第5話 三びきのやぎのがらがらどん


 ノルウェーの民話である。

 この物語、冒頭からツッコミを入れたくなる読者は多いだろう。

 この題名の『がらがらどん』とは、山羊の固有名称なのだが、なんと登場する三頭とも同じ名前なのだ。

 そもそも、固有名称は個体識別のために設定されるべきものだ。

 もちろん、その固有名称が偶然、同じになる可能性もなくはない。最近の幼稚園や小学校に行けば、同じ学年にゆうき君やしょう君、ゆいちゃんが何人もいたりする。昔であれば、太郎君や一郎君だらけであっただろう。

 だが、それはそれぞれの親が命名するにあたり、互いに相談するわけではないのだから仕方がない。たとえば、制度で「今年のゆうき君は全国で千人まで」とか決められ、早い者勝ちもしくは、抽選でゆうき君になれるかどうか決定する、なんてことになっていれば話は別だが、そうではないのだから。

 だが、面倒くさいからといって、自分の子供を三人とも同じ名前にしたり、わざわざ家族や親戚、友人と同じ名前を選んだりする親も少ないだろう。

 この話は「民話」なのである。

 登場するキャラクターをすべて同じ名前にして、混乱を招く必要が、どこにあるというのだろうか? 仮にこの物語のモチーフとなった本当の山羊たちが、もともとは別の飼い主に飼われていて、偶然、全員同じ名前だったとしても、民話として語り継ぐときに、個体識別のために変えたらいいのではないか。いや、変えるべきだ。

 これでは、記号としての固有名称の意味をなしていない。

 それなら別に「がらがらどん」でなくてもいいし、「がらがらどん」であると紹介する必要もない。あるところに大中小の山羊がいました。で、充分なはずだ。


 次に登場するのは「トロル」である。

 橋のたもとに住む不気味な怪物、トロルとは北欧に伝わる妖怪の一種であり、姿形は一定しない。巨大、とされる伝説もあれば、比較的小さい、としている場合もある。

 共通して伝わっているのは、怪力の巨人である、といったところであろうか。また、余り知能が高くなく、凶暴で悪意に満ちているとされる事も多いようだ。

 このトロルが橋のたもとに住んでいて、通る三匹の山羊に声を掛けていくのだ。

 まず、「うるさい」と文句を言う。

 これは至極もっともな意見であるようだが、ちょっと待っていただきたい。橋は渡ってなんぼのものだ。そして吊り橋なら、渡れば音もしよう。

 そもそも、橋のたもとに住んでいるのはトロルの勝手である。音がうるさいのが嫌なら、どこか違う場所で暮らせばいいのである。それを「うるさい」と言うのは難癖以外の何ものでもあるまい。

 しかし肉食であるトロルが、獲物が通りかかりやすい狩り場として、橋を選んだのであれば、それはまあ、仕方がないかとも思える。つまり、やっと通りがかった獲物に対しての言葉であると考えれば、これはまあ許せる展開と言えなくもないのだ。

 だが、それでも違和感はぬぐえない。考えてみていただきたい。獲物に「うるさい」と言い出す捕食者がどこにいるであろうか?

 しかもなんと、一番目の小さい山羊に向かってトロルはわざわざ「お前を食べてやる」などと話しかけるのだ。

 これは正直、普通に考えればあり得ない状況だ。

 ライオンがシマウマに咆哮して襲いかかるなんて事はない。そっと近づき、無言のままにダッシュして喉笛に食いつき、引き倒す。

 例外があるとすれば、イルカやコウモリなどの超音波を使う動物である。

 彼等は超音波を発し、その反響で獲物の位置を知る。ゆえに、獲物にまず超音波で声を掛け、そして襲いかかるのだ、とも言える。

 だが、蛾の仲間には、コウモリの超音波を受けると羽ばたきをやめて落下し、コウモリの攻撃を逃れるという強者がいる。また、イルカの中には強力な指向性の超音波を放って、獲物を麻痺させ、その間に捕食するものもいるらしい。

