第四話 黒き芽生え

 その日、ガイスは身を切る寒さに耐え切れず、朝方に目を覚ました。

 今朝は吹きつける風が特に強く、それが大いに体感温度を引き下げている。

 まるで冬のような寒さだった。それも頭から冷水を浴びせられ、そのまま外に放り出されたかあとのような。

 手足の感覚は麻痺し、指一本うまく動かせない。身体に着込んだ防寒具も意味をなさず、その荒い目地を通して冷気が突き抜けてくる。

 これでは寝ていろという方が無理だった。

 さすがに今日ばかりは、それがどんなみすぼらしいものであれ、家屋の壁というものが心から羨ましい。せめて焼け残った家でもあればそれを拝借するのだが、あいにくこのルザルにはそれがない。嫌でももうしばらくはこうした環境に耐えざるを得ないだろう。

 とはいえ、ただ風に吹かれるまま地面に寝ているだけの生活もそろそろ限界だった。

 氷のように冷えた大地は身体から体温を奪い、その寝心地ときたらひどいものだ。

 季節は短い夏の終わりを告げ、早くも本格的な冬の到来を告げている。灰色の世界にさしたる変化は見られなかったが、この寒さだけは何よりも雄弁に季節の移ろいを物語っていた。

「……冬も近いか。さらに厳しくなるな」

 ガイスは自らに同情するようにそう言葉を漏らしていた。

 これからの季節は今にも増して、過酷な旅路となる。それこそ毎日が冬の登山だ。灰色から白に世界の色が移り変わり、やがて世界は一面の銀世界へ染められる。

 今日はその冬至とも言うべき、境日なのかもしれない。この夜の冷気は、今までの寒風を春風と思わせるほどに芯まで身体を凍てつかせた。

 今にして思えば、クレイゾールと出会った頃は、ちょうどギルディアの短い夏とされる季節だった。その期間だけは吹き付ける風の冷たさもいくらかは鈍る。だからこそ脆弱なクレイゾールも、ああして死の淵をさ迷いながらもこの世界に留まる事が出来たのだろう。

 しかし──それが冬ともなると、話は別だ。

 もしクレイゾールと出会ったのが数ヶ月あとの事だったら、まずその命を救えはしなかった。救う間もなくクレイゾールは、凍土と化した大地の上で息絶えていたはずだ。

 だけれども、いくらか回復したとはいえ、果たしてクレイゾールの体力でこの先の冬を越えられるかどうか、ガイスにはまだ分からなかった。過酷な荒野の旅に加え、さらに冬の寒さが加わるのだ。楽観視は出来ない。

 そしてそれはこの同様の話だろう。

「……呆れるばかりだ。見殺しにするどころか、手当てまで」

 その日、ガイスに拾われた旅の少年は二人に増えていた。

 自分でも正気の沙汰とは思えぬほど、甘さというものを痛感している。

 何故それを見捨ててはこなかったのか。いや何故、それを見捨ててはこられなかったのか。

 これまで何人もの子供を見殺しにしてきたように、今回に限って何故それが出来なかったのか。

 余計な面倒が、また一つ増えてしまった。

 あれからガイスは何の収穫もないまま、死にかけの少年という厄介事だけを抱えてクレイゾールと合流した。いまガイスの隣りには、火傷の少年が身を横たえて眠っている。後頭部の火傷に始まり、腕と足、背中から腰にかけてを包帯で何重にも巻かれたその少年は、今ここに。

 ──思い返せば、あの場所で足を止めてしまったのが悪かった。

 あの時、あの場所で、彼を振り返りさえしなければ、こんな事にはならなかった。

 ましてそれを保護する事も、介抱してやる事もなく、今日という一日は何事もなく終わったはずだ。欠伸の一つさえ伴って。

 ガイスは己の迂闊さと拭い去れぬ甘さに、顔をしかめずにはいられなかった。そして何度も、もう一度捨ててこようか、あるいは一思いに息の根を止めてやろうかと、まじまじとした思案を巡らせる。

