第34走 お姉ちゃんのポニーテールに約束を

「――条件?」


 深夜の国立競技場。

 そこで千隼の話を聞き終えた飛鳥はそう聞き返した。


 千隼と再会した飛鳥はまず「どうしてここにいるのか」と、問い詰めた。故に千隼は《》の不活性化の方法と、《SCT》及び椛との交渉の内容について語ったのだ。そして椛が協力する際に条件を出した事も。


「いやなに、当たり前のことだ」


 千隼は肩をすくめて、飛鳥の問いに答える。


「《》に契約を破らせるには、まず宿主が――飛鳥が何を願って《おにき》になったのかを理解してなくちゃ始まらない。そこから契約の穴を探すわけだからな」


 飛鳥の顔に理解の色が浮かぶ。

 本当に隠し事ができないやつだな、と千隼は内心苦笑した。


「だから、飛鳥が何を願って《おにき》になったのか言い当てられたら協力する――そういう条件だったんだ」


 そう言って、椛は飛鳥から願いの内容を聞き出す為、遅れてやってきた《SCT》のヘリに乗り込んだのだ。千隼の予想が外れていた際には、そのまま《研究病院》のかくびょうとうへ押し込めると告げて。

 だが、飛鳥は今ここにいる。


 つまり、


「――五年前の決勝戦、飛鳥は私に勝ちたかったんだな」


 千隼の予想は正しかったということだ。


 飛鳥は自分の命よりも、姉に勝つことを優先したのだ。

 流石に千隼の予想を聞いた時には椛も首を傾げていたが、すぐに「まア、わたしも人のコトは言えンか」と納得していた。

 これでもう語ることはない。そう千隼が思っていると、飛鳥がもの問いたげな視線を飛ばしてきた。両手の指を重ねて、上目づかいにチラチラと千隼を見やる。


「……もう一つ、」

「ん?」

「もう一つの方の、願いも判ってる――――――の?」

「それは、」


 飛鳥の涙がにじみそうな瞳を向けられて、千隼はたじろいだ。

 おかしい。私の予想が正しいのであれば、こんな態度を取るとは思えない。何かをやらかしてしまったような確信があった。だが、予想が正しかったからこそ飛鳥はここにいるはずのなのだ。そう自分を鼓舞して千隼は続けようとして、


「いヤ」


 ガラコロン、と。

 ぼっくり下駄の足音が二人の間に割り込んだ。

 深紅に黒抜きの紅葉があしらわれた振袖に、足元まで届く絹糸の白髪。


「ソイツは判ッテないゾ」


 鬼無里椛は、そう飛鳥へ告げた。


「千隼クンが言っタのは『妹扱いをやめさせたい』ト願っているだっタ」


 つまり、千隼の予想は外れていたという事になる。

 だが、それなら何故飛鳥はここに居るのだろうか。千隼の思考を読み取ったかのように、椛は千隼へ小馬鹿にするような笑みを浮かべて告げる。


「だがマあ、千隼クンの言う方法でも大丈夫だろうサ」

「いいのか?」


 あれほど強硬に協力を拒んでいた椛だ。条件を満たせなかったのだから、問答無用で飛鳥を連れさるのではと思ったのだが。

 千隼の視線に椛はカカカと、若くしわがれた声で笑う。


「結局、左脚ノ願いが叶わなけれバ、右脚の願いモ叶うことはないカラな」


 そうだろ? と椛から向けられた視線に、飛鳥は力なく頷く。瞳からは先ほどまでの何かを期待するような、怖れるような色は消えて、大きな落胆と安堵が満ちている。

 一体、飛鳥のもう一つの願いは何だったのだろうか。千隼は聞き出したい欲求に駆られる。

 だが無論、今はそれどころではない。


「ねえ」


 気分を入れ替えたのか、ことさら明るく飛鳥は椛に声をかけた。


「それで、これからどうするの?」

「何ヲ言っておル」


 飛鳥の言葉に椛は大仰に驚いてみせ、続いて周囲を見回した。


「ここは国立競技場だぞ?」


 言われて、ようやくそこに思い至ったのか。それとも見ないようにしていた事実を突きつけられたのか。ともかく椛の言葉で、飛鳥の顔に理解の色が浮かぶ。


「まさか、」

「そうだ。――これから私と飛鳥で五年前の決勝戦をやり直す」


 その為に《SCT》の協力を取りつけたのだ。奧山なら、適当な理由を見つけて国立競技場を貸し切るくらいするだろうと考えてのこと。そして《SCT》は千隼の望み通り、《おにき》の確保の為と称して国立競技場に非常線を張り封鎖してみせた。

