第九話 舞い降りた天使

 無情の世界を覆う、ひび割れた大地。

 乾いた地平を風が撫ぜるたび、砂埃が煙のように舞い上がる。

 どこまでも続く灰色の荒野を少年は一人歩き続けていた。

 目的は一つ、グレイスと巡り合う事。だがそのための展望は見えず、グレイスの居場所も分からなければ、それ以前にここがどこなのかさえ少年にはもう分からなくなっていた。彼の決意とは裏腹に、状況は好転どころかますます悪化している。

 このまま歩いていて、グレイスと出会える期待など本当に持てるのだろうか。穴倉を出た少年が見つけたのは、得体の知れない肉塊が一つだ。この調子では先行きを案ずるなという方が無理だろう。

 見渡す限り、砂と石だけが広がる世界。

 まるで自分一人を残して世界が滅び去ってしまったかのような感覚に襲われて、その想像の現実味に少年は身震いした。グレイスと共にこの荒野を歩いていた時は心細さなどまるで感じていなかったのに、ひとたびそれが失われた途端、心が完全に萎縮してしまっている。グレイスの姿を思い描くたび、そしてその求めが強ければ強いほど、それがここにない喪失感が胸に押し寄せるのだ。

 父の面影は、少年の心をただ逸らせた。

「……さん?」

 するとそれまで深く沈んでいた少年の顔に、明らかな変化が見て取れた。その顔からは不安が消え去り、代わりに歓喜の情がみるみる溢れ出してくる。

 そう──見間違いではない。

 いま前方の岩陰に、確かに人影が見えた。それはまたさっと岩陰の向こうに隠れてしまったが、間違いなく人の動きだった。少年の胸が期待に膨らんでゆく。

 グレイスだろうか。いやこの瞬間、この場所にいる人間など、彼を置いてほかにはない。そんな確信に瞳を輝かせながら、少年は力いっぱいに駆け出していた。

 人影の見えた岩陰との距離が、ぐんぐん縮まってゆく。少年は背の丈の三倍はあろうかという岩の向こうへ回り込むと、少年は喜びの一声を張り上げた。

「父さん……ッ!」

 だがそこに待っていたのは、グレイスではなかった。それどころかその首元には、いつの間にかぴたりと剣が突き付けられ、瞬間、気が動転する。首筋に感じる冷たい刃の感触は、子供心にも身を凍り付かせるには十分な迫力があったろう。少年は驚きの声さえ出せぬまま、その指先に至るまで完全に動きを止め、半ば後ろ側へ仰け反るような恰好で硬直した。

「だ、誰だッ、貴様……?」

 少年へ剣を突きつける男は、低い声でただ一言、そう告げた。

 それは、これまで少年が見た事もないような種類の人間だった。

 歳の頃は二十も半ばだろうか。しかしまだ幼さの気が抜け切っていないような若さも残る男だ。薄暗いこの世界においてもなお輝かしいその金髪、くすみ一つない端正な顔立ち、深緑色の瞳。少年ですら、それがどこか自分とは違う世界の人間だという事にすぐ気が付いた。ギルディアでこんな人間には会った事がない。そして何より少年の瞳を奪ったのはその男の格好であった。

 線の細い身体を覆う、色鮮やかな白銀の甲冑。その縁取りには豪奢な金の意匠が施され、背を覆う真紅の外套にも金糸の刺繍がなされている。それはあまりに眼に眩しく、衝撃的であった。

 いま置かれている自分の状況とは裏腹に、かつてない興奮が少年の身を震わせる。その鼓動は否応なく乱され、この急激な気持ちの高ぶりを隠し切れない。ただただ少年は目を輝かせ、その光景に見入るほかなかった。

「……も、もう一度だけ言うぞ。貴様は何者だ」

 だが忘れていた首筋の冷たさが、少年の意識を再び現実に引き戻した。

 目の前の男は肩で息をしながら、敵意の眼差しで少年を睨んでいる。何を恐れているのか、その額には大粒の汗が浮かんでいた。

「あ、あの……その……ッ」

 鋭利な切っ先が、じりじりと少年の顎先に移動する。

 このまま黙っていたところで、目の前の男が気を許す事はないだろう。声を上擦らせながら弁解を試みる少年だが、しかし何から話してよいのか分からない。何者だ、と聞かれて何と答えればよいのだろう。

「僕は、僕は、その、名前は……」

「名前などはいい! 一体どこから、何のためにやって来たッ!」

 早口に言葉をまくし立てる男。先程から感じる焦りの感情は、さらに色濃く男の表情に影を落としている。おろおろと狼狽する少年はただその感情を助長するのみで、なかなか男の求める返答を返せない。