 しかし火傷の傷が痛むのか、時折うわ言にも似た呻きを漏らし続けるバーンを見ると、不思議とそれが出来なかった。

 いまもバーンは火傷からくる発熱に、この寒さの中にも汗を滲ませ、終わりのない苦しみの最中にいる。

 苦しむという事は、生きようとする意志の表れだ。

 この爛れた少年は業火の記憶に悶えながらも、迫り来る死の境界と戦っている。

 全身を汗に濡らし、それでいて耐え難き冷気を全身に浴びながら、その白い歯を絶えずガチガチと打ち鳴らして。

(忌々しい。こんな面倒ばかりが増えて──!)

 ガイスは一張羅の外套を脱ぎ捨てると、それを乱暴にバーンへ巻き付けた。

 途端、あの外套一枚でこんなにも違うのかという冷気がガイスの身体に吹きつけてくる。その身を切る寒さは、痛みを伴う、まるで刺すような感覚へと変わった。予想以上の寒さに頬を引きつらせるガイスだが、唇を噛み、必死にその寒さを堪える。

 無論ガイスとてこの寒さの中、好きで頼みの外套を脱いだわけではない。

 しかし旅には二人分の身支度しかなく、このバーンとかいう少年が転がり込んできても、当たり前だが夜を越すための毛布もない。だからバーンには、ガイスの毛布をくれてやった。

 おかげでガイスは昨日から、ろくに眠れたという記憶がない。それどころかガイスはいま、頼みの外套さえ奪われてしまった始末だ。情けなさに言葉もない。

 これが災難でなくて何だというのだろう。それを拾えばこうなる事は分かりきっていたはずなのに、何故自分はこんな面倒を抱え込んだ――?

 ガイスは己の不甲斐なさを呪い、ただただ肩を震わせ、悶々と気持ちの整理が出来ずにいた。

 けれど、その答えならすでに知れている。

 きっとこの少年にも、自分は惹かれたのだ。

 クレイゾールの時ほど強烈なものではなかったが、死なせたくはない、とは思えた。不覚にも、思えてしまった。

 焼け焦げた母親の前で、それを救ってくれと懇願する瀕死の少年。その救い難い光景に、心動かされるものを感じていた。

 それに、こうも考えられる。

 クレイゾールを拾ってからと。

 クレイゾールを拾う前であれば、その光景に対しての興味も、ましてやあの時、そこで足を止める事もなかったろう。三ヶ月前に出会ったクレイゾールの圧倒的過ぎる負の魅了が、確実にガイスの中の何かを変えたのだ。

 事実、たった三ヶ月の間で、連れの旅人が二人も増えた。これはまさに異常事態だと言っていい。もう何年も一人旅を続けているのに、だ。

 いや――それとも変わったのはこの環境のせいだろうか?

 この三ヶ月間、それはガイスがこれまで経験した事もないような、強い充実感に充ち満ちた日々の移ろいだった。瞬く間に体調の悪化するクレイゾールを介護する事だけに必死であって、それだけが毎日のすべてだった。目の前で巻き起こる小さな命の闘争に、自分は息を呑み、毎日が驚くほどの早さで過ぎていった。

 自分でも驚くが、この三ヶ月間の記憶を、ガイスはほとんど覚えている。

 それを忘れないという事は、それが充実していたという証なのだろう。

 その時のクレイゾールがどうで、自分はどうしたのか。それがどれほど些細な出来事でも、ガイスは苦労なく思い出せる。そしてそこには苛立ちだけではない、別の感情があった。一人旅では決して味わえなかった何かを、ガイスは知ってしまった。

 それはつまり、という事だろうか?