 だが。

 千隼の言葉を聞いた途端、飛鳥は表情を曇らせた。


「どうした?」

「お姉、」


 飛鳥は奥歯を噛みしめ、ゆっくりと言葉を絞り出した。


「つまりそれって、あたしとお姉で勝負して、お姉が勝とうとしてるって事だよね? 《》に願ったのが『お姉に勝ちたい』って事なら、《》は勝負にあたしを勝たせようとする。だけど、それでもあたしが負ければ、それは《》のせいだから――」

「そうだ。《》が不活性化するはずだ」


 それで問題ないか? と千隼は椛へ視線を飛ばす。

 椛は肩をすくめて、


「あア、可能だロう」

「無理だよ!」


 突然の叫びに、千隼も椛も声の主へを見る。

 二人からの視線を受けて、飛鳥は一歩後退りながらも続けた。


「お姉も見たでしょ!? 両脚の《》の力を解放したら、100メートルなんか一歩で走り切れちゃうんだよ!? そんなのどうやって勝つの!?」

「いやいヤ、それハ勘違いダ」

「え、」


 椛は呆れたような笑みを浮かべる。


「《》が願いを叶えたと判断スル基準ってのハ『宿主ガ満足したか』ナのだよ。願いが複雑な場合ハ、宿主の身体を操り色々な行動ヲ取らせて、ソノ都度、宿主が満足したかどうかを確認スル。君が夜な夜な走リ回っていタようにナ」

「だからなんだってのよ」

「飛鳥クン、君は《》の力を使ッテ姉に勝って、ソレで満足するのかネ?」


 飛鳥が言葉に詰まった。それは椛の言葉を認めたからだろう。

 飛鳥は「でも」と食い下がる。


「それじゃあ《》に契約を破らせることにはならないんじゃ……」

「それが、そうでもないんだ飛鳥」


 千隼は説明する。


「飛鳥が《》に操られて国立競技場に来た時、飛鳥は『いつもと同じ走り』をしていた。《》は擬態を解いていたにも関わらず、だ」


 それが、飛鳥を救うわずかな光明。

 あの晩、飛鳥の両脚は黒いタイツのようなもので覆われていた。それが何かは、椛の《》を見れば判る。椛が纏った《》のまく。あれも《》の形態の一つだった。ならば飛鳥の黒いタイツも《》の擬態の一つと考えるべきだろう。

