KHM.8

 荒れた野道をくように、一行は散らばる薄片を避け、時には跨いで廊下を進んだ。

 軽快に飛び越えていくのは先導するグレーテルのみ。慌てて後を追うハンスは暴れ馬の手綱を必死に引いている騎手のようにも見える。それでもグレーテルが突っ走っていかないのは偏にハンスの手腕とも云えよう。

 追随するアリス達を気遣うように、即かず離れず進んでいた。


「ハンスも中々のもんだな……。よっ、と」


 感心するようにチルチルは独りごちると、手近にあった石像の塊を持ち上げる。倣って赤頭巾が破片を拾っては、廊下の隅へと避けていく。

 アリスも足下に転がる欠片を拾っては、端へと避けた。チェシャも気怠げながら、軽々と石膏の塊を拾い上げては隅へと転がす。

 こうするだけでも幾分か通りやすくなる。

 チルチルの発案だった。

 ついでに、逐一、扉も確認するが、相変わらず施錠されているばかりで手応えはない。


「やはり無理そうか?」


 気遣うチルチルに、落胆混じりの首肯を返すしかない。

 もはや全ての扉が施錠されているのではないのかーー。

 むしろ施錠されていないことが異常とさえ思えてくるほどだ。


 まだ十数の扉があることを想定したのか、チルチルはやれやれと肩を落とした。

 進めど進めど士気は上がらず、グレーテルの笑い声とハンスの叫びが残響となって消えるのみ。

 せめて話題を変えたいと、アリスはチルチルに話を振った。


「ところで——凄まじい音っていうのは……?」


 遊戯室ビリヤードルームでの会話が脳裏に過ぎる。

 あの時、チルチルが最初に確認した時は廊下には何も無かった。しかし、凄まじい音の後には一対の石像と廊下に散らばる石膏の数々があったと云う。

 廊下を引っ掻き回すような酷い音だったというからには、玄関口ロビーにいたアリスたちが耳にしても可笑しくはない。


 だが、思い返せど、そんな音に心当たりはなく——。

 そんな最中でグレーテルと思しき小さな足跡が聞こえた事も妙に気にかかる。


「あぁ。それなんだが……」


 返答するチルチル歯切れが、急に悪くなった。明後日を向いては、頬を掻く。


「あまり……覚えていないんだ」

「え……?」

 アリスの足取りが止まる。


 察したようにチルチルも進みかけた歩を戻した。慌てた素振りで彼は言い繕う。


「あ、いや。何というか、漠然としていて」


 言葉に詰まったのかチルチルが黙り込む。先を促すように根気強くアリスが彼に視線を向けていれば、やがて口を開いた。


「実を言うと、本当にそんな音がしたのか、覚えていなくてな。思い返せば思い返すほど曖昧になっていく……。俺だけじゃない。二人もだ」


 赤頭巾も怖ず怖ずと頷く。アリスは絶句した。


「廊下を確認したのは間違いなく音がしたからだ。……だが、どんな音だったか、記憶が抜け落ちたように思い出せない」


 苦渋に満ちた表情をチルチルは浮かべた。

 後ろめたさを隠すように、けれども必死に記憶を辿るように目を閉じる。

 すまない、と一言チルチルは絞り出した。


 これにはアリスが慌てた。

 責め立てるつもりは毛頭ないのだから。

 

 そこへ。

 両者の陰鬱な雰囲気を割り裂くようにハンスの叫びが轟く。

 