 強くなったとは言えまい。今では情に流されて、こんな死に損ないの子供まで抱え込んでいるのだから。

 この土地で放浪の旅を続けるガイスにとって、情などは、いかほどの価値にも値しないものだった。むしろ迷惑とさえ言い切れる。そのために自分は眠れなかったし、こうして今も、自分はさらなる寒さに打ち震えている。

 しかし情は、確かな喜びも与えてくれる。

 荒み切った心に、忘れかけていた喜びという感情を。

 クレイゾールが自分の名前を呼んだ時、身体は衝撃に震え、クレイゾールを殴った時、その命の躍動を感じ、クレイゾールの手を握った時、人間の温もりというものを実感し、クレイゾールから「ありがとう」と言われた時には――そう、どう形容していいのかさえも分からないほどの、複雑な胸の葛藤を感じた。

 それは極めて邪魔なものであったが、同時に、それを忘れたくはないという自分もいた。

 自分でも分かっている。

 それは矛盾にだらけの、極めて個人的な情動だ。

 だがそれでこそ自分もまた人なのだと──そうも、実感している。

「……お前の歩む道は、クレイゾール以上に険しいものになるのかも知れん」

 ガイスは傍らで眠るバーンの額に軽く手を置き、熱の具合を確かめると、おもむろに声をかけた。

 バーンの熱は依然として高い。何日もあの火傷のままで放置されていたのだから当然だ。彼の体格はクレイゾールよりもかなり恵まれている方だと見えるが、それも今ではひどく衰弱し、同じように痩せ細っている。

 ――助かるか、助からないか。

 その可能性は良くて五分、悪ければどこまでも比率を下げていこう。ガイスもここまで酷い火傷の手当てなどはした事がなく、それは一種の賭けにも等しかった。

「お前を引き取った責任だ。こちらも最低限の面倒は見るが、優しくはないぞ」

 火傷で爛れたバーンの患部は、言うまでもなく酷いものだった。

 出血と水脹れで、何か粘性のある黄色い液体に濡れたそれは、時と共に紫色へと変色していて、腕は芋虫のようにぱんぱんに膨らんでいた。内出血のせいだろう。肉の膨張で腕の感覚さえ失われつつあり、腐った血を抜くまでは、バーンはそれを動かす事さえ困難な様子だった。

 とにかく化膿止めとされる野草を傷口に擦り込み、なるべく清潔な布を巻き、あとは頻繁にそれを繰り返すしかない。その部位さえ腐らせなければ、完全な皮膚こそは望めぬものの、傷口は塞がるだろう。

 しかしその当事者たるバーンにとって、それが一体どれほど過酷な作業かは言うまでもない。

 毎日毎日、肉へと直に張り付いた布を引き剥がされ、てらてらとした傷口へ野草を擦り込まれるのだ。

 事実、その手当てを施した昨日も、バーンは激痛に耐え兼ねて最後は失神するように気を失った。動かせる感覚はなくとも、痛覚だけはしっかり残されているとは甚だ迷惑な話だ。苦痛に顔を歪めるバーンの絶叫は断末魔のようで、それは今でもガイスの耳に恨みがましく残っている。

 だがバーンが生きようとするならば、それを乗り越えるほか道はないのだ。

 でなければ、生きながらにして身は腐り落ちてゆく。そうなってからでは遅い。

 もちろん、それはバーンにとって始まりの試練でしかない。生きるか死ぬかの分水嶺は、その後の話だ。

 苦痛の果てに死んでしまう可能性もあるだろう。すべての苦痛が無駄となる事も。

 だが生き残れる可能性も、少ないがまだある。

(無論……生きた先で自らの死を願う可能性も、否定はせんが)

 青白いその寝顔に視線を落としながら、ガイスはふとそんな事を考えていた。

 バーンを待ち受ける運命は過酷だ。この熾烈な峠を乗り切った先にある光景を、彼はどんな気持ちで受け止めるのだろう。

 認めるか、あるいは拒絶するか――その後の試練は、バーンが生きてゆく限り、そして死ぬ瞬間まで、その行動に少なくない制約として付き纏う。

 バーンには、がなかった。

 その右と左、計十本ある指がすべて失われていた。

 いや正確にはあったのだが、もはや使い物にはならなくなっていた。

 火の当たる後ろ手で拘束されていたせいもあるだろう。母親と共に燃やされた時、苦しみに身悶えるあまり、固く拳を握り締めていたバーンの指は、溶けた蝋のように肉と結合して開かなくなっていた。

