ソナドラ番外編

不知火昴斗

第一話:デイドリィム・メモリィズ

 あれは、僕がまだほんの小さな子供だった頃の出来事だ。

 そこで一体何が起こったのか、正確にわかる者は誰もいない。二十年近くが経った今となっては、細かな記憶は失われ、僕でさえ時折、もしかしたらただの夢だったのではないかとも思ってしまうほどだ

 日毎に何もかもが曖昧になってゆく中で、だけど今でも自信を持って言えることがひとつだけある。

 あのとき、森の中で僕へと差し伸べられた小さな手――その温もりは、間違いなく本物だったと。



「エリック、あまり遠くへ行っては駄目よ」

 夏の日射しに生い茂る草をかき分けて、そこに居る昆虫や小動物の痕跡を見付けてはしゃぐ僕に、母が気を揉んで何度も声をかける。

 僕はその度に立ち上がっては、楽しげに歓談を続ける大人達に向かって手を振ってみせた。

 短い夏の休暇を楽しむために、家族揃ってヨークシャーにある別荘へと遊びに行った時のことだ。

 あまりにも好天が続くものだから、一度皆でピクニックでもしようということになり、幼い僕は両親に連れられて、彼等の友人たちと共に森にほど近い草原へと来ていた。

 僕には他に兄弟姉妹がおらず、年の近いいとこも居なかったため、僕は両親や周辺の大人達の愛情を一身に受けていた。

 おかげで自分が皆に愛されているのだという自覚はかなり幼い頃からあったし、それ以上に僕も彼らのことが好きだった。同時に、僕が何かをするたびにオロオロと右往左往する大人達の反応を見るのも大好きだった。

 そんなわけで、その日も僕は、次第に談笑に熱のこもる彼らの輪からそっと抜け出すと、ヒースの草原の背後に控えている森へと近付いていった。

 森といってもそれほど大きなものではない。ただし、ここは古くから手付かずのままの土地でもあったため、草原と面しているところから少しでも奥へと入ると、木々が鬱蒼うっそうと生い茂る神秘的な場所でもあった。

 次第に小さくなってゆく母たちの笑い声が、風に遮られ、途切れがちになる。対して、目の前に広がる茂みは何者をも寄せつけない森からの警告に見えて、僕は一瞬そこで立ちすくんでしまった。けれど、薄暗い木立の間から漂う未知なる空間の雰囲気に、抗い難い誘惑を感じたのも事実だった。

 僕は「少しだけ。ほんの少しだけなら大丈夫だから」と自分に言い聞かせながら、結界めいた茂みを越えて、森へと足を踏み入れた。


 森の中は陽焼けした草原とは違い、湿り気を含んだ風が緩やかに流れていて、少し肌寒かった。

 草原と違って静寂である分、普段は聞き逃してしまうような微かな音も拾えたのだろう。風に揺れてざわめく梢の奥から、鳥のさえずりや羽ばたき、その他の小動物のたてる音などが絶えず聞こえ、僕の耳をいたく刺激する。

 それらの音は僕の不安を瞬く間にかき消し、代わりに好奇心という名の厄介な小悪魔を呼び起こしてくれた。

 ロンドンの公園も木は多いけれど、やはりこの森とは全く比べものにならない。初めて見る自然の荒々しい造形、聞いたことのない音や感じたことのない気配の数々――あっさりと誘惑に屈した僕は、後ろめたい気持ちを抑える呪文のように「少しだけだから」と呟きながら、どんどん森の奥へと入って行った。


 梢を軽々と渡る鳥を追い、どのくらい奥まで分け入ったのか。突然、柔らかな落ち葉に被われた地面の感触が消えた。

 次の瞬間、僕がいたのは冷たい水の中だった。上にばかり気を取られていた僕は、生い茂る下草に隠れていた崖に気付かずに足を踏み外し、森を流れる小川に落ちてしまったのだ。