 では何故、《》はあのような形を取ったのか。

 飛鳥に『いつも通りの走り』をさせる為――それが千隼の結論だ。

 そして、それは椛からも確証を得ている。


「自分自身ノ能力で姉に勝たねバ満足できナイ。だが、ただ走ッテしまってハ負けるかもしれナイ。――ダカラ《》ハ飛鳥クンの全力を引き出す事にしたのサ」


 その結果が、あの黒いタイツのような《》の姿。《》は飛鳥の全力を引き出す事で願いを叶えることにしたのだ。その方法でしか飛鳥は満足できないから。

 もし、それでも飛鳥が負けてしまえば《》は契約を果たす方法を失い、不活性化する。


「でも、」


 それでも飛鳥は納得がいかないようだ。

 その視線が下へと伸びる。


「その足じゃ……」


 見つめているのは、千隼の右脚。義足の銀色だった。

 その飛鳥の視線を「はっ」と、千隼は笑い飛ばす。


「見くびるなよ飛鳥。競技用義足で勝てないとでも?」

「そう、じゃなくて。いやそうだけど……」


 やはりそうか。と、千隼は納得する。

 思い出すのはショッピングモールでの一件。

 五年前の決勝戦を憶えてるかと訊いてきた飛鳥は、今と同じように一瞬だけ千隼の義足を見たのだ。


 その視線の意味を、今ならば理解できる。

 飛鳥は『五年前の決勝戦』をやり直したいのだ。

 それが飛鳥の願いの本質。


 故に、義足の千隼に勝っても満足できない。

 五年前の千隼は義足などつけていなかったからだ。

 無論、千隼としては例え義足でも飛鳥に負けるつもりはない。だが、飛鳥が満足するやり方でなければ、《》に契約を破らせる事はできないのも事実。

 だから――椛に協力を取りつけたのだ。


「鬼無里、頼む」


 千隼は椛の返事を待たずに右脚の義足の金具を外していく。義足を脱ぎ捨て、当て布も放り出す。そして、ふくらはぎの途中から先がない右脚を椛へと差し出した。

 それを見て、椛はあからさまに『不服である』という意味のため息を吐いた。


「まァ、約束だからノ」


 言って、椛は額の六角ボルトの一本をを引き抜く。

 途端、額の穴から幾匹もの子蜘蛛が漏れ出した。


「《擬態》セヨ」


 囁きかけるような命令を受けた子蜘蛛は、跳ね飛んで千隼の右脚の先端へと張りつく。

 そこから先の光景は異様だった。

 子蜘蛛は氷のように溶けて、千隼の肌へと染み込んでいく。途端、千隼の右脚の肉が内側から盛りあがり始めた。ぶくぶくと膨れ上がる皮膚と同じくして、内側から神経を焼かれるような痛みが千隼を襲う。

 それは骨が、血管が、筋肉が、神経が繋がる痛み。

 まるでトカゲの尻尾が再び生えてくるように、千隼の右脚が再生していく――。

 気づけば、元からそうであったように千隼の右脚がそこにあった。


「ありがとう鬼無里――あの時も、こうやって助けてくれたんだな」


 千隼が礼を言うと、椛は「ふん」と鼻を鳴らした。


 あの時。

 それは、国立競技場で飛鳥に腹を貫かれた時のこと。

 腹に大穴を空けても千隼が生きていた理由。

 それに気づいたのは簡単な消去法だ。

 あの場に医者はおらず、救急車で間に合うような怪我ではなかった。

 ならば、あの場に居た誰かが千隼を助けたはず。

 その可能性があるとすれば、鬼無里椛しかいない。


 これまで方法は判らなかったが、今の様子から察するに肉体を運営するという《脳髄の》であれば、千隼の肉体を半ば支配するようにして再生させる事も可能なのだろう。


「言っとトクが、これハ疑似的なものダ。千隼クンの腹は潰れた肉ヲかき集めて治癒させたが、今回は無いハズの右脚をわたしノ《》に擬態させているニ過ぎナイ。わたしが《》を体内に戻せバ、貴様ノ右脚は消えて無くなル」

「ああ構わない。今だけ生えてればいい」


 千隼は右脚をゆっくりと地面に下ろす。天然芝の感触が、足の裏からしっかり伝わってきた。何の違和感もない。軽く跳ねてみるが、両脚の筋肉量に差異もなさそうだ。これなら十全に走ることができるだろう。確認を終えた千隼は、前もって用意していた靴下とスパイクシューズを芝の上に放り出した。

 満足げな千隼に、何故か呆れたような笑みを浮かべて椛は言う。


「確認するガ……千隼クンが負けた場合、《SCT》ハ飛鳥クンが『人を喰う』と判断して行動するゾ」

「ああ」


 千隼の素っ気ない返事を聞いて、椛はくるりと踵を返す。そのまま夜間照明でも照らせない競技場の闇の中へと消えていった。

 それを見送ることなく、千隼は履き終えたスパイクシューズで地面を踏みしめる。

 そして、唖然としたままの飛鳥を見据えた。


「さあ、これでもまだ嫌か?」






「だがよ、勝てるのか?」


 開口一番、やって来た椛へ奧山はそう問いかけた。

 国立競技場の観覧席。その夜間照明の死角となった暗闇に、奧山は居た。奧山の隣には《対策室》一係係長であり《SCT》隊長でもある渡辺が、無線を通じて忙しそうに指示を飛ばしている。千隼が100メートル走に負けた場合、飛鳥を狙撃して射殺する為の準備だ。それ以外にゴール付近にも多数の隊員を配置している。

