「イエス・オア・農」

「私達、普通の女の子に戻りたい」といってアイドルを引退したのはキャンディーズだけれど、「私、普通の女の子になりたい」といって男を引退したのがうちの姉である。


今ではもうすっかり普通の女の子。

ブランドもので全身を着飾り、口が悪く、プライドが高く、食の好みが激しく、我が儘で、自分のタイミングでしか動かないが、まあ、少しだけ優しい、普通の女の子。

それは普通なのか、そもそも普通ってなんだ、という出口のない議論は横に置いといて。


国の調査だと、人口の7%くらいはなんらかの性的マイノリティなんだと。だから普段は気がつかなかったり黙っていたりしているだけで、周りには結構多くいる。

もしかしたら、いや、もしかしなくて、知り合いのうち一人か二人かはそうなってしまうような確率だよな。

姉曰く、同性愛者であるかどうかは一目見れば大体分かる、という。

ゲイかレズか性同一性障害かの見分けというよりも、身体的な区分で同性が好きかどうか、という判断ね。

高校時代の同級生でも、あ、あの子もしかしたら、という同級生がいて、数年後の兄の姿をみてカミングアウトしてきたのだという。その子は性同一性障害ではなく、同性愛者だったらしいけれど。


そう言う話をすると、

「ねえねえ、じゃあテレビで見ても誰がそういう感じか分かるの?!」

とすぐ聞くような、デリカシーのない、いっちょかみの、いちびった人間が存在する。


何を隠そう、この僕だ。


僕はそういうのを見分けられるような特技はない。

これまで読んでくれた方なら分かるだろうが、兄が女装して帰ってくるまで性同一性障害だと気がつかなかったほどの男だ。

鈍感さでは世界トップクラスにないるかもしれない。

まあこれには言い訳が必要なんだけれども、えてしてそういう人たちは、こと家族に対して隠そうとするらしい。

だから僕が気がつかなくても当然である。


ただし、奥さんが髪を切っても気がつかないのは、僕の怠慢である。

それを解消するために、僕はすばらしい対処法を考えた。

同じ美容室に、一緒にいくようにしたのだ。

これで奥さんがいつ髪を切ったのかわかるし、どれくらい切ったかもわかる。


また脱線。


家族に対してカミングアウトをしない、もしくは出来ないのにはもちろん理由がある。受け入れてもらえなかったらどうしよう、というのが一番の理由である。

じゃあ他になんかいいだせない理由がるのか、というと、結構色々あるらしい。

某テレビ会社が取ったアンケートだと、身近な友人にカミングアウトできても、家族に対してカミングアウトできない人が多いとあった。

これは性同一性障害よりも、同性愛者の方がカミングアウトしにくいらしい。


それもそうか。男性が女の子に産まれたかった、というのと、男だけれど男が好き。

この2つは、結果として男が男を好きなんだから似たようなもんだろうと、LGBTに大して興味のない人間は思うだろうが、まだ前者の方がまだ理解してもらいやすいかもしれない。心が女の子だったんだな、と。じゃあ、しかたないな。と。

同性愛者になると、そもそも理解の範疇外になってしまうから、拒絶する傾向になる。


たとえばタトゥーやピアスを巡る議論もそうで、やっていない人からは奇異の目で見られてしまうけれど、本人はそれを別に異常だとは思っていない。

でもやってない人からすれば、理解できない異常な行動をとっている、すなわち馬鹿である。という判断をくだす。

やっている方もやっている方で、自分がよかれと思ってやっているから、別に理解されたいとも思っていない。

むしろ、理解できない人に大して、頭が固いだの、古いだのとこちらも相手を馬鹿にしている。


こうなると文化の違い世代によって受け入れられないだとかそういう方向に話が進んでいってしまうのだけれど、日本人はえてして見慣れないもの、聞き慣れないものを拒絶する傾向が強いようにおもう。

多分、もとが島国だから外部との交流が少なかったというのもあるんだろう。

というよりも、この話をしだすと農耕民族と狩猟民族の違いにまで言及しなければならなくなる。


日本人はもともと農耕民族で、和や慣習を大事にしておかなければ生活を維持できなかった。

気まぐれで種を食い散らかしたりしたら収穫できないし、皆が並んで田植えをしているのにひとりだけ焚火をしながら踊っていたりしたらつまはじきにあう。

たとえそれが稲の成長を祈る踊りだったとしても、その理由を説明しても田植えをしていた人たちには納得していただけないだろう。

「今は、祈りの時期やない。な、雨が降らんかったら、みんなでそれやるんや。今みんなは何しとる。おどっととらんと、苗、植えとるやろ。おまんもはよう、苗、植えろ」

と村長から叱られる。

周囲との調和こそが美徳であり、すばらしいとされる生き方なのだ。

だからこそ、村社会といわれる制度的なものが形成される。

家族という概念よりも、村を大切にする。だからこそ夜ばいや祭りでの乱交も慣習化され、産まれた子供は地域で育てる、という流れになる。

そんななかで、今まで我慢して黙っていた同性愛者が、

「俺、男が好きだ!」

と、いったところで、

「おまん、何ゆうとる。はよ子供つくって、苗、植えろ」

となる。

「都じゃあ男色が流行っとるんや!武将の武田信玄かて、織田信長かて、男色家やんけ!俺、だまっとったけど、昔から男が好きなんや!」

といくらわめいたところで、そんなこと村長には関係ないのだ。

村長は、村の繁栄を考えなければならない。

だからこそ、和や慣習を大切にするのだ。

それはそれで、認めなければならない考え方でもある。

「わしも腰いたいけど、苗、植えとる。おまんもアホな事いわんと、苗、はよ植えろ。子供つくって、苗、植えさせろ」

である。


これではカミングアウトできないはずだ。


逆に先ほど農民2人の話題に登った武将や、狩猟民族は、力の強さこそが全てである。だからこそ、男であれ女であれ、気に入った人間には猛アタックしても差し支えないのだ。


こんな書き方したら、誤解しか産まれない。

でも、もういい。


どれだけ考えても、軋轢や誤解を生まずにカミングアウトできる方法なんて、思い浮かばないのだから。


関係改善に本当に効果があるのは劇薬指定の薬のみである。


この薬は薬局では扱いはないし、病院にいっても処方されない。

インターネットで探してみたりもしたけれど、一向に見つかる気配もない。

けれどももしこの薬を手に入れる事が出きたなら、解決できるまでは時間の問題だ。


これは僕が一時期通っていた病院から無断で拝借したカルテに書かれていた言葉なのだけれど、ネットに載せてしまった事が医療関係者にばれるとまずいので、見た人は速やかに忘れるように。


「Time cures all things」


僕の記憶が正しければ、日本では「日にち薬」といったような名称だったと思うが、

いかんせん簡単には手に入らない。見つけられた人は、とても幸せ者だ。

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