 男はさらに苛立ったようにもどかしく声を荒げた。

……と言ったな? 近くに父親がいるのか?」

「は、はい、ここには、父さんと僕しか……! で、でも朝起きたら、その父さんもいなくて……」

 父親の事を尋ねられ、ようやく少年の口から言葉が出てくるようになってきた。

 その後は堰を切ったように必死で状況を説明し、何とか男の理解を得ようとする。

「だから、父さんを探して、ここまで」

「父親を探しに来ただと……? こんな場所に、たった一人でか?」

 男は、いかにも訝しそうな表情だ。

 確かに、ここは子供が一人でうろつくような場所ではない。

 しかしそれはそれで事実なのだから、それはもうどうしようもない。少年は男に言われた通り、ありのままを告げるだけだ。

 少年は全身を舐めるようなその視線に身を硬くしながら、まるで蛇に睨まれた蛙のように、ごくりと唾を鳴らした。男は何か思考を巡らせているらしく、眉間にいくつもの皺を寄せたまま動こうとしない。

「……まあ、いい」

 けれども、これ以上は無駄と判断したのだろう。彼は諦めたように剣を降ろし、溜まった息を大きく吐き出した。少年の身体からも、ようやく身を縛る緊張の圧力が抜けてゆく。

 傷でも負っているのか、甲冑の男はしきりに左腕の辺りを気にしているようだった。どうやら彼の意識はすでにその腕へ移ったらしく、ひとまずの危機は去ったと見ていいだろう。

 けれどほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、依然として自分が置かれているこの状況が分からない。

 何故自分は剣を突きつけられたのか?

 何故この相手はこんな場所にいるのか?

 いやそれ以前に、この人間は一体誰なのだろうか?

 昨日の聖戦以降、少年に振りかかる謎はまるで後を絶たなかった。自分がどんな状況にあるのかの理解は置き去りなままで、少年はただ父の姿を探し、この荒野をさ迷い続けている。

 少年の心は、貪欲に真実を欲していた。

「あ、あの──」

 どこか聞き辛くもあったが、意識するよりも早く少年は口を開いていた。

 男の鋭い視線が再び少年へと向けられる。

 途端に少年の身は竦んだ。

「何だ」

「あ、貴方は?」

 男の目が驚きに見開かれた。

 まるでもの珍しい生物か何かを発見したかのように。

「……お前、本気でそれを言っているのか?」

 再び疑り深い眼差しを少年に向ける男。

 だが少年の問いが冗談でない事は、その瞳を見れば一目で分かる事だった。嘘という言葉さえ知らないような、一点の曇りもなく透んだ瞳。その黒い大きな瞳は、真っ直ぐに相手の瞳を見つめている。

 男は呆れたような表情を見せ、少年から目を離した。

「驚いたな。本当に何も知らないのか」

 そして目を閉じ、再び何か思考を巡らせる。

 ただそんな少年の姿がおかしかったのか、彼は少しだけ笑ったような気がした。

「自己紹介をしていなかったな。俺の名はジハド。神聖王国エクセリア騎士団〈聖〉の騎士だ」

 やれやれといった仕草で、それでいてどこか誇張気味に素性を明かすジハド。そして興味深げに、対する少年の様子を窺ってみせる。それはまさに彼が期待した通りの反応だった。

「騎士……様?」

 少年は初めて見る騎士に、目を丸くした。

 騎士。その言葉すら少年は、初めて聞いたものだった。だから当然、その騎士というものがどんな役職、務めを果たしているのかも分からない。

 だが甲冑を纏うその姿は、まるで伝説に語られる英雄のように眩しく、輝かしい。さながら天がこの地に遣わした救世主のように、彼の姿はあまりに神々しく少年の瞳に映った。

 子供にとって英雄は、いつの時代も憧れや尊敬の対象だ。

 瞬きする事すら忘れ、少年は目の前の騎士に夢中になった。

「この地には魔物討伐のためにやって来た。だが、あいにく奴等の襲撃に合い、隊の面子とはぐれてしまった」

 騎士は自らの事情を吐露し、少し肩をすくめて見せた。確かにその左腕の甲冑は、何か強烈な力で叩かれた風にひしゃげている。ちらちらと左腕を気にする彼の仕草を見る限り、恐らくは軽い打撲でも受けたのか、それとも単に神経質なだけなのか。ただいずれにせよ、彼の言う何らかの戦闘があったのは確かなようだった。