「さあナ」奧山を横目で見ながら椛は観覧席に腰を下ろす。「だが分ノ悪い賭けでもナイと思うゾ」。

 そう答えた椛に、奧山は「いやいや」と苦笑する。


「相手は五輪候補に選ばれるような選手だろ? しかも日本女子記録だって持ってるらしいじゃねえか」

「あァ」

「何秒だっけ?」

「11秒08ダ」

「俺にはその凄さは分からないけどよ。でもつまり、水無瀬飛鳥は日本で一番速い女子ってことだろ?」


 奧山は椛の隣の席に腰を下ろすと、内緒話でもするかのように椛へ顔を寄せた。


「正直、千隼ちゃん――負けるんじゃねえか?」






「そんな事をしたからって、お姉はあたしには勝てない」


 水無瀬飛鳥は、ハッキリと断言した。

 言わねばならないと思った。結末の判りきった勝負をすることなどない。何しろ千隼が負ければあたしは正真正銘の《おにき》になってしまう。それだけならまだ良い。最初に手をかける相手が、大好きな人――千隼になるかもしれないのだ。

 例え一生閉じ込められる事になっても、殺されることになっても、姉を殺すことだけは避けたかった。


「あたしがどれだけ速くなったと思ってるの? お姉は知ってるでしょ、あたしの速さを」

「ああ」


「右脚が生えたくらいじゃ、現役の選手には勝てっこない」

「ああ」


「引退して何年も経ってる『元陸上部』ってだけのお姉が勝てるわけ――」

「ん? それは違うな」


 だが、目の前で仁王立ちする千隼は、仏頂面のまま眉を片方だけ上げた。

 そしておもむろに、自身の髪をポニーテールに縛り上げる布に手をかける。スルスルと解かれたソレには、洗っても落ちないほどの染みが残されていた。

 そういえばずっと不思議だった。

 飛鳥が新しい髪留めを買おうと提案しても、千隼は頑なにその布を使い続けていた。

 だが、思い返せば過去には他のゴムや髪留めも使っていたはずなのだ。

 それがいつからか、その布だけを使うようになった。

 それはいつからだったのか。


「見ろ、飛鳥」


 千隼が差し出したソレに、飛鳥は視線を落とす。

 息を、んだ。






「奧山」


 小馬鹿にしたような物言いに、椛は思わず言わなくても良いことを語り出す。


「千隼クンが《舌のおにき》に襲われタ時のコト、憶えてるカ?」

「――ん? おう」

「アノ時、千隼クンはどんな格好をしていタ?」


 奧山は無精髭をさすりながら考えて、


「確か紺のジャージ着てたな。それが?」


 まだ判らないか。

 椛は小さくため息を吐いて、


「ジャあ、持ち物ハ憶えてるカ?」

「いやあ、そこまでは――」

「競技用義足とスパイクシューズです」


 話を聞いていたのか、横から渡辺が割り込んでくる。奧山は「おお、あんがと」と礼を言って、ふと眉をひそめた。


「競技用義足と……スパイク?」

「つまりダ」


 椛は《》により自身の肉体を『運営』し、視覚能力を数十倍に引き上げる。

 視線の先には水無瀬千隼と水無瀬飛鳥がいる。

 千隼が手の平に広げる布を、飛鳥が見下ろしていた。椛の、鷹の瞳すら超越する視力は、その布に刻まれた染みの一つ一つをも捉えている。

 ああ、そうだ。

 ここから先は一瞬だって見逃すわけにはいかない。

 椛は年齢を誤魔化し他人を煙に巻く為に続けていた口調を続けることすら忘れて、答えを告げる。


「決着をつけたいと思っていたのは、妹だけじゃなかったんだ」






 千隼が使っていた布には、ある刺繍がなされていた。

 それはかつて妹が姉を応援する為に縫いつけた言葉。

 飛鳥は気づかぬ内に、その布――ハチマキに記された言葉を口に出していた。


「――お姉ちゃんが一番速い」


 それは五年前、妹の紅羽くれはが姉二人にたくしたハチマキ――そのうちの一つだった。


「この五年間……私は、一瞬だってあの勝負のことを忘れたことはない」


 千隼はハチマキを額に巻きつけ、後頭部で固く結びつける。


「いつか飛鳥と決着をつけられる事を信じて、たんれんを続けてきたんだ」

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