終わりかけた夜に

秋ノ

終わりかけた夜に

 今まで幾度となく鳴らしてきたこのマンションのインターホンを押すのもこれで最後かもしれないと思うと、思うように指先に力が入らなかった。

 今まで僕はどんな顔をして、どんな気持ちで呼び鈴を鳴らしてきたんだっけ。



 色々な国の偉い人や学者がこぞって世界の終わりを口にし始めてから、数十年が経つ。僕が物心ついた頃には、テレビやインターネット上では天気予報と合わせて終末予報が告げられるようになっていた。

 まるで降水確率を告げるようにこの世界が終焉を迎える確率が告げられるようになった当初は多くの人が混乱し、各地で暴動や衝突が起きたらしい。それが今ではすっかり落ち着いて、少なくとも僕の目には世界の終末なんか結局来ないんじゃないかと思えるような平穏な日々だった。僕が知る限り、今まで生きてきた22年の間に告げられた終末確率も10%を境に行ったり来たりを繰り返すばかりで、危ういバランスの上に今生きている世界が存在しているなんて俄かには信じられなかった。それでも時々、遠い国の知らない街の一部が見たこともないくらい大きな生き物に齧られたように消滅した映像を目にする度、終末の存在をはっきりと意識する。

 

 まだ少し暑さは残るものの、暴力的な熱気はすっかり鳴りを潜めた9月中旬のある日。いつものように何気なく見ていた天気予報に続いてニュースキャスターが無機質な声で告げた。 


 本日未明から明け方にかけて、この世界が終わる確率、80%。


 どうやら、今夜のうちにこの世界は終わってしまうらしい。


 そのニュースキャスターが告げた言葉の意味を完全に飲み込むまでにしばらく時間がかかってしまった。

 世界が終わってしまうということを言葉の上では分かった気になって、それが僕自身の身に起こるなんてこと全く想像もしていなかった。もしかしたら僕が生きているうちに終末の日なんて訪れないのではないか、とさえ思っていた。

 いざその日が訪れるかもしれないとなると今日という日をどうのように過ごせばいいのか分からなくてなんだか落ち着かなかった。そうして、特にこの世に強い未練を抱くような執着心を抱いて生きてこなかったことを少しだけ、ほんの少しだけ悔いた。

 もしかしたら、世界が終わってしまうということを聞き分け良く受け入れた気になって、何もかも諦めて生きてきただけなのかもしれない。だからこそ、世界が終わりかけた今になって、縋りたいと思えるものが僕には何もない。

 先行きの分からない未来を言い訳にして何もかもから目を逸らしてきただけなのだと思うと、そんな僕が今さら血眼になって何かに縋りたいと思うのもなんだか馬鹿らしくて思わず口の端を歪めて笑みをこぼしてしまう。



 そんな折、彼女から「今夜散歩に行こうよ」とメッセージが届いた。



 まるで重大な決断を迫られているかのような気持ちでおそるおそる呼び鈴を鳴らすと、扉の向こうから返事が聞こえた。

 がちゃりと扉を開けて僕の姿を認めるといつものように彼女は柔らかく表情を崩した。短く切りそろえられた彼女の髪が表情に合わせてふわりと揺れる。

「いらっしゃい......と言いたいところだけど、そのまま歩きに行こ。ちなみにそのバッグに何が入ってるの? 特に必要のないものだったらここに置いてきなよ」

 僕の提げているシンプルな布地のトートバッグを見て彼女が言う。

「いや、天気予報で雨が降るかもしれないって言ってたから折り畳み傘とか......」

「今から世界が滅びるかもしれないっていうのに、降るかもわからない雨なんか気にしてどうするの。世界が滅んだらその時はその時。雨が降ったら降った時」

 仕方がないな、とでも言うように彼女は小さく笑って息を漏らした。

 のどが渇いた時とかのための最低限の小銭だけで十分だよ、と言いながら僕の肩からトートバッグを引きはがして玄関先の床に置くと、ほら行くよ、と僕の背中を押した。


 漫画や映画の中で描かれている騒々しい世界の終末と違って、どこまでも静かな夜だった。このまま何も変わらずに世界が続いていくようにも、既に目に見えないところから世界が消えて行っているようにも思えた。昼間のぼんやりとした暑さを微かに引きずりながらも、息を深く吸い込めば秋の匂いがした。どこか遠くの方で鳴く虫の声と2人分の足音だけが空気を揺らす。

 こうして彼女と歩きに出るのは今回が初めてではなかった。月が綺麗な日や風がそよいで気持ちが良い日には、よく2人で何でもない会話をして延々と当てもなく歩いた。何より彼女は僕よりも小さな季節の変化を見つけるのが得意だった。ちょっとした空気の匂いだったり道端に咲いている草花だったり、彼女が季節の端っこを捕まえて僕に話す時の嬉しそうに話す時の表情が何よりも好きだった。