「魔物を……討伐?」

 少年が、にわかにその言葉に反応した。

「ああ。それで、もしやお前もと疑った。魔物が相手ともなれば──」

「き、騎士様が見たその魔物って、ッ?」

 勢い込んで尋ねる少年。

 そう、少年には心当たりがあった。

 彼らを襲った魔物が何であるかという、その絶対的な心当たりが。

「ど、どんな魔物……だと?」

 突然自分の言葉を中断され、ジハドは一瞬心外そうな表情を浮かべたものの、少年の勢いに押されてか、その魔物の容姿を思い出している様子だった。指先を顎に当て、騎士団を襲ったという魔物についての記憶を手繰ってゆく。

「そう……だな。それは何十かの群れで、突然襲って来た。夜半の事だ。隊の野営は混乱に巻き込まれ、それからの正確な記憶はないが……」

だ!」

 思わず少年は、騎士の返答が終わるよりも前に叫んでしまっていた。

 その声に溢れる強い確信。彼らエクセリア騎士団は、魔物討伐の途中、腹ぺこの怪物に襲われたのだ。少年は興奮したように騎士を見上げ、息を荒げている。

「ッハハハハハ! 面白い事を言う。何だその間抜けな怪物は」

 だがジハドは、その名前に思わず吹き出して、けらけらと笑った。

 子供の戯言だとでも思ったのだろうか。それとも、あまりに真面目な顔でそう叫ぶ少年がおかしかったのか。騎士は甲冑を揺らし、腹を抱えてなおも笑っている。

「嘘じゃないよ、父さんが言ってたんだ! だって、僕たちの村は、その腹ぺこの怪物に襲われて……!」

 その様に気分を害し、思わず声を荒げる少年。だが最後の方になるにつれ、次第にその声からは力というものが消えていった。

 燃える村と、別れた村人たち。今朝はグレイスさえ姿を消していて、それらの事を思い返すうち、忘れかけていた孤独感が少年の胸に押し寄せてくる。

 いつしか少年の声は、聞き取れないほどに小さくなっていた。

「それで、それで僕は、父さんと二人で……」

 ジハドもさすがに口を噤んだようだった。

 失笑の声はもう止んでいて、神妙な顔つきで耳を傾けている。

「お前たちの、村が襲われたのか」

 こくん、と少年が無言でうなずく。

「なら、他の連中はどうした? 生き残った連中はいないのか」

「僕たちが発見した時には、もう村が燃えていて。それでウェイン──ううん、みんなはって言って、腹ぺこの怪物と戦うんだって。村に残ってた人たちの事は──」

「分からんか」

「…………」

「そうか。悪かったな」

 重苦しい沈黙がその場に訪れた。

 押し黙ったように口を閉ざした少年と、俯いたまま、やはり何か思考を巡らせている騎士。灰色の荒野で奇妙な出会いを果たした二人は、互いに対峙したまま、お互い何も語ろうとしない。

 それでも、徐々にジハドには少年を取り巻く状況が飲み込めてきたようだった。

 最後に大きく頷いた後、騎士は重々しくその口を開く。

「お前は、どうするんだ」

 その身を案じてだろう、ジハドは少年に向き直る。

 少年は心細げに何度か辺りを見渡して、けれど強い決意で口を開いた。

「僕は、父さんを探さなくちゃ……」

 少年の胸にある思いはただ一つ。グレイスを探す事に他ならない。

 もちろん、どこをどう探せばいいのか、今も方法は分からない。先程までのやり方でグレイスが見つかる可能性は決して高くはないだろう。けれども、彼を探さなければすべてが始まらないのだ。それだけは分かる。

「駄目だ」

 しかし騎士はそんな少年の思いなど知るはずもなく、ただ一言、そう言い放っただけだった。

 理由は簡単だ。少年が身を守る術を持たず、このまま単独行動を続けていれば、やがては確実な死を招く。むざむざこの少年を殺すわけにはいかない。

「でも……!」

「ここはお前のような子供がうろつく場所じゃない。ここで俺と待っていろ」

 縋るような瞳で父親探しを進言する少年だったが、ジハドはそれを無視し、そのか細い腕を取って強引にその身を引き寄せた。体重の軽い少年は抵抗する間もなく、転ぶようにそこで尻餅をつく。何か言いたげに転んだ部位を押さえ、少年は抗議の目で騎士を見つめたが、彼はまったく意に介した様子もなく口を開いた。