 幸いなことに、崖はさほど高いものではなかった。今思い返してみても、おそらく六フィートにも満たなかっただろう。しかし、まだほんの小さな子供だった僕にとってみれば、それは絶望的な高さを誇る城壁のようなものだった。

 周囲の岩に頭を打ちつけなかっただけでも、奇蹟だったのかもしれない。小川の手前に生えていた茂みがクッションになったのもあって、大した怪我も負わずに済んだのだけれども、驚いた僕はその場に座り込んで泣き出してしまった。

 だけど、いくら僕が大声で泣き叫んでも誰も助けには来てくれなかった。当然だ。草原にいる母たちの声が僕に聞こえないのに、僕の声が向こうに届くわけがないのだから。

 好天が続いていたため、小川の水もそれほど深くはなかったので――せいぜい座り込んだ子供の腰が浸かる程度のものだ――岸へ上がるのは困難なことではなかったが、しかし、崖だけはどう頑張っても登れるものではなかった。足場になりそうな岩には、どれも苔がびっしりと生えていて、塗れた革靴ではとても滑り易く危険だった。

 僕は泣きながら崖の傾斜が緩やかな場所を探し、暫くの間水辺をさまよった。でも、そうして苦労しながらようやく辿り着いた先は、当然のことながら僕が落ちた所とは全く別の場所だった。

 気が動転していたのもあって、もはや自分がどの方角からやって来たなんてわからない。でも、だからといって、いつまでもここにいるわけにもいかない。

 ずぶ濡れの子鼠よろしく、僕は半ベソで震えながら歩き出した。しかし、慣れない森を歩くのは、小川から這い上がる以上に困難なことだった。

  濡れた靴は苔むした地表で滑り、草木の根や蔦は、こぞって僕の足を取ろうとする。ほんの十フィート進むだけでも一体何度転んだことか。おかげで、つい先まで浮かれていた気分は、ぺしゃんこに萎んでしまった。母の忠告をきかなかった自分が悪いとわかっていたから、後悔もひとしおだ。

 寒いし、お腹は減るし、擦り剥いた手足は痛いし、転んだ拍子に口の中まで泥だらけになって気持ち悪いし、何よりものすごく心細くてたまらない。

 僕は泣き出したいのを我慢して懸命に歩き続けた。そうしていれば、いつかは森から出られるはずだと考えていたからだ。

 だけど、それは大きな間違いだった。

 幼い頭でろくに方向も考えずに歩くものだから、いくら歩いても森は一向に途切れる様子がない。それどころか、進めば進むほど森は深く、暗くなってゆく。おまけに、いつの間にか周囲にはうっすらと白い霧が出始めていた。

 それまで友好的だと思っていた森の気配が、手の平を返したように急に冷たくなるのを感じて、とうとう耐えきれなくなった僕は、ふかふかの落ち葉の上に座り込んでしまった。そこに何があるのかをよく確かめもせずに。


 不幸というものは往々にして二度三度と重なるものだ。それ(傍点)が何なのかを僕が理解した時の驚愕といったらもう、言葉ではとても言い表せないほどのものだった。少なくとも、先に小川に落ちた時以上の衝撃だったのは間違いない。

 僕を取り囲んでいたのは、目にも鮮やかな茸の群れ――そう、僕はよりにもよって、フェアリーリングの真ん中に足を踏み入れてしまったのだ。

「もしリングを見付けても、それを決してまたいではいけないよ。妖精の魔法に囚われてしまうからね」

 いつだったかに叔父から聞いた話が頭の中を駆け巡る。

 叔父は昔から妖精や不思議な世界について詳しいひとだった。とても素敵なお伽話もたくさん知っていたから、僕は彼が家に遊びに来てくれた日には、いつも夜遅くまでお話をせがんだものだった。

