第18話 真の名

 エルダは少し、緊張した。ボリスを信じている。けれど、この方法はとても危険なのだ。いつでもエルダの父を呼び出してしまう恐れがある。彼の道を作ってしまうかもしれない。


 エルダはマントから顔を出し、深く、大きく息を吸った。


(ボリスさま。私がこの方法についてをお話しするあいだ、あなたも声をお出しにならないでくださいますか。決して、一声も)


「誓おう」


 返答には一片の迷いも疑いもなく、表情も声も、気高く、力強かった。その響きには、彼女を勇気づける力がある。

 エルダの肩を抱く彼の手に、励ますような力が加わった。


 彼女は小さく歌い、彼の声が、声帯を震わせずとも響くよう命じた。直接エルダの頭の中に届き、それを自分が感じとることができるように。


 そして、彼女は惧れを振り払った。


(ひとつめの条件は、あなたが私を愛してくださること)


(それなら、もう満たしている)


 ボリスはエルダの金髪に口づけし、彼女の心が微笑んで光を発するのを感じとった。


(それから?)


(私たちの愛が、呪いの力を上まわること)


 彼は誓いを守り、声を出さずに笑った。


(エルダ。君が今まで、その条件を話してくれなかったなんて。こんなに簡単な方法も、そうはない)


 その表情は自信にあふれている。しかし、難題は、まだ語られていなかった。


(ボリスさま。条件は、あと一つ、あるのです)


(聞かせてくれ)


 彼女は小さく震えた。

 船は雲の下に入った。陽射しがさえぎられ、エルダの顔に影がさす。彼女の手が冷たく、かたくなった。

 ボリスの胸に、不意に小さな不安が芽吹いた。


(エルダ?)


 彼女は、恐怖をこらえて顔を上げる。

 潤んだ瞳に嵐が吹き荒れている。

 思わず彼は、彼女の顔をひきよせ、やわらかな唇に口づけした。

 沈黙から痛みが消えるまで、それほど時間はかからなかった。


 ボリスの手に触れられていると、彼女は心が安らぐ。懼れや苦痛は消え去り、安堵する。罪深い存在である自分自身を許せる。そして、静かな興奮がやってくる。


 あたたかな腕の中で、エルダは勇気を見つけた。


 雲が途切れ、明るい光が二人を照らす。


(ボリスさま)


 その声は、ボリスの胸の中に響いた。


(あなたに、私の本当の名をお教えします)


(本当の……名……?)


 小さな雲の群れが、頭上をいくつも飛んでいく。


(あなたは、心でだけ、私を呼んでください。決して、私の本当の名は、声にお出しにならないで。そのお声で私をお呼びになるときは、これまでのように、エルダとお呼びください。もし、声に出して真の名で私を呼べば、血の絆、命名の絆が父を私のもとに運ぶでしょう。そうなれば、父は私に新しい魔法をつかいます)


 彼女の瞳には、深刻な怯えがあった。


(新しい魔法? どういうものだ)


 その震えに、ボリスは目をそらせない。

(私を意のままにするものです。意思を眠らせ、従順に、ただ命じられたままに歌うよう)


 ボリスの心が凍りつく。


(その魔法は、私が城を出奔する前から練り上げられていたもの。すでに完成しているはずです)


 彼は、心に浮かんだ感情に戸惑った。それは暗く、深く、心の視界を狭めさせるもの。しかし、彼のなかには、生来の光輝がある。その光は彼の体の外までも照らす。


 彼女はボリスの目を見上げ、心の中で封印していた自らの名を告げようとした。しかし、胸の中がざわつき、それに堪えるだけで精一杯になった。胸を押さえ、恐怖に耐える。その恐れには、具体的な根拠などない。ただ、今にも父王が現れそうな気がした。

 耳元で空気をきる風の音が、父の声のように聞こえる。


 ──呼べ、叫べ。おまえの真の名を。


 彼女の顔から生気が消える。

 ボリスは、心の中で、何度も彼女に呼びかけたが、彼女は両手で顔を覆ってしまった。

 金髪がこまかく揺れ、ボリスは彼女を抱きすくめる。けれども、このときは彼女の恐怖が勝った。


 ──おまえの真の名である、


「エルダ」

 どれほど心で呼んでも、恐怖の発作から目覚めない彼女に、ついにボリスは口を開いた。誓いを破るのではと躊躇ったが、彼女が限定した〝呪いを解く方法〟は既に語られている。

 彼女はようやく顔を上げ、ボリスを見上げた。その瞳には、非難するような光はない。


 彼の両眼にある言葉を読み取ろうと、目を凝らす。


 ──君がどれほど恐れているのかを理解したよ。だから、君の真の名は、決して誰にも聞かせない。僕の心の中でだけ、君を呼ぼう。君だけに呼びかけるなら、天空人であっても、僕の心の声を聞きとることは出来ない。だから、安心して、僕を信じろ。


 すると、彼女は両目を閉じ、深い息を吸った。それから目を開け、まっすぐにボリスを見た。


(ごめんなさい。あなたを信じていないわけではないのです……ただ……恐ろしくて)


 ボリスは彼女の頬を撫でた。血の気のない、死人のような顔だ。

 彼女は悲しげなためいきをつく。


(歌の魔法がきれてしまいました)


 そう告げて、もう一度、ボリスの心を直接ききとるための旋律を歌った。歌声は、まだ震えている。


(君が、命と引き換えにしてでも倒そうとした存在だ。恐れるのも無理はない)


 彼女は震えながらも、『宝殿指環』から『声読みの本』を取り出した。

 開いたページに指をすべらせ、ボリスに向けた。


(私の真の名は──)



 ──── † † † ────



 王子が城を出てから、既に三日。

 城下町では、彼が戻ってくるのを、誰もが待ち望んでいた。

 彼が、エルダを連れて帰ってくるのを。

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