「あー、もう、待つっす! 皆とはぐれちゃうざんす!!」


 鬼気迫る声に視線を向ければ、突き当たりを曲がってグレーテルの姿が消える。追い掛けるハンスが思わず破片に足を取られ、盛大に転けた。

 チルチルも驚いたように身を見張る。


 アリスは彼を向くと、

「今はグレーテルを」

「ああ」

 石像を除けるのも忘れてハンスの元へと駆け寄った。


 幸い大きな怪我はなく、助け起こせば「もう懲り懲りざんす!」と目に涙を浮かばせて訴えた。反して身体は動くようで、即座にグレーテルの後を追う。

 不格好に破片を避けていくハンスに遅れをとらないよう、急いで追随する。


 アリスの来た道と対称的シメントリーな廊下は、しかし、窓はひび割れ、磨り硝子のように濁って庭は窺えない。

 やがて、窓から射し込む月光が途絶え、グレーテルの姿が薄闇に沈む。同様の造りであれば、近くに玄関口ロビーへ続く扉があるはずだ。


 果たして。


 グレーテルは意図したかのようにその扉の前で立ち止まった。追い着いたハンスがここぞとばかりに責め立てる。当の本人は悪びれもせず聞き流しているが。


 確かこの扉は鍵が掛かっていたはずだ。

 アリスは朧気に記憶を辿る。

 それを裏付けるようにグレーテルが拗ねたように言い放った。


「ここ開かなーい!」


 チルチルが承知していたように頷く。


「俺たちが試した時も開かなかった」


 部屋を出る時、言いあぐねていたのはこの事だとアリスは合点がいった。記憶の軌跡を辿って、確か玄関口ロビー側に鍵口は無かったと思い出す。ならば、此方側にあるはずだ。

 アリスの意を先取りしたチルチルが鍵口を指差し、鍵を探そうとしていた旨をと告げた。


「あーかーなーいーっ!」

「どうしようも無いざんす。戻るっすよ」


 駄々を捏ねるグレーテルの襟首を容赦なくハンスが引っ張る。それでも構わず抵抗するグレーテルはおもむろに扉を忙しなく叩き始めた。


「シンデレラー! お兄ちゃーん!」


「け、怪我するざんす……っ!」


 急いでハンスが止めに掛かるが、グレーテルはその手をかい潜って叩き続ける。厚い木製の扉は力一杯に叩かれてなお、鈍い音を立てるばかり。

 けれども、その合間を縫うように向こうでシンデレラの悲鳴と思しき高音と、少年特有のハスキーな声が応答した。

 やはり、玄関口ロビーに繋がっていたようだ。


「シンデレラー! お兄ちゃーん! 返事してー!」


 なおもグレーテルが呼びかけ続ければ、恐る恐るといったていで近づく足音がある。


「グレーテルですの?」


 向こうでシンデレラが声を張り上げた。

 その声にグレーテルは一瞬、虚を衝かれ、瞬く間に満面の笑みを浮かべる。


「うんっ!」


「そこにアリスも居ますわね?」

「うんっ!」


 短い応答に続いて、チルチルが素早く扉へ進み出た。


「俺はチルチルという」


 予想だにもしない声に向こうで驚く声がする。チルチルは少し待って先を続けた。


「連れも二人いて、合流させてもらった。早速で悪いが、シンデレラ、其方から開錠することはできるか?」


「なっ!?」


 思わずアリスの脳裏で顰めっ面のシンデレラが過ぎる。


「不躾に私の名前を呼ばないでくださいまし!」

「まぁまぁ」


 ヘンゼルが宥める声が続く。おざなりにがちゃがちゃと取っ手ドアノブを回す音がするが、扉は開かない。


「開きませんわよ!」

「やはり、反対から回るしかないか……」


 悩ましげに顎に手をあて、チルチルは唸った。

 石像を避けていたのはこの事態を考慮していた為なのかもしれない。


「癪ですけれども貴方の意見に同感ですわ」


「やだー!」


 強情に食い下がったのは、やはりグレーテルだった。ハンスが説得を試みるが梃子でも動かないといった様子で、扉に齧り付く。対して、扉も決して開くまいと頑なに突っ掛かっていた。


「鍵が無い以上、鍵抜きでもしなきゃ無理でやんす。チビちゃんが拗ねても無駄っすよ」

「チビじゃないもん!」


 口を尖らせグレーテルが反論した。両手をポケットに突っ込んで、乗り出すようにべーっ、と舌を出す。

 長くなりそうだとアリスが天を仰いだ時、「あっ!」とグレーテルが声をあげた。驚いて見遣れば、右ポケットに手を突っ込んで、何やら懸命に漁っている。何か見つけでもしたのだろうか。


 目当ての物を探り当てたのか、にぃっとグレーテルが笑う。


「鍵っ!」


 勿体ぶるように小さな手で隠したそれを見せつけるように開いてみせる。

 確かにそれは、鍵だった。骨董品アンティークとも見紛うような意匠デザインの鍵山がグレーテルの掌で存在を放つ。


「さっきの部屋で見つけたの!」


 えへん、と自慢げにグレーテルは胸を張った。唖然とする面々の応対を待ちきれず、早速、鍵穴に差し込もうと試みる。


「そう都合良く見つけた鍵で開くわけが——」


 ハンスは取り合わずに冷ややかな目で鍵穴を見つめた。

 その視線の先で、吸い込まれるように鍵は穴を滑っていく。


「——ない、でやんす」


 グレーテルが右に回せば、がちゃり、と噛み合う音がした。


「おいおい……」

 ゆっくりと開かれる扉にチルチルが困惑したように呟いた。


 玄関口ロビーから光が洩れ出てくる。心なしか明度が増している気もした。蠟燭の灯火を背にして、扉の向こうに控えていたシンデレラとヘンゼルが驚愕の表情を浮かべる。


 グレーテルは扉が開くと真っ先に兄のもとへと飛び付いた。勢い余って後ろに倒れ込むが、安心したように笑みを浮かべる。


「もう訳が分からないざんす」


 ぼやくハンスも毒気を抜かれたように苦笑した。

 ようやく状況を把握したシンデレラがつかつかとグレーテルに歩み寄る。

 貪るように息を吸うと、


「私たちがどれだけ心配していたと思いますの!?」


 耳を劈くような高音ハイトーンがシンデレラから発せられた。

 きーん、と残響のように耳鳴りが残る。

 シンデレラが肩を怒らせて再び口を開く素振りを見せると、アリスは咄嗟に耳を塞いだ。チルチルたちもそれに倣う。

 本能的な衝動だった。


 しかし。


 シンデレラの口から言葉が紡がれる次の瞬間——。


 シュッと鋭い風切り音が、彼女の目の前を過ぎっていった。

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