 ガイスは当初、その肉を強引にでも抉り出し、何とか指を掻き出そうと考えたが、しかしバーンは気の触れたような悲鳴を上げてそれを拒んだ。彼の腕の先についた肉の塊から最初の一本を穿り出した時、バーンは命乞いをするように、何度もガイスへ許しを乞うた。もうやめてくれと赤い瞳で必死に訴えながら、白目を剥いて気絶した。

 火傷でぐずぐずになった肉を掘り返される痛みがどれほどのものか、ガイスには察するべくもない。それは生きたまま焼かれるよりも、より現実的で生々しく、殺される痛みすら超越した、だ。

 ガイスは血塗れの拳へ彼の指を戻すと、そのまま野草を擦り込み、再び包帯でそれを巻いた。

 彼はすべての指を失う事を、耐え難い痛みと引き換えに受け入れたのだ。

 ガイスもまた──それならばと納得した。

 バーンにはこの先、幾度となく、彼を深く落胆させる現実が待っているだろう。いかにクレイゾールが華奢な身体で剣を振るえずとも、持つ事は出来る。訓練さえすれば、弓を射る事も出来るだろう。何がしかの荷物を運ぶ事も。

 だがバーンは、体躯こそ恵まれているが、指がない。

 剣を持つどころか弓も、荷運びも、彼はいかなる道具さえ扱えなくなる。それどころか日々の食事さえ、バーンには困難が伴うのだ。泉の水を飲みたければ、彼は獣のようにそれを啜るしかない。

 いまや彼に手と呼べるだけの組織はなく、残されたものは、肩からぶら下がる二本の腕だけだ。

 この土地で、不具者となった人間が生きていく事──その過酷さを察するに、ある意味でバーンにはクレイゾール以上に過酷な運命が待っていると言っても決して過言ではなかった。

 ガイスは少しだけ、この赤い瞳の少年に同情した。

「……また、一日が始まるか。こんな悲劇ばかりを生み出して」

 いつしか周囲は、薄ぼんやりとした明るさに包まれようとしていた。

 朝の訪れか、それとも寒さに凍えてか、馬がぶるるっと一度鳴く。

 今日も一日が始まる。灰色の世界が目覚める。

(――クレイゾール?)

 しかしガイスふと、そこにもう一人の連れの存在がない事に気がついた。

 彼が寝ていたであろう形跡を示す毛布だけが、風に飛ばされぬよう、荷物を上に乗せられて、ばたばたと苦しそうにもがいている。

 何故だか、ガイスは感心した。

 ああして何を考えているのか分からないクレイゾールでも、その程度の頭は働いているらしい。そして意外な発見に苦笑しながらも、何はともあれ、その毛布を自らの下へと引き寄せ、急いで身体に巻きつける。

 この風で毛布を失くさなかったのは上出来だったが、せめて不要となった毛布なら自分にかけていってくれたなら感謝の一つも出来たのだが。

 あいにく、そこまではクレイゾールの気は回らなかったようだ。

 しかしこんな早朝からどこをうろついているのやら──この寒さでどこか用足しに出ていたとしても不思議はないが、いずれにせよ、すでにガイスの腹は決まっていた。あとでクレイゾールがのこのこ帰ってきたとしても、そう簡単にこの毛布は渡すまい。貴重な毛布を迂闊に手放すから、こういう事になるのだ──。

(その時、クレイゾールがどんな顔をするのか、楽しみだ)

 ガイスはほくそ笑みながら、毛布に包まって横になった。

 けれどそうした想像を巡らせて、自分があのクレイゾールに愛着を感じ始めている事にガイスは改めて驚かされた。その実感に戸惑った、と言うべきだろうか?