 かように、捕食者が被捕食者に声を掛ける場合があるとしても、それには意味があり、さらに被捕食者の方もそれを逆手にとって防御したりしているわけだ。

 それなのに、この場合の声かけには何の意味も感じられない。

 トロルも声など掛けているヒマがあったら、さっさと捕まえて食べてしまうべきなのだ。

 さすがに、余り知能が高くない、とされている妖怪だけの事はあると、この時点では私も思った。だが、さらに読み進むうちに、この『声かけ』に秘められた恐るべき陰謀が見えてくるのだ。

 今しばらくご辛抱して、おつきあい願いたい。


 次に理解できない彼の行動は、最初の山羊が言う、次に来るヤツの方が大きい、との言葉を信じて、そいつを逃がしてしまうことだ。

 まず、そんな言葉を信じる方がどうかしている。

 命の掛かった場面である。ウソでも何でも言って逃げようとしている、と考える方が自然だ。仮に本当だとしても、べつにそいつを逃がす理由にはならないだろう。

 何故なら、次の山羊がより大きかろうとも、うまく捕食できるとは限らないからだ。

 捕食するならば、チャンスを逃がしてはならない。これは野生で生きるものの鉄則である。もし食いきれないと思われるなら、とりあえず捕獲だけでもしておくべき場面だ。私なら、そうする。

 それを逃がしてしまう、というのは知能が高いとか低いとか以前の問題だろう。

 ほとんどすべての捕食者が、野生下ではチャンスを逃さない。まずは目の前にある獲物を捕食するのは当然なのだ。

 貴様、本気で捕食しようと思っているのか、と怒鳴りたくなる。


 もう一つ憤りを感じるのは、この小さい山羊の価値観である。

 自分はうまく逃げられたわけだが、トロルのもとにやって来る、仲間二匹はどうなるのか? トロルは山羊を食べる、と言っている。つまり、その場所に来る仲間の命を差し出したわけである。

 後に来る仲間の強さを信じてではないか、と良い方に捉える向きもあるかも知れない。

 だが、この時点で、大きな山羊がトロルに勝つかどうかは不明だ。また、命を掛けての戦闘となれば、勝利したとしても無傷とは言えない可能性も高い。

 つまりはそれを承知の上で、仲間を売って自分だけが助かったわけだ。自分さえ助かればいい、そう思っているとしか思えない。

 

 この、意味不明の判断をするトロルは、次の中くらいの山羊までも逃がしてしまう。

 次の山羊もまた、自分さえ良ければいい、と思っているらしく、その次の大きな山羊を食え、と勧めて逃げるのだ。

 この中くらいの山羊で手を打っておけば、トロルは少なくとも満腹できただろうと思われるのだが、彼はそうしない。しかも、今度も積極的に捕食しようとしていない。

 ここでようやく我々は、彼が「食べる」ことよりもむしろ「手応えのある敵と戦う」事を優先しているのではないか、と気付くのである。


 そして、トロルは三番目の大きな山羊に倒されてしまうわけだが、これもまたよく分からないのは、何故、大きな山羊は「もう一匹もっと大きな山羊が来ますよ」と、ウソをつかなかったか、ということである。

 三番目の山羊も他の二匹と同じ価値観、すなわち「自分さえ良ければいい」を持っているとするなら、そのように答えるのが自然だろう。

 また、そうしておけば、捕食が主目的ではないトロルは、次の更に強力な好敵手を期待して、「じゃあ行け」と言って通してくれたに違いないし、自分は無事に山へ行けたわけだ。これが、危険を冒さず、誰も傷つかない、もっとも平和的解決のはずだ。

