神託

「それだけじゃなかった」


 ボリスの瞳に深刻な影がさす。


 異変が起きた最初の夜。彼女たちの唇が動いた。呼吸が、わずかな時間だけ戻ったのだ。しかし、それは寝言を発するためのようだった。全員が、まるで意識があり、示し合わせているかのように、声をそろえて囁いた。


「エルダ姫。エルダ姫はどこ」


 エヴァリードの顔に、驚きと恐れが浮かぶ。


「エルダ姫を探して。連れ戻して」


 彼女たちは、はっきりと、そう囁いた。

(それは……)

 エヴァリードが恐怖に震える。しかし、ボリスは首を横に振った。


「ありえない。リベルラーシに魔物の気配はなかった。それに、あの薔薇は魔法ではありえない。あれは、神の産物だ。春を司る女神にしか生みだせない」


 彼が幼いころに読んだ、神々の伝説を記した神話の本に記されていたことだ。青い薔薇は、春の女神にしか、生みだすことができないもの。植物を統べる彼女が望まなければ咲かないのである。自然界には存在せず、ただ女神の手にだけ宿る。


 だからこそ、それは神託に違いなかった。


 エルダを探し、連れ戻す。

 それが神の意思であるならば、女性たちは、目を覚ますはずだ。


(ですが、いったい何故)


「わからない。でも、今になって思えば、そもそも君がリベルラーシに来たことも、神が介入したのかもしれない。そうでなければ、大陸全体に張られた結界の中にウルピノンが入れた説明がつかない」


「とにかく、我が主が天空城に行かなければならないのですね」


 マーロウの黄金の瞳が警戒で光っている。

 口を開きかけたボリスの手を、エヴァリードがそっと取った。やわらかい、すべすべとした肌の感触が、優しくつつみこむ。

 今までにない強い意志を感じさせる言葉が、エヴァリードの心から届いた。


(わかりました、まいります。もともと、地上には、私が父の目から逃れて生きながらえることの叶う場所など、ありません。いずれにせよ、天空の大地に身を置かせていただくほかないのですから)


「神が君に望んでいることがなんなのか、オムネルトンも断言はしていない。それでも戻ってくれるのか」


 ボリスがのぞきこんだ彼女の両眼には、確信が満ちていた。


(もし、私の持つ何かが、この状況を打破できるとしたなら、それは、目覚めよと歌うこと。

 あなたも、陛下も、そう考えておいでなのでしょう)


 ボリスは即答を避けた。本当なら、彼女には救いを求めたくはない。今以上の重責を負わせたくはないのだ。もしも、彼女にも女性たちを目覚めさせられなかったとしたら……。

 しかし、成功すれば、彼女が国内に住まうことを国民の全員に認めてもらえるだろう。そういう打算めいた考えは、彼の好むものではない。それでも、それを完全に追い払うことはできなかった。


 できれば、彼はエヴァリードを妃にすることを国全体から祝福してほしかった。そのためになることであれば、どんなことでも歓迎するほど。


 春の女神がエルダ姫を連れ戻せと託宣したのだから、それに従えば、間違いなく女性たちは目を覚ます。ならば、神託に伏するべきである。それは残された国民の総意だ。しかし……。


「……君にとって、これが、どんな意味をもつのかが、僕には楽観できない。もちろん、君は僕が護る。戻ることに同意してくれるのなら、それを理解していてほしい」


 エヴァリードの聡明な瞳が、ボリスを見上げている。


(恐れておいでなのですね、女神の真意を)


 ボリスは唇を噛んだ。

 異常事態を前にした父、イワン王の反応は、理解しがたいものだった。彼はリジアのもとから届けられた蒼い花弁を見るなり、顔色を変えた。そして、供を禁じ、城の外に何時間も出て戻らなかった。ようやく戻ってきたときには、心痛に顔を歪めていた。しかし、それでも彼は落ちついていた。うろたえることはなく、何の不安もないようだった。


 ──このようなことが起こったのには、必ず理由がある。


 花弁が薔薇のものであると告げると、父は、頷いた。


「そうだろうと思っていた。ボリス、これは神託だ。オムネルトンが示した光も、眠りについている民の言葉も、エルダ姫の帰還を求めているのだ」


「では、父上」


 イワン王は額にしわを寄せたまま、頷いた。


「ボリス。姫を捜しだし、いま一度、この国に戻ってくるようにと伝えるのだ。姫は必ず承知してくださるだろう。一刻も早く無事にお連れしなさい」


 そうして、彼は旅立った。


 エルダを見つけるには、オムネルトンが光で示した先に飛べばよい。それに、行き先の見当はついている。無統制地帯か、原始の大陸である。

 ところが、なかなか彼女の船は見えなかった。


 次第に強まっていく焦燥と恐怖に我をなくしかけた数時間を思い出し、ボリスは身震いした。


 エルダの名を叫んで頭を抱えたとき、女神の庇護が現れなければ、どうなっていたことか、わからない。

 蒼い薔薇の花びら。

 どこからか、その花びらが風に吹かれてきて、彼の目の前を流れていった。ひらひらと舞う、その花びらの向かう先に、ただ飛んだ。そして、エルダの歌が聴こえたのだ。


(ボリスさま?)


 沈黙の長さに不安が高まったらしいエヴァリードが、手を彼の頬にあてた。


「大丈夫だ」


 微笑んで、細い身体を強く抱きしめる。


「たとえ神にだって、指一本、触れさせない」

 金色の髪に顔を埋めると、そこからは、甘く清楚な薔薇の香りがした。

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