 だから、この茸の輪がフェアリーリングだということはすぐにわかった。そして、リングに足を踏み入れた者は、妖精の国に連れ去られてしまうということも知っていた。

 薄暗い森の中、歩き疲れた僕に立ち上がる気力など残っていなかった。家には二度と帰れないのだと思うと、ますます悲しくなる。

 みるみる涙が溢れて、いまにも零れ落ちそうになった、その時だった。

 突然、ガサガサという大きな音が近くの茂みから聞こえた。かと思った次の瞬間、ひとりの少女が僕の目の前へと飛び出してきた。

 僕よりもひと回りくらい年上だったろうか。白磁のような透き通る肌に、銀糸のような長い髪。大きな瞳は美しく、瑞々みずみずしい森と同じ色をしていた。

 あまりにも突然の出来事だったせいか、僕は完全に泣き出すタイミングを失った。情けない顔でぽかんと口を開けたまま、目の前の少女をただ見上げるしかない。

 少女は、泥だらけでフェアリーリングの真ん中に座り込んでいる僕を見て、少し困ったような表情を浮かべた。が、すぐに微笑むと、彼女はその白い手を僕に差し伸べ、こう言った。

「大丈夫よ。心配ないわ」

 小さいけれど、鈴のように綺麗な声だった。

 不覚にも、僕は彼女に見蕩れてしまっていたらしい。気付けば、僕は彼女に手をひかれながら森の中を歩いていた。

 一瞬、妖精の国へと連れ去られてしまうのかと思ったけれど、何故か恐怖は感じなかった。彼女が大丈夫だと言ってくれたのもある。でもそれ以上に僕を不安から遠ざけてくれたのは、彼女の瞳に浮かぶ光だった。薄暗い森の中にあって、それは何だかとても優しく、暖かなものに思えた。


 僕があれほど迷いに迷った森の中を、彼女は何の不自由も感じさせぬ足取りでどんどん歩いていった。

 僕が寒いと言えば、彼女はその細い肩にかけていたショールをとり、汚れるのも構わず僕にかぶせてくれた。

 心細くなった時には、その綺麗な声で歌を歌ってもくれた。聞いたことのない言葉と旋律はとても不思議な感じがしたけれど、彼女の歌は僕の心から不安を綺麗さっぱり取り除いてくれた。

 夏至も近い頃だったせいか、陽は傾いても沈むことはなく、薄暮の森はまるで夢の中を彷徨っているかのようだった。

 そのうち、疲労からくる眠気に襲われた僕が半ばぼんやりとしはじめた頃、薄暗かった森には、ある変化が訪れていた。

 うっすらとかかる白い霧の向こうから、がやがやというお祭りのような騒ぎが僕達の耳に届く。声は、僕と少女が進むにつれて徐々に大きくなり、やがて何を言っているのかがはっきりとわかるようになった。

 興奮した様子でいる何頭もの犬の鳴き声と、それをなだめようとする男達の声。その合間から、聞き慣れた声が僕の名前を呼んでいる。それは、紛れもなく僕の父のものだった。僕と少女は、いつの間にか村へと繋がる小径へと辿り着いていたのだった。

 それまで時が止まっていたかのような森の中にあって、眠気に支配されつつあった僕の意識はいっぺんに覚醒した。

「もう大丈夫よ」

 少女の声に弾かれるように、声がする方向へと走り出す。

 茂みをかきわけて飛び出したところは、森と草原の境目のあたりだった。

 そこでは大勢の大人たちが、棒や灯やいろんなものを各々手にして色めきたっていた。僕が居なくなったことに気付いた僕の両親が、村人に助けを求めたのだろう。

 森から突然飛び出してきた僕に、その場にいた誰もが驚いた。狐狩りさながらに興奮する犬の群れを抑えようと躍起になっている男達をかきわけて、父が僕に向かって駆け寄り――


 そこから先のことは、残念ながらよく憶えていない。父に力一杯抱き締められたところで、僕の記憶は途切れているからだ。

 おそらく、森を抜けた安堵と一晩中歩き回った疲労とで、緊張の糸が途切れてしまったのだろう。次に僕が覚えているのは、見慣れた別荘の自分の部屋と、僕のベッドを取り囲む両親と付き添いのメイド達、そして連絡を受けてロンドンから急いで駆け付けたという叔父の心配そうな顔だった。

