五花


暗い山中を明かりも無しに、太一はひたすら蝶を追いかけていた。ひらひらと優雅に舞いながらも、まるで何かの糸に引かれるが如く、獣道を山の奥へ奥へとわけいる。


やがて杉ばかりの木深き山影に、椿の大木が一本生えている所へ出た。


蝶は誘われるまま近づいて、今咲こうとする蕾に止まった。

吸い込まれるように花びらのうちへ姿を消す。それが蝶のように光を宿して花開いた。


樹の根本近くに立ち、太一は花を見上げた。

不思議なことに、椿に咲く花の一つ一つが蛍のようにうち光っている。その光は柔らかな強弱をつけて点滅を繰り返していた。


「ここまで追って来たのかい?」


声のした方へ目を凝らせば、繁る椿の枝の上に女が寝そべっていた。花ばなの放つ怪光に照らし出され、太い枝にしなだれ掛かるように頬杖をついている。


すぐ傍らに咲いている花に口をつけ、スゥと光を吸い込む。光を吸いとられた花は見る間に変色を始め、小さく縮こまると枯れ落ちた。まるで命を吸いとられたように。


「お前が峠に現れる、魂を食らう鬼か?」


「だったらお前さん運が悪いね。あれ、よく見れば昨日逃げおおせた旅人じゃないか。連れは元気にしているかい?」


女は業とらしく優しげに微笑んで見せる。


「頼む! 与助を返してくれ!」


太一はその場に膝をつくと踞るように頭を下げた。


女は苛立たしげに顔を歪めると、樹の根本にするりと降りてきた。


「見ず知らずの奴から、何で頼まれなきゃならないのさ?」


「大切な弟なんだ。たった一人の家族なんだ。あいつが居なくなったら、もう他に誰もいないんだよ」


重ねて頼み込む太一を、女は嫌なものでもみるみたいに眺めていた。と、与助の命の花が咲いている枝を、無造作に折って唇を寄せて見せる。太一があっと息を飲んで青くなった。


「はっ。人間ってのは自分勝手な生き物だね」


くるくると指先で枝を弄びながら、冷やかに鼻で笑う。


お前らだって鳥を食うだろう? 魚を食うんだろう?

あいつ等が命乞いをしたら逃がしてやるとでも言うのかい。

自分達はそうやって、命を食らうだけ食らっておきながら、私を鬼と言う。矛盾してるじゃないか。


女は椿を振り返り、たわわに咲いている花を枝を振りふり指し示す。


今食われようとしている奴がこんなにいるじゃないか。

それでも、自分の家族で無かったら、どうせ見て見ぬふりをするんだろう? 身内さえ助かりゃそれでいいんだからねぇ。


返す気など更々ない。

そんな女の態度に焦りを感じた。


腕に覚えがあった太一は、隙を見て女に飛びかかる。

その手にした椿の枝を引ったくろうとしたのだ。


飛び付かれた女はふわりと身を翻し、氷のように冷たい笑い声をたてる。意図も簡単に太一の手を捉えると捻り上げた。腕をもがれるかと思った。その怪力はとても人間の及ぶものではない。


地面にうつ伏せに引き倒し、そのまま押さえつける。


「女とみればなめやがって。相手をよくみて判断することだね」


苦しそうな、無念の声ともとれる呻き声を聞きながら、女は満足そうにしていた。その目が静かな怒りに赤い光を帯びる。されど、何か思い付いたのか、怒りを引っ込め少し考えるように首をかしげた。


「そうだ。交換するなら返してやってもいいよ」


太一が横目で見上げれば、女は影のある笑みを浮かべた。


「もう一人連れがいただろう? あいつと交換しようじゃないか」


「なんだって!?」


「どうせ行きずりの他人だろう?」


思わぬ交換条件に太一が狼狽えていると、女は楽しそうにその様子を見ている。顔を覗きこみ、手にした枝を太一の鼻先でふりながら更にいい募る。


「何も連れてこいとは言わないよ。名前を教えるだけでいい。そうすれば弟を無事に返してやるんだ簡単じゃないか」


太一は青い顔をうつむけて、地面に転がる干からびた花を見つめている。返事もなく時が経つのに焦れたのか、女が太一の鼻先から椿の枝を引っ込めた。

太一が見ている目の前で、食い千切ろうと言うのか、その柔らかな花弁に鋭い牙をたてて見せる。


「止めてくれ! わかった!わかったから!」


女が大降りの椿の葉を差し出す。

うつ伏せのまま押さえられていない方の手を伸ばす。

太一は少しためらいを見せ、手にした枝を見つめた。しかし、何か決心したように頷くと、葉裏を枝先で掻き、力強い文字で名前を書き込んだ。


女は太一を立たせ、突き放すように手を離す。その胸に命の花が咲いた枝を放った。太一はよろけながらも落とすまいと枝を受けとる。


「人を売る気分はどうだい?」


女は嫌な含み笑いを残して暗闇へと姿を消した。

太一はカラカラに乾いた口を引き結び、大切に両手で持った椿の花に視線をおとした。

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