 そんな風にくるくると表情を変えて話す彼女の存在がいつも眩しくて、僕はただただ彼女の話に耳を傾けているだけで小さな幸せを感じていられた。


「ところで、なんでこんな日に限ってまた散歩なんかに誘ったの?」

「こんな日だからだよ。こんな夜にひとりぼっちにしたら、そのまま死んでしまいそうだと思ったから」

 真っ直ぐに僕の目を見て彼女は言う。

「なにそれ」

「それ、どうしても説明しなきゃだめ?」

「どうしてもってわけじゃないけど」

「じゃあ、なんか今さら真面目に説明するのも恥ずかしいし」

 そう言ってはにかむとまた視線を前に戻した。


 交通量の少ない閑静な住宅街をただただ気の向くままに僕たちは歩いた。既に明かりの消えた家がいくつかあり、いつも通りの光景なのにどこか寂しいものに思えた。

「生まれ変わったら何になりたい?」

 いつものように、何でもない質問をするように彼女が僕に問う。

 この質問が今夜でなければ、彼女の声は今とは違うように響いただろうか。

 ただでさえ、現状なりたいものがない僕にはすぐにはこれといったものが思い浮かばなくて、少し考えた後、空いてしまった間を取り繕うように僕は答えた。

「誰も傷つけないものになりたいかな」

「優しいんだね」

「そんなんじゃないよ」

 そんな、優しいなんて綺麗な言葉で飾られるようなものじゃない。何にも執着しない生き方しかできないだけだ。

「そういうそっちは何になりたいの?」

 僕は彼女に訊き返す。

「んー、じゃあ、わたしはそんな本当は寂しがりな誰かのこと、ダメになるくらいに甘やかす人になりたいかな」

 いつになく優しい声音に思わず胸の奥がぎゅっとする。

 そして「寂しがり」という後ろ暗い僕の思いを的確に言い表した彼女の言葉に誰にも触れられたことのないところを的確に射抜かれたように心が乱れた。

 何かを伝えようと口を開くけれど上手く言葉が出てこなかった。

 言わなくちゃ、これだけはちゃんと言わなくちゃいけない気がするのに。

 必死で言葉を探すけれど、探そうとすればするほど胸に沸いた感情の存在感だけが増していく。

 どうしようもなくなってちらりと彼女の方を窺うと、彼女はしっかりと僕の方を見据えていた。

 今までに見たこともないくらい柔らかな目をしていた。僕が何にも執着していないことも、こんな気持ちさえも分かっているとでも言うように紛れもなく、僕を見ていた。

 そんな彼女の表情を見たら、より一層胸の内のもやもやが絡まって熱を帯びる。

なんだか嬉しくて、どこか安心するのに、それ以上に呼吸が止まってしまいそうなほど苦しくて堪らず歩みを止めてしまう。



 言葉にならない熱がそのまま頬を伝ってしまいそうで、思わず拳を握りしめる。いっそさめざめと泣けたのならその方が楽になれたのかもしれない。それでもきっと僕は意地でも涙は流さないのだろうという思いが頭の片隅にあった。最後に涙を流すなんて形で救われた気になるのは嫌だった。

 そんな僕の表情を見て、どこか満足そうにふっと頬を緩めて彼女は笑う。

「今朝、ニュースを見て、いつも所在無げに笑う君の顔をそのままにしておくのは嫌だって思ったんだ。ひとりぼっちなまま世界と一緒に消えていくかもしれない君のことを考えたらどうしてもなんとかしたくて。今晩本当に世界が終わるのかは分からないけど、そうやって、最後にちゃんと死にたくないなって思ってほしくて」

 どこか得意げな顔で言い放つ彼女の顔があまりにも愛おしくて、急にこのまま何もかも終わりにしてしまいたくなくて、思わず僕は彼女の手を取った。

 そんな僕の手を優しく握り返しながら彼女は僕の目を見ながら続けた。

「君はちゃんと優しいよ。何も傷つけたくなくて、色んなものに気を使って、だから何事にも距離をおいて踏み込もうとはしないで。それに加えてそんな自分のことを好きになれなくて」

「うん」

「いつも君がわたしの話をちゃんと聞いてくれる代わりに、わたしが君の居場所になってあげられたらなって」

 違うんだよ。

 いつだって救われていたのは僕の方だってことをちゃんと伝えたかった。けれどもどんな言葉を紡いでも薄っぺらに思えてしまって今の僕には「好き」という大袈裟でシンプルな言葉しか思い浮かばなかった。

「もし、明日も世界が続いていくのなら、また僕に色んな話を聞かせてよ」

「任せてよ」

 そうやって誰も知らないような綺麗なものを見つけた時のように、彼女は笑った。

 ひとつまたひとつ、家々の明かりが消えて深くなっていく夜の中、僕たちはまたゆっくりと歩き始めた。

 宵闇の中で、僕は一層彼女の手を握る手に力を込めながら切に願う。

 こんな夜が少しでも長く続きますように。

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