第7話 (第三章 その2)

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「今日はとりあえず今日のところはお引き取り願えないでしょうか?」

 侍女の坂田郎女が行者にそっと打診した。

「皆、困惑しておりますし、内親王様の母上様にもまずはお話をお伺いしないとならないですから。」

「しかし、事は一刻を争うのでございますぞ?」

「ええ、でも・・・」

 と、坂田郎女は戸惑うように皇女の方を顧みた。

「先ほど汝に言った通りじゃ。私は物の怪の子なぞ、宿しておらぬ。坂田、そもそもがその者の勘違いですから、今すぐどうこうするような事ではありませぬ。私には事の状況が理解できていますから、何も心配せずとも大丈夫です。朝廷からの依頼というものも、吾に対してではなく、あくまでも問題となっている物の怪に対するもの。私と物の怪の関わりだって、証拠などないではありませぬか。」

 坂田郎女はキッと行者を強く睨め付けて、

「私は、内親王様に従います。此方様の無礼な振る舞いにも内親王様の温情で目を瞑っていただいているのはお分かりですよね?今日はひとまず、一旦お引き下さい。」

 語尾を強めて、そう伝えた。行者の気迫に気圧されていた他の家人たちも、行者を追い立てるように皇女の側から引き離した。行者はなおも食い下がったが、

「物の怪に捕われているのか、そうでないのか、私には分かるのです。汝がなんと申そうと、事実でない事を承認する事はできぬ。皆の者は、この行者が申す事と、吾が申す事、どちらを信じるのですか?」

 皇女はそう一言最後に放つと部屋の奥へ消え、御簾を降ろしてしまった。


 屋敷の者たちも、主と乱入者、どちらを信じるのかと、直接問われてはさすがに異論を唱える者もなく、皆、皇女の言葉を受け入れるように項垂れた。行者は諦めたようにぽっと息を吐くと、

「よかろう。今日のところは引き下がるが、わしは朝廷より、物の怪封印の命を受けておる。また、近いうちに参るぞ。」

それ以上追求する事もなく、行者は立ち上がると、ヨロヨロと門から出て行った。


 行者との問答の後、鉛のような重さの疲れが皇女の精神を襲った。外の世界は抜けるほどの深い青さで良く晴れているのに、なんて心が重たいのだろう。あの時間、庭は緊迫して張りつめたような空間になっていた。虫の声すら届かず、睨み合いが続いていたのに、今は嘘のように蝉の鳴き声が賑やかで、蝶らも煌びやかで大きな羽を広げて、花々の上を舞い踊っている。何事もなかったような、いつもの景色に戻っていた。


 行者が屋敷から去ったのを確認すると、禍々しい気を祓うかのように、御簾を開き、大きく伸びをしながら眩い光を浴びた。曇った気持ちの憂さ晴らしをしたいと、宅馬と坂田郎女の二人を伴い、屋敷の近くを流れる小川へ遊びに出掛けた。

 冷たい清流に静かに足を浸しすと、凍るような冷たさが心地よくて、体を蝕んでいた黒い気が抜けていく。せせらぎが足の先から脳天まで突き抜けるように弾けて心を澄み渡らせて、キラキラと弾ける水しぶきは優しく笑うようで心地良かった。坂田郎女と密かな恋バナを二人きりで交わしながら、川遊びにしばらく興じ、すっきりとした気持ちで屋敷に戻った。


 しかし、屋敷へ戻った皇女を迎えたのは憂鬱としたように沈む母君の顔だった。

 坂田郎女からの文で今日の顛末の報告を受けた母君は、皇女の様子をたいそう心配して皇女の屋敷へ急ぎやってきたのであった。その後、行者に話を詳しく聞きたいと家人に命じて市中行者を捜させて、わざわざ皇女の屋敷へ呼び戻した。行者は当然のようにニンマリとしながら横柄な態度で屋敷へ戻ってくると、母君へ言葉巧みに話を進め、物の怪払いの行を行うからと屋敷の中へと上手く潜り込んだのだった。

 未だ半信半疑とはいえ、行者の話に不安を覚えた母君は、家人たちにしばらくの間は夜中も皇女の周辺を警備するよう命じ、真夜中に外へ彼女が忍び出ぬようにと自らも皇女の屋敷に留まり、皇女を邸の中へ閉じ込めてしまった。