 こうしてクレイゾールの毛布を独占し、自分は何を期待しているのだろう。

 ましてそれを楽しみだと感じている自分がいる。

 不思議だった。

 いつから自分は、この旅にを――?

 だが襲い来る眠気に負け、それ以上は考えない事にした。

 何しろ昨日はほとんど眠っていないのだ。このひどい寒さでは熟睡も難しいが、このたまらない疲労感と一枚の毛布さえあれば何とかなるだろう。ふっと目を閉じるだけで、息つく間もなく意識が遠のいてゆく。

 ──クレイゾールは、笑うだろうか。

 ガイスは最後、そんな事を考えたような気がした。


 


 まだ夜が明け切らぬ朝の、ほの暗い闇に世界が眠っている。

 辺りには風の吹きすさぶ砂音だけが鳴り、世界は荒涼とした静けさに満ちていた。

 こうして朝が近づいてくると、魔物たちは巣穴に帰ってゆく。彼らのほとんどは夜行性で、基本的に昼の間は、いかにギルディアといえど魔物と鉢合わせる機会はあまりない。いや──そもそもが夜行性と呼ぶよりも、魔物たちはと言った方が、表現としては正しいだろうか?

 元来、魔族が夜行性という理由もないのだ。

 あるとすれば、魔物が行動する唯一の行動基準、つまりは本能だけである。

 遠い昔、魔族が土地を追われた頃に植えつけられた殺戮の記憶が、魔族から昼という時間を奪った。魔族たちは人が活動する日中を恐れ、太陽を恐れ、日の光さえも届かぬ暗がりに逃げ込むようになった。

 そして魔族は、夜の間しか出歩けなくなった。

 人目を忍び、忘れ難き恐怖の記憶を、ただその本能の片隅に留めながら──。

 そんな日の出間近の暗闇に、不意に何かが蠢く感覚を受けた。

 がさがさと砂を蹴り、体重の軽い何かが、軽快に夜を走り回っている。

 風に乗って聞こえてくる弾んだ呼吸はまだ若く、足音も小刻みで、時折聞こえてくるその声は子供特有の甲高さを残していた。魔物ではない。

 闇の中にさえ際立つ漆黒の髪と、闇の中でも虚ろに光る、青白い肌。

 一人床を抜け出したクレイゾールの姿だった。

「アッハ……アー」

 場違いにからりとした彼の声が、夜のヴェールに消えてゆく。

 よほど嬉しい事でもあったのか、普段の彼からは想像出来ぬほど声が弾んでいる。

 しかしそれは――純粋な子供の笑い声とはほど遠い声色だった。

 どこかで何かが、決定的に違う。決して子供の笑う様子ではない。

 まるで心を失くした道化師のような、作られたような笑い声。壊れた声帯から漏れ出る、ただの音。

 その笑いには、心という大切な部品がぽっかりと抜け落ちていた。

 声の大小もなく、一定の音程で、でたらめな発声だけが暗闇の中に響く。

 クレイゾールはただ笑うだけではなく、何かに夢中になっている様子だった。

 吐息の狭間で微かに聞こえる、何かが風を切る、ヒュッとした音。そして力の込められた動作に伴われる、短い鼻息。クレイゾールは懸命に何かを振り回して、身を弾ませている。

 すると暗がりの中にも、その煌びやかな何かが一瞬の輝きを瞬かせ、闇に光った。

 それは黄金色の装飾といくつかの宝石に彩られた、小さな刀身の短剣だった。

 短剣を振るうたびに閃く、眩暈にも似た刹那の輝き。クレイゾールはその輝きを目にするほどに魅了され、ますますその行為に夢中になった。壊れた笑い声が熱を帯び、どんどんと大きく膨らんでゆく。

「アッハアー!」

 クレイゾールは、不思議と闇というものが嫌いではなかった。

 常人であれば大の大人ですら気味悪がる暗がりの中で、夢中になって剣を振り回している。たとえ自分の手の輪郭さえ判別出来ない闇の中にあっても、クレイゾールはそれを気にも留めないだろう。奇怪な声を上げながら光なき世界を駆けてゆく。