「隊の面子が戻ってくれば、お前の父親探しも手伝ってやる」

 しかしそれは少年にとって、思いもかけない騎士の言葉だった。

 顔中に満面の笑みを浮かべて、信じられないといった風に少年が叫ぶ。

「本当──?」

「ああ、約束だ。これでも俺は、騎士団の隊長だからな」

 小さな笑顔を見せただけですぐに目を逸らし、短い返答を終えるジハド。

 だが内面より伝わるそんな騎士の心遣いが、少年にはとても嬉しく感じられた。

 騎士はさらにもう一言だけ、こう付け加えた。

「村の連中の事も心配はいらん。騎士の名にかけて、山の麓まで送ってやろう」

「騎士様、ありがとう!」

 少年は騎士の回りを飛び跳ね、心から礼を述べた。

 騎士の顔に、すでに焦りの色はなかった。




 ──あれから、どれくらいの時間が経過しただろう。

 ジハドと少年は大きな岩陰に身を潜めたまま、騎士団の到着を待ち侘びていた。

 無闇に動き回るよりは、体力の温存も兼ね、山裾に近いこの場所で周囲の様子を窺っていた方がいいという騎士の判断だ。

 しかしそれにしても、ただ待つという行為は静かな苦痛だった。

「騎士様の仲間の人、遅いね」

 少年は手持ち無沙汰に地面に絵を描きながら、誰にでもなく、ぽつりと呟いた。

 確かに、もうずいぶんと日も高くなってきている。雲の向こうのぼんやりとした太陽の光を見る限り、今は丁度正午くらいだろうか。しかしそんな予想を疑いたくなるほど、空は暗く、嵐の夜のように渦巻いていた。

 まるでこの世の終わりが訪れんばかりに、低く垂れ込める暗雲。

 今日はいつもよりもさらに、その空が不吉に感じられる。

「……なんて空だ」

 ジハドは吐き捨てるようにそう漏らした。

 ただ見ているだけでその身に不幸が振り掛かからんとする、まさしくそんな空だ。

 だが少年はといえば、あれから一度も空を見上げるような素振りはない。見て嫌な気分になるくらいの空ならば、見ない方がいい。それはこの土地に暮らす人々の知恵なのだろうか。ジハドは大人しくそれに習い、不吉な空から目を背けた。

 すると、地面に描かれた少年の落書きが目に入る。

 思うにそれは、どうやら戦いの様子らしかった。

 剣を構えた人間が、よく分からない怪物を倒している。

「何だ、それは」

「騎士様がね、腹ぺこの怪物をやっつけてるの」

 少年は夢中になって落書きに没頭しているようだった。騎士への返事もそこそこに、再びそちらへと意識を集中させる。ジハドはそんな落書きを横目に、ふっと小さな笑みを漏らしていた。

「腹ぺこの怪物、か」

 あれから少年と騎士は、色々な話をした。

 村での生活の事、昨日の狩りの事、グレイスという父親の事。そして魔物を退治しに来たというジハドに少年が最も力を入れて話した事──それが自分たちの身に振り掛かった聖戦と、それに伴う腹ぺこの怪物についてだった。