「吾は物の怪になど、取り憑かれておらぬというのに。母君は全く・・・」

と、溜め息まじりに坂田に愚痴るが、坂田は皇女の心中は察するものの、一介の侍女としてはどうする事もできないので、苦笑を漏らすだけだった。


 一方、まんまと屋敷の中へ乗り込んだ行者は、望み通りに皇女の部屋に詰めると、そこで祭壇を作り、法具を取り出して呪符を作った。一通りの準備を終えると、印を結び呪禁を唱え屋敷全体へ物の怪の力を抑えるための結界を張った。

 行者は結界張りの作業を終えると、皇女の母君へ「内親王様のお体の中にいる物の怪への物の怪払いの行を進めたいので、しばらくお人払いをお願いしたい」と、申し出た。

 しかし、日中の無礼について、皇女から聞いていた母君は数日はお主の言葉が真実かどうか見極めたいから、様子を見ると、それの要求に対しては突っぱねたのであった。母君としては、行者の話も無視はできないが、皇女の様子を見て、母の勘としては確かに誰かに密かな恋をしている事は判るけれど、それ以上の不可解な変化が何かあるようには思えなかった、という事もあるのだろう。


 皇女は、屋敷の中に閉じ込められてしまったとはいえ、部屋には侍女たちも詰めているし、女たちとのおしゃべりと遊びとで飽く事はなかった。部屋の内外に見張りがついている状態であったから、さすがに行者も日中のような無礼な真似はできず、ひとまず皇女はほっと胸を撫で下ろした。が、いつもはおおらかでいて静かな屋敷の中は、なにか物々しい気配に包まれている。

 この厳重な警戒状況に、ひょっとしたら夜間のお忍びは難しくなるかもしれないという落胆した気持ちを感じないわけではなかった。これから厄介な事にはなったな・・・と面倒くさそうに大きな溜め息をつき、夜更けが近づくにつれ、やはり心中では彼の貴公子に逢いたいという思いが募っていた。






 その夜、弓張り月が静かに揺れていた。

 まだ、望月の夜までは遠いけれど、凛と張りつめた美しさのある月夜だった。

 静かで清らかな月の光が、蔀戸の隙間からわずかにそっと流れてくる。

ーーーー私を呼ぶ声?

 確かに魔力のように呼びかけ惹き付けられる美しさだった。これは、もしかしたら魔の力なのかもしれない。

 しかし、負の気配は全く感じさせられる事はなく、潔い心地よさと懐かしさしか感ずるものは一切なかった。美しく清らかな月の香りはやさしくやわらかに皇女(ひめみこ)を包み込み、彼女は誘われるように寝所から立ち上がった。隙間から差し込む銀の霧に恍惚としながら、そっと妻戸を押し開けた。

やさしげに香る草の匂いと今は夏なのにひんやりとしたような心地よい風が皇女を迎えた。


 皇女が屋敷を抜け出しても、誰に咎められる事もなかった。行者の姿もない。

そう、警護のものたちは皆、深い寝息を立てている。

「なんだ。結界など、意味をなしていないではないか。」

 皇女は少し飽きれたように軽く笑い、歩みを進めた。


 月読の力が強くなる月の夜。行者の結界は結局効かず、家人はおろか犬猫すらも息を潜めたように眠り込んでいる。

 結局今まで通り、皇女は外へ出る事が出来た。


ーーーー皆、寝静まってしまっている。きっと明日は、自分たちが眠ってしまっていたという、その事実すらも気付かずにいつものように過ごしているのだろう。薄っぺらい行者の結界などよりも、月の力が勝(まさ)ったのだ。

 ほんの少し気分が良かった。いつもよりも楽しげで足取りが軽く感じられる。幼子がちょっとした悪戯を施した後のような面白い気分だった。

 いつもの山裾の野原に着いた。しかし、そこには先客が居たのだった。

 鬼だった。

「おろかな女だのう。わしが寝ている姿に安心して気がつかなかったのかえ?鬼を使い、先回りしてこちらで待っておったのだわい。どのような手を使い、皆を眠らせ、わが術を破ったのかは解せぬが、鬼神の力によって吾は術を回避した。さすがにこの姿には眠りの法は効かなかったようじゃぞ。先日のわが式神の仇をとってくれようぞ。」

 鬼がしゃがれ声で笑った。その声音は、あの行者のものだった。

 行者は月の魔力に叶わず肉体は眠ったままだったはず。この鬼を霊体の媒体として使役し、ここへやって来たのか?