 しかしそれはただ怖くないというだけであり、けして目が見えているというわけではない。そのためクレイゾールは何度も地面の突起に足を取られて派手に転び、その都度、彼の笑い声は唐突に中断された。

 だが、それだけの事だ。

 乾いた笑いは終わらない。突然、弾けたように始まりを告げる。

 何事もなかったかのように。何の脈絡もなく。

 不気味な光景だった。

 そこに温かさはなく、闇の誘いとも言うべき不吉めいた予兆だけが広がっている。

 すると不意に周囲が明るくなった。

 聳え立つ山々の合間に、うっすらとした光が射す。

 それは初め、ひどく弱々しい光だったが、それでもこの完全な暗闇に挿し込む一筋の光明には違いなかった。クレイゾールも一時手を休め、腕を目の位置でかざして眩しそうにその光を受け止めている。

 ギルディアの朝陽だった。

 世界から闇が引き、灰色の息吹が吹き込まれてゆく。

 それは瞬く間に周囲の様相を塗り替えた。

「…………」

 どこか名残惜しそうに、それを見つめるクレイゾール。

 彼を包む闇の抱擁は完全に取り払われ、荒野にたたずむ孤独感だけが彼の周囲に広がってゆく。

 短剣を握り締めた右手をぶら下げるクレイゾールの表情に、すでに笑みらしきものはなかった。代わりに何の感情の起伏もない、ひどく無感動な仮面がそこにある。

 しかし胸には──確かな充足感が満ちていた。

 その剣を振り回している間は、驚くほどに気分が晴れた。

 自身を駆り立てる黒い圧迫から、その瞬間だけは解き放たれる事が出来た。そして同時にクレイゾールは、密かな自分への驚きを感じずにはいられなかった。

 いつから自分は、こうも何かをなったのか──。

 それはまるで長い間──ひどく実感のない夢の中を、ふらふらとさ迷い歩いていたような感覚だった。

 二度と覚める事のない長い夢の中を、白く濃密な霧の中を、手探りのまま歩き続けていた。何も感じず、何も聞こえずに、それでもただ強く何かを求め、自分はずっと歩いていた。

 なのにどれほど足を踏み出せど、そこに足を踏み出したという実感はなかった。

 それどころか思考は停止したままで、そこでは忘却こそが世界を支配する万能の理だった。

 生きるという本能にだけ身を任せ、生温い忘却の海に身を浸す。

 そこに自分の意識など必要なかった。自分の奥底より這い出ようとする、何か得体の知れない衝動に身を焼かれながら、あの霧の中──死んでいるのかも生きているのかも実感できないひどく淀んだ流れの中に、ただ痩せこけたその身を委ねていた。それは永劫とも思える、虚無と無限の世界だった。

 しかしある時から、自分の意識がにわかに浮かび上がった。

 あの時、あの瞬間を境に、ようやく自分は、この夢を抜け出せるのだと知った。

 そして焼けるように熱い、鮮烈なまでの痛み──。

 その痛みこそが、新たな世界の到来を告げていた。

「────ッ」

 不意にクレイゾールの右手が弾けたように反応した。

 固く握り締められた指の間から、一筋の血が流れる。柄を握り締めていたはずが、いつの間にか刃部を弄んでいたらしい。無意識に刃の上を指の腹がなぞったのか、ぴりりとした痛みとともに指先が裂けていた。手の平の方にも、いくつもの傷がついている。

 おもむろに短剣を持ち上げ、それを目の高さまで持ってくるクレイゾール。

 それは昨日ガイスからもらった、一振りの短剣だった。眺めているうちに、指の痛みが知らず遠のいてゆく。

 クレイゾールの手の中で輝く煌びやかな短剣は、目に痛いほどに美しく、危険な魅力を孕んでいた。まるで鏡のように研磨された刀身は、悠々と水を湛えた水面のように揺らめいていて、それを覗き込む二つの瞳を刃の中に映しこむ。

