七月 八日-夜中

 冷たい……

 頬を冷やりとした風が撫でている。肌に刺激があるものではない、とても心地よい冷たさだ。乾いた大地を覆うように、冷気は私の体を満たしていく。


「あ……ん、――」


 目を開けると、上弦の三日月が青白い光を放っていた。

 綺麗な月だ、と寝ぼけた頭で考える。

 ふと、物音が聞こえた。その方に顔を向けると、一人の女性がいた。折り畳みの椅子に座った、作業服を着た女性。褐色の肌で、髪は黒い。そしてどこかで見たことがあった。


「ミーナ、先生……?」


 小さな声で自分に対してそう呟いた。眠っていたようにも見えたミーナ先生は、それでも聞こえたのか、顔を上げてこちらに笑いかけた。思わず咄嗟に作り笑顔で返す。それくらいの余裕は、既にあった。

 体を起こし、目を落とす。制服ではなく、黒のヒートテック、下はちょっとぶかぶかのカーゴパンツを身に着けていた。


「ごめんね。今着れるものがそれしかなかったの」


 申し訳なさそうな笑顔で、ミーナ先生はそう言った。


「いえ、着替えを貸していただいただけでも、ありがたいです。ところで、私は……?」


 私はグルハウチェ・アレクサンドロフに殺されて、償いの夢の中で惣介に殺されて今度こそ死んだはずだった。

 だが、今ここにいる。あの時の夢の感覚ではなく、確かにはっきりとこの世に自分の体が存在しているのだと実感できる。


「あなたは、彼女の剣に刺された時点ではまだ生きていたの。でも貴方の見た夢の中で、あなたは尭土井君の虚像に殺された。あなた自身がそう望んだからね。でも、それじゃだめなの。もったいないでしょう? 命が」


 ミーナ先生の言っていることが、理屈的には理解できるものの、どういう意図があっての発言なのかが理解できない。まるで、私が死にそうだったから助けた訳ではないような言い方なのだ。


「気になることはもっとありますが、まず先に、虚像に殺されたとはどういうことですか?」


 そう、確かにあの夢の中で、最後に私は惣介に殺された。もう死んでしまいたくて。こんなに汚れた自分はもう生きている価値がないとして、殺されることを望んだ。だが、あれは死んだ後のことのはずだ。


「薄々は、予測できるでしょう? この街、『霧雨丘』の全てを観測しているのなら。この街に『堕天使』が降臨したことも、その『堕天使』が通常よりも高濃度の存在力を以て、直接の現界を成功させてしまったことも」


 ――堕天使。

 旧約聖書等の神話的記述の中で登場する天使の堕ちた姿。

 神の作った機械であるはずの天使が、ある日生まれた背反の意思を罰せられ地の底に落とされ悪魔となった存在。

 だがこの場合における『堕天使』とは、世界そのものを『神』とした場合においての『天使』である。


 いわゆる『神』に例えられる、私達の住む世界を管理する機構。そのプログラムが、世界を効率的に管理する為に生み出した『天使』と呼ばれるプログラム。極々希にだが、このプログラムにも『背反の意思』たるバグが発生し、バグ消去の為に『堕天』することがある。本来それだけならバグは『堕天』つまり『消去』されるだけで終わる。だが、そのバグが『人の意思』によるものなら話は別だ。その『意思』が強ければ強いほどに世界に異常を齎し、正常に稼働する『世界』の因果を歪ませる。


 というのが、洗礼教会に所属する研究者が観測したと言われている現象である。

 私自身見たことも体験したこともないが、そのデータと照らし合わせた結果、『霧雨丘』に堕天使が降臨したことが確定した。

 『霧雨丘』ができたのは何百年も前だそうだが、始まって以来の珍事だと父が言っていた。もっとも、『珍事』とは言え対処を間違えば取り返しのつかないことになるらしいが。


 しかし、ここまで考えて、私の夢と堕天使と一体どんな関係があるというのだろうか。

 思案しながら黙っていると、見透かしたような笑顔をしていたミーナ先生の顔がどんどん焦りを帯びてきた。よく見るとちょっと顔を赤くして汗をかいている。


「あ、あらあらあら? ちょっとかっこつけすぎちゃったかしらね? ご、ごほん、んん……さて」

「さて、じゃないですよ。一体なんなんですか。そもそも、何故私の夢をあなたが知っているんですか」

「そ、それはまあおいおい話していくとして、もしかして本当に知らないの!? だとしたら人生の半分は損をしていると言っても過言ではないわよ」

「詳細を」

「『堕天使』という存在はね、人間の世界のルールに干渉するほどあまりに強すぎた欲望が生み出したバグなの。だから堕天使の存在はそのほとんどが欲望で構成されている。同時に、他人の欲望を映し出してしまう鏡でもあるの」

「鏡……」

「ええ。つまりね、例えば飴が欲しいと思った女の子が堕天使の近くに来たら、ほぼリアルに近い幻想で、女の子が飴を手に入れるの。うーん、もうちょっと詳細に言えば……他の人からしたら偽物にしか見えないけど、当事者にだけは本物に見える、ということかしらね」

「なるほど、『自分の世界に閉じこもる』みたいなものですか?」

「そう、それね。流石は成績優秀な厭さんね。先生感心しちゃいます」


 あまりにわざとらしい言い方ではあったが、何故かこの人にそう言われると、悪い気はしなかった。

 それはともかく、結局この人が言いたかったのは、私のあの夢は私が望んだことが堕天使の特性に反応して、そういう幻想を私に見せた、ということだ。

 しかし、そんな特性があっとは……


「でもね、そんなただの幻想も、歪みが大きくなればなるほど他者からもリアルを帯びた現実となって認識され始めるの。もしそれを心無い者に利用されてしまったら、ちょっとばっかし世界の運行が危うくなっちゃうかしらね?」

「そうか……! アイツは、グルハウチェはその特性を何かに利用しようとして……!」

「そう、正解。やはり飲み込みが早いわね、預言の通り」


 月光の夜をバックにギィエルミーナ・セナは両手を広げた。


「待って、ください。そもそもあなたは一体……」


 この街の異変なら、全て厭の魔術で監視されているはずだ。もしミーナ先生が外来の魔術師だとすれば、分かるはずだが……


「では改めて自己紹介をさせて頂きます。私の名前はギィエルミーナ・セナ。メソアメリカ系魔術結社『Esperanzapara来 へ elの  futuro希 望』に所属する魔術師です」


 心当たりのない名前だが、やはり外来の魔術師。


「何が、目的なんだ……?」


 服は着替えさせられている為『凍血霊槍フローズン・ブラッド・ランス』は使用不可。だが簡易的な筋力増強の術式は……魔力残量からして五分が限界。少しばかりキツイが、戦闘になれば逃げることを優先すれば問題ないと判断できる。


「そんなに怖い顔をしないで。私はあなたの命の恩人です。なのにわざわざ助けた人を殺したりしません」

「答えなさい!! 何が目的!?」


 呆れた様子で息を吐き、何かを考え、そして口を開いた。


「あと857年2か月17日で、この世界の歪みは限界を迎え、人類はおろかこの世界の全てが消滅し、世界は滅亡します。私はその滅亡の回避の手段を得る為にここを訪れた、アステカの神々より使われし神童です」

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