第五話 突合(Collation work)

 食堂の鳩時計は午後七時三十五分を指し示していた。

 こんな重苦しい気分で、知鶴は食欲など感じなかったが、菓子オーナーの厚意を無駄にすることは、それ以上に気兼ねしてしまう。

 取りあえず、給仕された食事を頬張ってみる。豚のリエット、高原野菜とささみのマリネ、信州サーモンのミキュイ、信州牛ヒレ肉のロースト、そしてドルチェに自家農園で穫れたミックスベリーを使ったタルト。どれも絶品でとても美味だ。悔しいが、こんな極限の精神状況であっても知鶴の味覚は正常に働き、心では食欲がなくても脳が欲しているようだ。結局提供された食事のほぼすべてを平らげてしまった。今が食欲の秋だから、という理由では特にないと思う。人が死ぬという事件あるいは事故など発生しなければ、これほど幸せな時間はなかったことであろう。

 今ここにいる参加者は『ストロベリー』と『アヤネ』を除く十人。『アヤネ』は晩御飯なんて食べたくない、と言い放った。食事は絶品だが、その良さをすべて打ち消してマイナスにしてしまうほどの重苦しい雰囲気が流れていた。なぜなら食事している者全員が無言なのである。


 ひとまず、簡単に経過を振り返ってみる。

 午後六時半頃に、渓谷に掛けられたただ一つの吊り橋が壊され、転落死したと見られる『ストロベリー』の遺体を発見した。

 そのおよそ十五分後、玄関の床に散らばったイチゴを前に議論が重ねられ、ハンドルネームを公表しない方が良いという結論に至った。しかし、これでは不便すぎると言って、呼び名だけの簡易な自己紹介を行っているときは、もう午後七時を過ぎていたかもしれない。

 その後、警察にまだ連絡をしていないことに気付いた。急いで菓子オーナーが110番通報をします、と言ってオーナー室に入っていった。

 しかし、タイミングの非常に悪いことに、急にスコールのような大雨が降り始めていた。山の天気は変わりやすいとよく言われるが、ここまで急激な大雨が突然降るものか、と知鶴は思った。吊り橋が落とされた状態では警察は現場に入れないだけでなく、さらに山道からペンションへと導く唯一の道路が土砂崩れによって寸断されたらしく、ペンションに近付くことすらできないという。ゆえに捜査は行えないという返事が下されたそうだ。そして警察が到着するまでは極力現場保存に努めるように、とのお達しだった。

 ますます絶望の淵に立たされた一同は、いったんロビーに集まった。これからどうするべきなのか皆目見当もつかなかったが、まだ各々の荷物がロビーに置きっぱなしになっていることに気付く。取りあえず、皆、疑心暗鬼になっている中、唯一信頼できる自分の荷物だけは鍵のかかる場所に置いておきたい。そんな心理が働いたのかもしれない。ここでやっと部屋の割り振りを行うことになった。当初の予定では、夕方の食事会でハンドルネームの公開を行い、そのあと部屋が割り振られるはずだった。このペンションは部屋が十四部屋あるらしい。もし『タイベリー』と『ヒマラヤンブラックベリー』が参加できた場合でも、一人一部屋ずつで、ちょうど足りるのだ。

 と言っても、『アヤネ』だけは機嫌を損ねて、勝手に部屋に入っていってしまった。いちばん奥の部屋だ。


 このペンションの間取りを簡単に説明すると、まず玄関を抜けてロビーとフロントがある。無論ペンションであるので、ホテルのそれらに比べると小規模である。ロビーにはソファーとテーブルが真ん中に鎮座するが、それ以外にも木製スツールが何脚か置かれている。あと柱時計といった調度品も何点か揃えられているが、一段と目を引くのはれんで囲まれた暖炉だ。今は九月で避暑地と言ってもまだ寒くはないので火をべる機会はおそらくないが、冬はさぞかし寒いだろうから活躍することだろうか。ロビーを抜けるとオーナー室やプレイルームおよび食堂とキッチンがある。プレイルームには漫画や絵本、文庫本などの書籍、各種DVDとテレビ、小さなエアホッケー台、積み木や玩具などがある。通常、客は周辺の観光やイチゴ狩りなどを楽しむファミリーが多いというので、子供向けの仕様になっているとか。事前に見たホームページにはそう書いてあったような気がする。しかし玩具箱には玩具の他に、ハロウィンパーティー用なのか仮面らしきものもいくつか転がっていた。我々のようにオフ会で使う若者たちの置き土産かもしれない。食堂とキッチンを抜けると客室がある。客室を繋ぐ廊下の入口には半自動の引き戸がある。キッチン、食堂からの臭いが客室の方へと極力流れ込まないようにするためのものだろう。このペンションは平屋で階段はない。この辺りは土地がかなり安いのだろうか。またペンションには珍しく、客室それぞれに簡易なものではあるが浴室がある。初対面の若い男女の集まるオフ会に使うとなれば、女性の知鶴の立場からしてその方が安心する。