 ならば、法力を奪ってしまえば良い。しかし、私にはそのような力はない。あの式神だって、私は倒した覚えなんて、そもそもない。ある夜、突然気配が途絶えたのだから。


 しずかに月が揺らめき、空気が香る。彼方から、光の粒がゆらゆらと現れ近づいて来た。

「物の怪めが、現れたか。調伏し我が下僕として使役してやろう。ほれ、お前が餌となり、奴がやってくるぞ。」

 鬼は愉快そうにクックッと笑い、印を結び、高らかと呪禁を唱え始めた。皇女は何する事もできずに、彼の人を見つめた。

 だんだんと近づく距離。皇女は彼の人の方へと静かに歩み寄った。月が満ちていく分、二人の距離は縮まってはいるけれど、

やはりある一定の距離までは近づいてもそれ以上は望めない。そして、また、遠のいて行ってしまう。

「ああ・・・」

 何もかもがいつもの通り。

 しかし、その距離を行者は我が術が効いていると錯覚しているのだろう。行者の呪禁を唱える声はいよいよ張りつめ高鳴り、鬼の額からは脂汗が吹き出している。皇女は冷たい瞳でそれを眺めた。

 暫くして、行者は薄目を開け、彼の人を睨みつけた。だが、彼の人は皇女の姿を見ぬどころか鬼の気配すら気がつかぬ風だった。

・・・つまり、無視をした。


「あの者からはこちらが見えぬと言うわけか。あやつの力もたいした事はないのう。」

 行者は薄く笑って呟く。

ーーーー面白い。

「さて、今夜はお主の前で、あの者を退治してくれようぞ。」

 得意げにそう言葉を放つと、行者は再び固く両手で印を結び、陰鬱な声で呪禁を唱え始めた。

 いっそう強く禍々しい黒い気迫が立ちこめた。

 しかし、この禍々しい気もそう長くは続かなかった。黒い気迫が膨張し皇女の心を抑圧するかのように重く伸し掛かり、行者の妖気が最高潮に達したかと思われた瞬間、パッと目の前で光の玉が弾け、黒い気は一瞬にして四散してしまったのだった。

 この時、皇女には彼の人が鬼の方をほんの一瞬だが鋭く一瞥したような気がした。


 しかし、それだけだった。


 何も起こらず、振り返りもせず、何事もなかったように彼の人は月光を背に深い闇の中へと消えてしまった。


 なんと言う肩透かしかーーーー。

 鬼はがっくりと頭を垂れた。

 精魂果てた行者の霊体はいつの間にか消えて、抜け殻のようになった鬼も姿が消滅してしまった。


 皇女は屋敷へ戻って、寝台に上がり、ゆっくりと深い眠りについた。





(皇子よ)

 さやさやと草木が揺れるような呼びかけに皇子は天を仰いだ。

 昏い夜の彼方から、キラキラと七色に輝く鱗粉が降り注ぐ。

 夜空に大きく翅を広げる黒い蝶がゆったりと舞っていた。


ーーー魂の使いか?

 誰何(すいか)する。

 蝶々は静かに皇子の冷たい指先に舞い降り翅を休めた。

ーーーこの吾に何用か?

(貴方を、やっと見つけました)

「・・・もしや、姉上か?」

(私も今は現世の身ではありませぬ)

「今はどちらに?」

(いづれ、天の門が開くでしょう。私はそこで汝を待っております)

「吾の魂は呪によって捕われこの地へ縛られている。ここから動くことはできぬのだ。」

(あの者たちは未だ汝の魂を縛っておるが、いづれ時は来よう)


皇女との逢瀬の時に感じた黒い行者の気配。

ーーーあの行者、やはり、あの者たちの手の者だったのか。


 吾を封じようとした行者、おそらくは朝廷から命を受けて送られてきた者だったに違いない。

 が、陰陽の術者も大峰の行者も、亡き父帝、天武の意志を継ぐ者たちが殆ど。父帝の意志を継ぐ吾を封じ込めようと合作するものなど居るはずはない。

 現朝廷の県犬養三千代や藤原不比等らの言いなりになるような者などあの地の者の中には、まずいるはずはない。

 それに加え、今は吾を二上山(ここ)へ封印した百済人の術者ももう既にこの世を去っている。これだけの時を経て、吾自体ももうすでに人々の記憶からは薄い。このような依頼を受けるような輩は、吉野から追われたような多少問題を抱える小遣い稼ぎのはぐれ行者ぐらいなものであろう。ならば、二上山へ送られて来るような術者など、たいした力を持つ者などいるはずはない。