 憮然としながらも喜び半分でどういう表情をすれば良いのかわからずにいる父と、とにかく僕が無事でよかったと涙を流して喜ぶ母をみているうちに、僕はとても大切なことを忘れていたことに気付き、ベッドから飛び起きた。

 森から出られるとわかったとき、僕は嬉しさのあまり、少女に礼も言わずに走り出してしまったのだ。おまけに、森の中で彼女が僕にかけてくれた肩掛けも無くしていた。茂みから出るときに、枝にでも引っかけて落としてしまったのだろうか。

 僕は、自分を取り囲む大人に白い服の少女がどこにいるかをたずねた。けれど両親はもちろん、メイド達も彼女のことを知らなかった。

 僕が森で少女に出会ったことを話すと、父は「村の住人なら知っているかもしれない」と部屋を出て行った。だけど、彼はすぐに首をひねりながら戻ってきた。あの場にいた誰もが「そんな子は見かけなかった」と答えたからだ。彼らは、森に続く小径から僕がひとりで飛び出してきた様子しか見ていなかったのだ。

 不審に思った父は、念のため、森の奥に住んでいる者が居るかということを村人全員にたずねてみた。それでもやはり答えは同じだった。森の奥には誰も住んではおらず、近隣の村にも、僕が言うような少女を知る者は一人も居ないというのだ。

 それを聞かされた僕は居ても立ってもいられなくなった。そしてまた森へ行くなどと言い出し、今度こそこっぴどく怒られた挙げ句、ロンドンに戻る日まで外出禁止を言い渡されてしまったのだった。

 それからの数日間は、どんなにつまらなかったことか。

 いつも走り回る僕に手を焼いていたメイド達は「大人しくなって丁度良い」なんて笑っていたようだけれど、焼きたてのスコーンも大好きなレモンパイも味気なくて、僕はずっと部屋に閉じこもり、窓に張り付いて森を眺めるしかなかった。

「大方、夢でもみていたんだろう」

 父はそう言って、それ以上まともに取り合おうとはしてくれなかったし、母は母で、まるで何かの禁忌にでも触れるかのように狼狽うろたえ、僕が森の話をしようとするのをやめてくれと懇願した。

 そんな具合だったから、次第に僕は、彼らの前では森で出会った少女について話すことをやめてしまった――ただひとりを除いては。

 僕の話に真剣に耳を傾けてくれたのは、叔父だけだった。

 すっかり塞ぎ込んでしまった僕を気遣ってか、叔父は毎日僕の側についていてくれた。

 彼は、いつも僕にお伽話を語り聞かせるときのように、のんびりとした口調でこう言った。

「誰も見たことも聞いたこともないと言うけれど、お前はその子と出会ったと言う。じゃぁ、その子は確かにそこに存在していたんだろう。世の中にはお前のような子供や、純粋な目と心を持つ者だけが出会えるという、不思議なモノがいるというからね」

 そして彼はおもむろに僕の顔を覗き込むと、笑顔で片目を瞑ってみせたのだった。

「だからお前も、お前の見たものを怖れずに信じればいいさ。そうだろう、エリック?」



 降り注ぐ木漏れ日。小川のせせらぎ。踏みしだく落ち葉の音。苔の匂い。輪を作る茸の群れ――

 伝承は云う。海の彼方、湖の底、そして森の奥には、今でも古き精霊たちがむ国があるのだと。そして、彼らの国と人が棲む世界の間では、年に数回だけ道が開く日があるのだと――そう、僕がヨークシャーの森の奥深くで、白い服の少女と出会った六月の夏至の前夜にも。

 父の「夢でもみていたんだろう」という言葉のように、次第に曖昧になりつつある記憶の中で、だけど今でもはっきりと思い出せることがある。

 だから僕は、たとえ他の誰もが信じてくれなかったとしても、あのとき出合った少女の存在を――僕の手を引いて妖精の輪から連れ出してくれたその温もりを、心の底から信じている。


[Fin.]

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