 また、このペンションのセールスポイントでもある、ベリー農園は客室の非常口を抜けた方が近い。客室の廊下はカタカナの『ヒ』の形になっている。キッチンおよび厨房と、客室とを隔てる扉を抜けると、まずL字状に折れる比較的長い廊下が走り、南向きになるように客室が並んでいるが、途中のT字の分岐点を右に折れると、非常口へと繋がる。


 残された者で部屋の割り振りを決めるとき、特にこれと言った意見は出なかったが、公平を期するためにくじ引きとした。と言っても、『アヤネ』はいちばん奥の部屋に入って、呼びかけても出て来なさそうだったので、彼女の部屋はもうそこで良いとした。『アヤネ』と『ストロベリー』を除く十名で、残りの十三部屋がそれぞれに割り当てられた。

 部屋が決まると一同は荷物を各々の部屋に置き、施錠をして、希望者は(と言っても、『アヤネ』を除く全員であったが)、食堂にて遅くなった夕食を頂いているのだ。


 食堂に会した『アヤネ』を除く参加者は、最初『ストロベリー』を待っているときに座っていたときと同じ椅子に座った。知鶴のすぐ左隣は『アヤネ』が座っており、前は『ストロベリー』が座るはずであっただろう席で、現在はともに空席である。自分だけ離れ小島にいるみたいで、どこか寂しい。この初対面で、さらに疑心暗鬼にならざるを得ない状況でも、それとどうちゃくするように心細くなってしまうのは滑稽なものである。

「『タチカワ』さん、でしたっけ? せっかくなので、こちらに席をずれたらどうかな?」

 長い沈黙を破るように、知鶴から見て左斜め前に座るスポーツ刈りの青年が、知鶴に呼びかけた。『ゴトウ』と名乗っていたか。これは、知鶴の気持ちを察しての発言なのか、ただ単に重い沈黙による気まずい空気を打破するための発言なのかは分からない。ただ、ちょっと気になったのは、彼の声が相変わらず震えていることだ。もともとこういう声なのか。でも、いちばん最初に聞いた彼の発声は、そんなことはなかったような気がする。

「ど、どうもありがとう」取りあえず知鶴は言われたように一つ席をずれることにした。先ほどは『アヤネ』が座っていた椅子だ。これで前方に『ゴトウ』、すぐ左隣には『ワカバヤシ』と名乗っていた女性となった。

「やはり、『アヤネ』さんが『ブラックベリー』さんなんですかね?」

 そう、発言したのは『ハックルベリー』こと訓覇であった。関西弁のイントネーションだ。

「そんな詮索、今は止めましょうよ」と、『ヒデタカ』が発言した。壮年の男性である。

「でも、『アヤネ』さんは、『どうせ、アタシのハンドルネームバレてるんでしょ?』って言いました。ということは、SNS上の会話で予想されるハンドルネームってことでしょう?」と、訓覇は言った。訓覇は唯一ハンドルネームを公表してしまったからか、仲間が欲しいのかも知れない。

 それは知鶴もそう気付いている。そしてたぶん皆、同じように思っていることであろう。

「でも、それを口に出して言うのはどうかな、とは思わなくて?」と、『メグ』がたしなめる。

「そ、そうですよ。いま、いちばんここにいて、この話題に敏感なのは『ラズベリー』さんですよ」と、同調するのは知鶴の真ん前にいる『ゴトウ』だ。やはり声は震え気味である。


 しかし、きっと、いや間違いなく皆この沈黙を利用して、誰が『何ベリー』なのか、脳内で照合作業が行われていただろう。知鶴もそうだ。

 SNS上で、明らかに男だと考えられるのは『ハックルベリー』、『ゴールデンベリー』、『グーズベリー』の三人だ。ちなみに『タイベリー』も男だと思われるが、もともとここには来ていないので今は考えない。男だと推察する根拠としては、会話における一人称である。『ハックルベリー』、『ゴールデンベリー』、『グーズベリー』は『僕』または『俺』を使用していたので、男で間違いなさそうだ。微妙なのは『私』だ。『私』は主に女性において多用されるが、年配の人や、若くてもフォーマルな場や目上の者に対しては、男性でも『私』を使用することがある。ただ、SNS上で仲良くなった者どうしの会話で男性が『私』を使用するのは、いささか違和感がある。若い男性が多いのなら尚更だ。一人称に『私』を使用していたのは、『ブルーベリー』、『シルバーベリー』、『ラズベリー』、『マルベリー』、『カウベリー』、そして『クランベリー』こと知鶴だ。『ヒマラヤンブラックベリー』も『私』で、女だと認識しているが、不参加なので考えない。なお、『ブラックベリー』のみは『アタシ』である。さいな相違だが、知鶴はよく記憶していた。『私』または『アタシ』を使用していたのは七人。これがすべて女性だとしたら、この時点で数が合わない。オフ会参加者で女性は六人だ。