 皇子の指先に留まっていた蝶々が、黒い羽を広げた。七色の鱗粉が四散しながら、小さな星のように闇の中へ輝いた。

 優美でたおやかに翅を動かし虚空へ舞い上がり、悠然と月の光の中へ消えていった。


 皇子は冷たい磐座へ腰を下ろして、天を仰いだ。

ーーーもうすぐ、還るべきところへ還らねばならぬのか。


 溜め息まじりに呟いた言葉の中の真意とは。






 一方、皇女はこの盈月(えいげつ)にお互いを認識しあった事により、常世と現世が交わる盈月の晩のみ、お互いを認識できるのだと云う事を悟った。しかし、認識が出来るというだけで、結局は触れ合う事も言葉を交わす事も出来ないことには変わりない。それ以外の月夜では皇女にしか、皇子の姿は見えない。


 外へ出て、彼の人を探したとて、彼女は彼をただ遠くから見つめることしかできない。

 しかしきっと彼は私を捜している。

 だけど彼の人には私が見えないようだった。

 声すらも届かない。


 あの盈月の晩ならば、お互いを認識できた。

 視線を交わすことができた、あたたかな瞬間。


 しかし、見つめあうだけで、見えない壁のようなものが二人の間を隔てているかのように、お互いに近づく事は出来なかったのだった。

もどかしい。

 そして皇子もまた、伶俐で美しい顔をこちらに向け、皇女を見つめるだけで、立ち去ってしまうのだった。彼の人の瞳の奥に憂いを感じ、皇女の胸は痛んだ。



「皇女様」

「なあに?」

「実は、皇女様にお渡ししたいものがございます。」

 螺鈿の箱を手に携えて、乳母(めのと)が皇女の前へ座った。

「昨晩、私の目の前を七色に輝く黒い蝶が飛んできて、この箱に止まったのでございます。その時に、皇女様へお渡しをするようにと、私の大事な御方の声を聞いたような気がしたのでございます。」

 皇女は螺鈿の箱を乳母から手渡され、蓋を静かに開いた。

 中には星を散りばめた夜空のような大きな玉で細工された首飾りが輝いていた。

「これは・・・」

 皇女が玉の首飾りを手に取った瞬間、蝶のようなものがそれを持つ手の中から飛び去ったように見えた。

 そして、手中の玉を通じ、体の中に何かあたたかいものが流れ込むような感覚を覚えた。

 それはとても神々しいような清らかで確かな気配。深い夜空の色彩が宇宙の源へと繋がる。

「?!もしや・・・皇女様ならお判りになりますか?」

「なぜ、これを?」

「この玉の首飾りは昔私が伊勢の斎宮様より賜ったものでございます。今回の事件で、皇女様をお守りするためにもお渡しすべきもののように感じたのでございます。」


 乳母(めのと)は思考を巡らせるように天を仰いだ。

「私がまだ幼い頃の事でございます。今はもう冥府の方となられましたが…」

 昔、乳母がまだ幼き頃に当時の伊勢の斎宮(いつきのみや)様から授けられたものということだった。

 まだ幼い少女だった頃の乳母は、伊勢の斎宮大伯皇女(おおくのひめみこ)という方に仕えていたという。大伯皇女は人の気持ちを酌み取る事が上手な彼女をいたく気に入られており、彼女を大事にされ、いつも側に置いていたのだそうだ。

「大伯皇女様は穢れのために斎宮の職を解任されましたが、私も皇女様に従い、伊勢を離れました。」


「都へ戻ってからは、私はこの通りでありますが・・・。大伯皇女様がお隠れになる前の年のことでありました。皇女様が隠居されていた夏見寺へ呼ばれ参じましたところ、皇女様は片時も離さずに身につけていたその勾玉の首飾りを「きっといつか必要になる時が来るであろう」とおっしゃって、吾めにお授けになられたのでございます。」

 そしてその首飾りというのが、今、皇女が身につけているものだった。


 否、皇女はこの玉(ぎょく)を身につけた時に本当の力を理解したのであった。この玉は、しかるべき者が身につけると、常世と現世を繋げる力を持つものだ、ということを。かの斎宮様はこの事を予見されていたのであろうか、私の乳母へと授けたのだった。

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