 そうしなかった、ということは、大きな山羊は最初から戦うことが目的だったとしか思えない。

 もっと言うならば、彼等の順番もおかしい。

 どうせ大きな山羊が、トロルと戦うつもりだったのなら、彼が最初に行けばいいだけのことだ。むろん、勝敗は戦ってみなくては分からないが、仮に大きな山羊が敗れたとしても、トロルも無傷では済むまい。そうなれば、次に中くらいの山羊が行って、とどめを刺せばいいだけだ。

 もし、それも難しそうなら、命の危険を冒してまで山に登るのを諦めれば、結局中小二頭の山羊は、無傷でいられるわけだ。

 それが分かっていながら、最初に小さい山羊を行かせた彼等の順番は、明らかに間違っているのである。


 それにしても、仲間を売って自分だけが助かる、というこの残念な価値観は、ノルウェーという国では一般的なのであろうか? たとえ現実にはそういう行動を取らざるを得ない場面もあるとしても、それを絵本として与えることは、教育上、よろしくないとは考えないのであろうか?

 たしかに昨今の日本人もまた、その多くが、自分さえ良ければいい、という価値観に偏ってしまっている事は否めない。


 だがここで、私は恐ろしい推測に行き着いてしまった。


 今の日本が、いや日本人がこうなってしまった裏には、まさかとは思うが、この本の存在があるのではないだろうか?

 この本はロングセラーである。幼少時に、この本を読まれた方も非常に多いはずだ。

 日本での出版は一九六五年であるから、日本人の魂が失われていったとされる、高度経済成長期に奇妙に符合する。

 ノルウェーは、数十年も前からこのような絵本を日本に送り込み、幼少期の日本人にこのような狂った価値観を教え込むことで、ついには日本人全体を自分勝手な民族へと、洗脳することに成功したのではないだろうか。


 そう考えると、愚かを通り越して意味不明なトロルの言動にも、恐るべき裏の意味があることに気づく。

 不意打ちやだまし討ちを潔しとせず、今から戦おうというもの同士がわざわざ「名乗り」をあげて戦うのは、まさしく日本の文化である。

 「捕食しようとしているものに声を掛ける」この一見、意味不明のトロルの行動と、日本が戦国時代以前にやっていた上記の「名乗り」に、不思議な符合を感じるのは、私だけではないだろう。

 しかも、弱い敵ではなく、より強い敵と正々堂々戦いたがるのは、ジャパニメーションの主人公の特徴的な性格でもある。

 橋の下に住み、目玉をぎょろりとさせた不気味なトロル。

 北欧のスマートで色白で金髪な美しい白人種から見れば、東洋のサルもどきである日本人なぞ、このトロルのようにしか見えていないのではないか。

 つまり、このトロルは日本をカリカチュアライズした姿であるに違いないのだ。


 北欧では賢い動物の象徴である山羊は、むろんノルウェーを表す。日本の経済攻撃を何回かやり過ごし、最後に強大な軍事国家となったノルウェー=山羊 が、軍備を怠り、旧態依然としているトロル=日本 に鉄槌を下す。


 そうした図式を見事に描きあげたのが、この作品ではないのだろうか?

 民話などと書かれているが、それも信用ならない。じつは、このような物語はノルウェーには存在せず、日本人洗脳用に作り出されたウソ民話であるに違いない。

 そして、ノルウェーにはもっとちゃんとした童話があり、ノルウェーの子供達は豊かな情操教育を施され、素晴らしい人格に育てられているのではないか?

 国家的策謀で作り出された子供向けウソ絵本に、相手の国家を危うくするような価値観を潜ませ、日本の教育現場に送り込むことで内部からの崩壊を狙う。

 恐るべき陰謀である。

 日本にとっての仮想敵は、北朝鮮でもロシアでも中国でもない。もしかするとノルウェーなのかも知れない。

 この事実に気づいてしまった私は、もしかするとノルウェーの諜報機関に消されるかも知れない。もし、突然私が音信不通になり、この感想文がネット上から削除されていたりしたら、そう思っていただきたい。


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