 さらに判断が難しいのは『自分』だ。これは男女ともに使う可能性がある。『ストロベリー』と『ジューンベリー』は『自分』を一人称にしている。

 ここで、いちばんしっくりと落ち着くのは。『私』を使用している人の一人が『ヒデタカ』であること。彼は、明らかに皆より年上だ。『私』を使用しても、違和感がないように知鶴は思える。しかし、そう決めつけてはいけない。なぜなら、『ヒデタカ』は自己紹介のときに『僕』を使っていた。SNSの会話と話し言葉で、一人称を変える可能性はあるが、『ヒデタカ』を『ブルーベリー』、『シルバーベリー』、『ラズベリー』、『マルベリー』、および『カウベリー』の誰かだと断定することはできない。

 では、『ヒデタカ』がSNS上でも『僕』を使っていたのならどうだろう。その場合、正体がバレている『訓覇』と『ストロベリー』こと『枡谷』、および『ヒデタカ』を除く男性、つまり『ソウマ』、『クラタ』、『ゴトウ』のうちの最低でも一人は『私』を使用していたことになる。この中で『私』を使用しそうなのは、強いて言うなら、いちばん年長そうな『ゴトウ』か。『ソウマ』は見るからに若く、『私』を使いそうに見えないし、『クラタ』が『私』を使うのも想像できない。偏見かもしれないが。

 しかし、なぜ男が『私』を使用したのだろうか。紳士っぷりをアピールするためか。実はトランスジェンダーなのか。はたまた俗に言う『ネカマ(ネットおかま)』か。このうちトランスジェンダーの可能性は低いと思う。なぜなら『ソウマ』、『クラタ』、『ゴトウ』の三人とも、一度は『僕』、『俺』と発言している。もちろん、トランスジェンダーであることを隠している可能性もあるが、それならSNS上で『私』と称するのはおかしい。どうせ予定どおり自己紹介していれば、すぐバレるからだ。

 では、残り二つの仮説だろうか。紳士っぷりをアピールするための場合、残念だが『クラタ』のあの身だしなみの悪さは、紳士からはかいしている。かと言って、『ソウマ』と『ゴトウ』が、ずば抜けて紳士的かといえば、それも違う気がする。ではネカマか。ネカマとはネットおかまの略で、姿が見えず素性がわからないネットワーク社会の匿名性を利用して、男性が女性を装っている人やその行為を指すそうだ。それを敢えてする理由とは何だろうか。現段階では何も言えない。

 いろいろ推理を繰り広げても、確定づける判断材料が何もない以上、所詮憶測でしかない。そして、今いちばん関心のある『ラズベリー』が誰なのかは、予測すらできない。この中の誰である可能性もあるのだ。『ゴトウ』は先ほど、「いま、いちばんここにいて、この話題に敏感なのは『ラズベリー』さんですよ」と発言した。ということは、少なくとも『ゴトウ』ノットイコール『ラズベリー』かもしれない。


 その前に『クラタ』は本当に『クラタ』という名前なのだろうか。『クラタ』は少なくとも『クランベリー』ではない。なぜなら『クランベリー』が他ならぬ知鶴だからだ。そのことは、おそらくこの中で知鶴しか分かり得ない。だから、他の者は違和感なく『クラタ』イコール『クランベリー』と思っているかもしれない。いや、この状況では、逆に『クラタ』=『クランベリー』なんてそんな単純な話はあり得ない、ミスリードだ、と思っているだろうか。

 では、なぜ『クラタ』は自分のことを『クランベリー』に結びつけるようなミスリードをさせているのだろうか。そのことは、本物の『クランベリー』である知鶴自身がいちばん気になったが、それをただすとなると、自分が『クランベリー』であると名乗るようなものである。それに、あの『クラタ』は真実を語ってくれるかも疑わしい。この状況では何もかもが疑わしく思えて仕方がない。

 それにこの『クラタ』という男には、知鶴はあまり関わりたくないと思った。見た目で判断することはいけないことだと思っていても、どこか生理的に受け付けなかった。そして、この男にはどこか裏があるようにも見える。そうでなければ、自らを『クランベリー』に結びつけるような真似はしないはずだ。具体的にどういう裏かは分からない。ただ、彼は今回の事件に無関係ではないと言える。彼は何かを知っているに違いない。憶測に憶測を重ねると、知鶴にはますますそれが真実に思えてきた。

 今、『クラタ』に何かを問う勇気は知鶴にはない。だが、いずれ彼から情報を得てみようか。寡黙な彼が何か有益なインフォメーションを語ってくれるとは思えないが、彼が今回の事件のキーパーソンであることは間違いないように思えた。

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