序章 高高度上昇試験

第1話 X2 - # 3 心神・試作3号機

――2023年4月8日、10時05分、岐阜県、航空自衛隊岐阜基地――


 航空自衛隊二等空佐、宮本昭雄は、格納庫脇のパイロット控室でフライトの時を待っていた。

 宮本は航空自衛隊、飛行開発実験団に所属するテストパイロット。志願してこの仕事について6年目になる。この日の宮本は、担当するテスト機の限界高度試験を行う事になっていた。


 既に飛行手順は全て頭に叩き込んである。宮本は分厚い手袋をしたまま、覚束ない手つきで今朝の新聞の紙面をめくった。飛行開始の号令が掛かるまで、リラックスして平静な精神状態を保つこともテストパイロット仕事の一つである。

 はなから緊張していたら、万が一極限状態に突入した際に脳がオーバーヒートしてしまうからだ。

 リラックスのための手法は皆それぞれだが、宮本は日常生活となるべく近く振る舞うことを心がけている。とりわけ新聞を読むという行為は、宮本にとって欠かせないルーティーンだ。


 宮本が今、文字を追っている国際面の片隅には、妙に気になる記事があった。


【ワシントン=武田直人】4月6日、ニューヨークで開催されている国際通信学会の最中、マサチューセッツ工科大のエリン・マクファーレン教授が姿を消した。マクファーレン教授は通信工学の権威で、学会を締めくくる基調講演を予定していた。同分野ではこの3か月間に、カリフォルニア工科大のダレン・スー教授、コーネル大学のムハマド・グリーン教授が相次いで失踪しており、警察では事件事故の両面で捜査をしている。

 

 その新聞記事の内容は、およそ国際面には似つかわしくなく、本来ならば社会面に載るべき記事と言って良いだろう。だからこそそれが、妙に宮本の気を引いた。しかしそれ以上でも以下でもなかった。単にその日、政治や経済の分野で大きなニュースが無かったために、時事的な記事が空欄を埋める事になったのだろう。


 宮本が更に紙面をめくろうとしたとき、ドアをノックするコンコンという音が響いた。

「宮本二佐、ミッションの予定時刻です」

 若い飛行管理官が、控室に入るなり敬礼をした。

「よし行こう」

 宮本は重い体を引きはがすように椅子から立ち上がった。


 宮本がこの日、身に着けていたのは、いつものフライトスーツではなく、濃いオレンジ色の与圧スーツだ。それは着ぶくれした分厚いつなぎで、二層構造になった生地の中間部分には、与圧されたガスが入り、体を締め付ける仕組みになっている。


 戦闘機が高度80,000フィートまで駆け上がると、大気圧は0.09。海底100mに棲む深海魚が、突然海面に浮上した状態に等しい。

 戦闘機のコックピット内は、戦闘で破損した場合に備えて、旅客機のような十分な与圧は行わないため、与圧スーツで外側から体に圧力を掛けていないと、パイロットの血管や内臓が、内側から膨張して破裂してしまう危険性が有るのだ。


 与圧スーツの首の部分は金属製のリングになっており、そこには球形に成形された密閉型のヘルメットが装着されていた。首元のジョイントからは黒いホースが伸びていて、それは宮本が右手に提げているジュラルミン製のケースに繋がっている。アタッシュケースを二回りほど大きくしたそのケースからは、ヘルメット内に純粋酸素が供給されている。


 宮本がフライトをする前から、酸素を吸引しているのには理由が有った。気圧の低い高高度では、血液や骨に溶け込んでいる窒素が気化してしまい、海底に潜るダイバーが罹る、減圧症と同じ症状が出る。それを避けるためには、予め高濃度の酸素を体に取り込んで、窒素を追い出しておく必要があるのだ。


