帰還、厳しき地へ(二)
神殿に仕える者たちは、恐慌した雪獅子の咆哮に身を震わせた。事態を察した侍女たちが駆けつけ、藤世は寝室に運ばれた。
――声が、出た。
薬師たる二映が、昏倒した藤世を診ている。
四詩はそれを呆然と見つめながら、自分がなしたことに驚いていた。
それは獣の声だったが、長く出なかった声が、自分の喉を震わせたのだ。
「――四詩さま」
二映が、四詩を呼ぶ。
「四詩さま!」
四詩は老巫祝を見た。そうだ、このごろ二映は自分に敬称を付ける。
「お気をたしかに。命に別状はありません。高い熱が出ておりますが、ゆっくり養生すれば治ります。藤世殿はちかごろご無理をなさっていた」
――無理を。
四詩は、気づいていたことを改めて明示され、胸がつぶれるようなここちがした。
叡雨君が送った黒絹の布を白くしようと、藤世は寝食を忘れて奔走していた。
四詩のためだ。四詩が、もういちどことばを発せるようになるため。
夢のなかでは、暖かい島の浜辺で朗らかに笑っていた少女。滑らかな頬、花のような匂い。
この厳しい地で、彼女は肌をぼろぼろにして、顔をしかめて悩んでいた。
「……ああ、四詩よ」
老人は敬称を捨てて四詩の足許に歩み寄った。
「泣くな、そなたのせいではない」
雪獅子の身になっても、涙は出るのだと、他人事のように思いながら、四詩はうつむいた。ぽとぽとと、絨毯に涙のしみができる。
そばにいて、一緒に暮らすだけでは、彼女を幸せにできない。
世界を雪嵐から解き放っても、四詩は、自分のいちばんたいせつなひとを、苦しませている。
なんのための、だれのための雪獅子か。
そう思うと、四詩の涙は止まらなかった。
藤世はそれから数日、床に就いたままだった。まつりごとの場で明らかに上の空なので、四詩は巫祝たちの集まる広間を追い出されて、藤世の寝台のそばに座っていた。よく眠っている藤世の寝息を聞いていると、侍女が四詩を小声で呼んだ。
「……一矢さまがお呼びです」
巫祝たちのなかに戻ると、一矢が、さりさりと音を立てて持っていた包みをひらいた。見たこともない繊維の包み布だ。……いや。いちど夢で見たことがある。しろたえの島の、芭蕉布――……
なかから現れたのは、生成りの色の麻布だった。
「しろたえの島の、矢車という者から届いた文です。……藤世殿宛ではなく、四詩さまに宛てているそうです」
木の軸に巻かれた布は、せんだっての華麗な型染の長衣と同じ人間が染めたとは思えないほど、地味な色味だった。
ある予感に、四詩は全身の被毛を逆立てた。
――悪い知らせだ。
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