「お前たちはそう呼んでいるのか。面白い名前だな」

 その名前の由来や、その行動原理、姿かたち。少年が熱く語ったそれらの内容から、ジハドには、その怪物についてのおおよその見当はついている。

 そしてジハドは、グレイス同様、その腹ぺこの怪物を知っている。

「知ってるの、騎士様?」

「ああ、知っているとも」

 そんな騎士の戯れともつかぬ言葉に、少年は興味をそそられたようだった。落書きを中断し、ジハドの方へ視線を向ける。

「何で腹ぺこの怪物は……何で僕たちの村を襲ったんだろう」

「決まっている。連中の腹が減っていたからだ」

 その質問は、至極単純な理由で片付けられてしまった。

 なるほど騎士の言う通り、その怪物の名前からしてそうだろう。少年は妙に納得して質問を変えた。

「じゃあ、どうしたら仲良くなれるんだろう。どうしたらご飯を食べられるのかな」

「その前にもっと簡単な方法があるさ」

 ジハドが微笑を浮かべながら、思わせ振りに少年に問いかける。

 分からない、といった風に首を傾げる少年。ジハドは笑いながら言った。

「獲物がなくなればいいんだ」

 だがその答えは、よく分からないものだった。

 それを説いて聞かせるように説明する騎士。

「わざわざ仲良くならずとも、無理して餌を食わずともいい。獲物がこの世からなくなってしまえば、腹ぺこの怪物も苦労して獲物を探さずに済むだろう」

「ふうん……」

 少年は納得したようなしないような、何とも不明瞭な返答で相槌を打った。

 空は、ますます暗くなってきている。

 徐々に暗さを増す世界の中、二人の会話は、何故だかそこで終わってしまった。

 沈黙──どこか気まずい沈黙が、二人の間を包む。

 落書きという遊びにも、何故だかもう力が入らない。少年は無気力に壁際にもたれかかりながら、ただその荒涼とした世界を見つめていた。

 気だるい時間がゆっくりと、右から左へと流れてゆく。

 それは淀んだ川の流れのように。それは生暖かい空気の滞留のように。

 そしては来た。

 世界のどこかで、カチリという音が聞こえたような気がする。

 何かがカチリと型にはまったかのような、そんな音。

 そう、歪んでいた歯車か何かが、カチリとのような。

「逃げろ────────ッ!」

 耳をつんざくような悲鳴は、そのまま辺りに木霊した。

 この世の終わりでも見てしまったかのような、断末魔の叫びにも似た悲鳴。

 二人は驚いてその場に飛び起き、慌てて辺りを見渡した。それが一体誰のものなのか、どこから発せられたものであるのか、あまりに声が大きすぎて一瞬では判別がつかなかった。

 だがその声だけは、忘れようもない。

 しかし――例えようもないほどの、深い悲しみを帯びた声。

 今はそんな嘆きの色に、彼の声は染まってしまっていたが。

「父さん──?」

 驚いて周囲を窺う少年。

 何故ここにグレイスがいるのだろう。自分を探していたのだろうか。それに──逃げろとは?

 あまりに急な事で、いくつかの疑問が同時に少年の脳裏を駆け巡る。そしてそれらに何ら答えを用意する間もなく、少年の眼前にはグレイスの姿があった。激しく肩を上下させ、絶望の眼差しで少年を見つめる、変わり果てたグレイスの姿が。

「は、早く来い、そいつらが──!」

「え、な、何……?」

 グレイスの怒鳴り声は、完全に常軌を逸していた。上擦った声でそれだけ叫んだかと思うと、続く言葉を喉に詰まらせてしまう。状況の掴めない少年はグレイスの声に怯え、ただその場で立ち尽くす事しか出来ない。

 するとそんな少年の肩に、落ち着けと言わんばかりにその手はかけられた。

 そして、ぎりぎりと肩を揉むように、強い力で握り締めてくる。

 少年の眉がしかめられるほど、それは強く、少年の細い肩を掴んだ。

「──そいつらが、なんだッ!」

 目を見開き、驚いて騎士を振り返る少年。

 だが少年の身体は、そのままの恰好でふわりと宙に浮かび、硬質な地面に顔から叩きつけられた。何が起こったのかは分からない。ただ頭を、とても固い物で殴られたような感覚だった。

(痛い……?)

 生暖かいものが、額にだらりと垂れてきた。

 どくりどくりと脈打つ、鈍い痛覚。それは幾筋もの線として流れ、少年の見る世界を赤く染め上げる。

 世界の全てが、朱に染まる。

 そう──燃え盛る村を見た、あの時のように。

「ハ、ハハ……ッ! お、俺は運がいい。そうか、貴様がこの餓鬼の父親か」

 ぐったりとした少年の黒髪を掴み、ジハドが軽々とその身体を抱え起こした。自分の腹と少年の背を合わせるようにその身を拘束し、願ってもない相手に唇を歪ませて嗤っている。

 少年と出会った時と同様、その首元には冷たい刃が当てられている。

 しかし少年は力なく首を傾がせたまま、もはや抵抗する素振りも見せなかったが。

(──遅かった)

 グレイスの顔からは、あらゆる生気が消え去っていた。

 後悔、いや懺悔ともとれる痛恨の念がその表情にありありと浮かんでいる。

 グレイスは崩れ落ちるようにその場へ膝をついた。

「フハハッ、ならばむしろ好都合だ。お前ほどこの人質に都合のいい相手もおるまいッ!」

 自信に満ちた高笑いを浮かべるジハドの声。

 だが少年にとっては、それもどこか遠い世界の出来事のようだった。

 まるで夢と現実をさ迷っているような、ひどく曖昧な世界。ふわふわとする意識が定まらない。

(父さん……悲しいの?)

 薄れゆく意識の中、少年はグレイスへと問い掛けていた。薄く目を見開き、赤く染まった世界を見やる。そこにグレイスはなく、ただ左右に引きつった騎士の口元だけが覗いていた。

 少年の瞼がゆっくりと閉じられる。もう目を開けている事もままならない。

(──笑って、父さん)

 少年の脳裏に、騎士との会話が甦る。

 それは非常に小さな声だったが、何度も反芻を繰り返すうちに、徐々に聞き取れるようになってきた。

 

 深い意識の底で、ようやくこの意味が分かったような気がする。

 獲物がなくなればいい。──少年の意識は、闇の底へと落ちていった。

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