 朝の訪れとともに掻き消えたはずの闇の残滓が、硬質な輝きの中で自分を見つめていた。

 昨日今日と手分けして行った村の物色も、クレイゾールはろくな探索などしていなかった。何もしてはいない。ただ冷たい氷のような輝きに濡れるこの短剣を、焼け落ちた家屋の隅で一人眺めていた。

 いつまでも時間を忘れ――そう、それはまさにこの瞬間のように。

 不思議と飽きる事を知らない。心がそれを求めている。

 ふと自分の左手に目を移せば、そちらにも幾筋かの細い裂傷が刻まれていた。

 ガイスと離れたあの時に作った傷だろう。短剣を眺めながら、いつしか左手は肘まで血に塗れていた。

 けれど──からだった。

 その瞬間から、自分の中の何かがはっきりと目を覚ました。

 自分の存在を、初めて実感としてこの世界に認識出来た。

 目の前に立ち込めていた霧が晴れてゆき、ぼやけていた意識が鮮明になる。

 苦痛ではなかった。それは渇望した喜びだった。

 そして白き夢の終わりであり──黒き芽生えの始まりでもあった。

 クレイゾールは指を刃に押し当て、もう一度、それをぐっと横に滑らせてみた。

 途端、軽く指を這わせただけで皮膚は裂け、いとも簡単に刃が肉に到達した。鋭い痛みが背筋を貫き、強すぎた刺激にクレイゾールの表情が強張る。

 痛みの中に、何かが閃くようだった。

 とくとくと溢れる血が熱く指先を染め、頭の中の霧に一筋の風穴が開く。

 間違いない──自分はずっと、この痛みを待ち続けてきた。

 忘却に埋もれた自我を呼び覚ます、鋭利な痛み。乾いた心を血で潤し、あの霧を晴らす術がここにある。

 脳裏を包む深い霧の向こうで、ぞわりと何かが蠢くような感覚を覚えた。

 それは、黒い影のようなもの。

 獣のような息遣いのそれは、もやの向こうで、確かに少年を見つめている。

 まるで何かを待つように。ただその瞬間を待ちわびるように。

 ──そう。

 その黒い輪郭を目で追おうとした瞬間、はっとクレイゾールの意識が鮮明となった。頭の深いところに鈍痛を感じ、驚いたように顔を上げる。

 自分はいま、何をしていた──?

 よく分からなかった。直前の記憶がぽっかりと抜け落ちている。

 だが、特別珍しい事ではなかった。明滅する記憶はいつも途切れ途切れであって、意図的に何かを思い出す事がクレイゾールには出来ない。過ぎ去った記憶はばらばらに点在していて、過去に遡れば遡るほど、その散逸は激しくなる。記憶の関連も結びつかない。

 もちろん、ゆっくり時間をかけさえすれば、順序立てて考える事くらいは出来るだろう。しかし物事の記憶が定まらないだけに、自分が何をしたいのか、あるいは何をしていたのか、ふとした事で前後の繋がりが分からなくなる。

 その結果、口に出す前にクレイゾールの意識は霧散した。

 ゆえにそんなクレイゾールを、ガイスは時折訝しげな目で見る事があったが、それは少年も同様だった。

 自分はいつガイスと出会ったのか、何故旅をしているのか──それさえ判然としていないのだ。

 この思考が霧散した時のもやついた気持ちが、クレイゾールは嫌だと感じていた。

 大切なものがいつまでも見つからないような、漠然とした不快感──。

 そしてクレイゾールの意識は、はたりと停止した。

 いや、今度はを発見して、その結果、それまでの思考が停止した。

 いつからだろう。

 少年の興味を引くに十分な存在が、そこに佇んでいるのが見えた。

 灰色の世界、その大地のある一点へと、放散しがちな意識を向けるクレイゾール。黒曜石のような瞳をそちらに向け、じっとそれを凝視する。どうやら、あちら側もこちらを見つめているらしい。

 ――亡霊ゴーストだった。

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