 もしも関係者以外の者が宮本の姿を見れば、まず間違いなく全員が、宮本をパイロットではなく、宇宙飛行士だと言うだろう。それほどの重装備だった。


 宮本はパイロット控室を出て、格納庫の大きな開口部を通りエプロンに出た。そこには格納庫から引き出された1機の戦闘機があった。

 機のコードネームは、X2-#3。

 次期支援戦闘機F3・心神しんしんの試作機3号機である。

 機体の挙動を外部から目視しやすいように、その機は白地のベースに鮮やかな赤と青でカラーリングをされていた。


 宮本の目の前では、2人の整備士が飛行前の最終点検を行っていた。両名ともいつも宮本の機を担当している顔なじみだ。

「今日は世界レコードに挑戦ですか?」

 丹沢と言う、年かさの機付長が宮本に声を掛けた。機付長とはその機の整備責任者の事を指す。

「馬鹿、未完成の機体でそんな無茶ができるもんか。しかし、心神の自己ベストは更新させるぞ」

「どれくらいまで行けそうですか?」

「少なくとも100,000フィート。条件さえ良かったら110,000を狙ってみる」

「ヒュー」

 と、丹沢は短く息を吐いた。


 宮本はヘルメットの中でニヤリと笑った。これまでにも宮本は、高度80,000フィートを越える高高度上昇テストは何度かやっており、恐らくは、100,000フィート辺りまではいけそうな感触を掴んでいた。


「公式にはMig25フォクスバットの123,500フィートが最高記録ですよね。110,000まで行けたらもう一息じゃないですか」

「そうだな。このままエンジンと機体の熟成が順調に進めば、近い内に越えられそうな気もするが、多分もう無理だろう」

「どうしてですか?」

「今の心神は裸の状態のテスト機だ。これからは実用化に向けて、バルカン砲やハードポイントが追加され、重量は重くなる一方だろう。多分、運動性能は今がピークだ」

「そうかもしれませんね。それじゃ、今日が最後のトライアルになるわけですね?」

「恐らく、そうなるだろうな」

 宮本はほんの一瞬だけ残念そうな顔をし、すぐに冷静な表情に戻った。


 テストパイロットは冒険者ではない。それが宮本の持論だ。危険を冒して名誉を得るのが目的であってはならない。機体の安全域を探り当てる、職人でなければならないのだ。それでも時々、理性で押し殺している持ち前の冒険者の心が、顔を出してしまう。

 長い付き合いの丹沢は、宮本の心情をよく理解しているので、宮本の表情の変化に気付いていても、それ以上の事は言わない。阿吽あうんの呼吸だ。


 宮本は機首に回り込んで、そこに小さく描かれたノーズアートに手を当てた。それは宮本が、心神のフライト前に必ず行う儀式だった。

 航空自衛隊ではノーズアートを描く事は禁じられているが、心神のテスト機だけには黙認されていた。命懸けで飛ぶテストパイロットの士気を高めるためだ。


 宮本の機の機首には、『Peachy Love』の文字と共に、愛嬌のあるブルテリア犬のシルエットが描かれていた。それは60年代の伝説のテストパイロットで、後に米空軍の少将にまで上り詰めたチャック・イェーガー氏が、いつもノーズコーンに記していた『GLAMOROUS GLENIS』(魅力的なグレニス)に倣ったものだ。グレニスはイェーガー氏の夫人の名だ。

 イェーガー氏と違うのは、『Peachy Love』のピーチ―が宮本の妻の名ではなく、愛犬の名だという事だ。妻の陽子よりもピーチ―が可愛いからと、宮本が描かせたものだった。


 いつもなら飛行前の自機の最終点検は、パイロット自らが行うことになっているが、さすがに与圧スーツとヘルメットを身に着けた状態でそれは無理だ。

 宮本はざっと機の周囲に視線を投げただけで、タラップを上がり始めた。それを待っていたかのように、日よけのためキャノピーに掛けられたカバーが、さっと外された。

 宮本はボタンを押してキャノピーを開けると、覚束ない足取りで、右足からコックピットに乗り込んだ。普段なら何でもない動作なのだが、与圧スーツを着ていると、一つ一つの行動に倍の時間が掛かる。すぐにタラップには丹沢が上がって来て、宮本の動作を補助した。


 ようやくシートに座った宮本は、ほっとする間もなく離陸の準備を始めた。まずは右手を伸ばして、主電源を入れる――

 インジケーターのLEDランプが点灯すると共に、すぐさまコクピットの左右一杯に広がった大型パネルに灯が入り、テストパターンが瞬き始めた。

 宮本のヘルメットには、その瞬きが次々と映っては消えた。


 宮本は眼前のパネルをじっと見つめながら、機体がスタンバイ状態になるのを待った。


 

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