15:祈りを込めて

「……マリア? 何を言ってるの?」

 初めて見るマリアの暗い無表情に、嫌な汗が頬を伝い落ちる。

(リュカは過去に『檻』を出ようとして、マリアに止められたことがあるのかしら)

 ただの魔王の世話役にしてはマリアは異様に強い。

 この一ヵ月、希咲は必死で戦闘技術を学んできたが、昴はその遥か上を行く。

 けれど、マリアはその彼とさえ互角に渡り合ってみせた。

 彼女が魔法を使ってみせたのは数回――それも全て初級魔法――だけだが、魔法を使わなくても彼女は充分に強かった。

 何故そんなに強いのかと聞いたこともあるが、マリアはいつも「秘密です」と笑うばかりで、ごまかされてきた。

「いまこそ私の正体を明かしましょう。私は空中遺跡『ゲーティア』で発見された古代の量産型戦闘兵器です。先の魔王との大戦では機械人形部隊に所属し、同型の兵器とともに幾多の魔族を葬ってきました」

 マリアは瞬きもせずに語った。

「激しい戦闘により体内の魔力炉を失い、かつてのように強力な魔法こそ使える状態ではありませんが、現状でも力を封じられた魔王を殺すことなど造作もないこと。なればこそ王も私に魔王の監視役を命じられたのです。もう一度言います。『檻』から出ることは私が許しません」

 マリアは押し黙っているリュカを見つめた。

 意に沿わぬならば殺すと、その目が雄弁に物語っている。

 マリアの出自も、その過去も衝撃だったが、それでも希咲はなんとか口を動かした。

 乾いた喉に唾を送り込んで、問う。

「……でも……そんな命令を受けたとしても、50年も前のことでしょう? だったら……」

「どれだけの時間が過ぎようと関係ありません」

 希咲の小さな抗弁を、マリアは冷酷に切って捨てた。

「どうしても魔王を連れて行くというのならば相手をしましょう。まず失うのは手足のどこが良いですか。『殺戮人形』の異名に従い、望み通りに切り裂きましょう」

(……本気だ)

 彼女が放つ威圧感で、空気が途方もなく重く感じる。

 気分は蛇に睨まれた蛙、いや、象に踏み潰されそうになっている蟻だ。

 心臓に氷を差し込まれたような恐怖に襲われ、立ち竦んだ希咲の腕を後ろから昴が引いた。

「きゃっ」

 不意打ちにたたらを踏んだ希咲を引っ張って、昴は椅子に座らせ、入れ替わるように立ち上がった。

 彼はただ静かにマリアを見据えている。

 完全な臨戦態勢。

 もしマリアが危害を加えるそぶりを見せたら迷わず攻撃するだろう。

 微かに彼の身体から青いオーラが立ち上っている。

(ちょっと……止めてよ。彼女は私たちのお師匠様で、一ヶ月ずっと一緒に過ごした仲間でしょ? 聖母マリアって、昴がつけたのに)

 押し留めるように掴まれた腕が痛い。

 言葉にならない言葉が空しく喉の奥で空回りする。

 どうしたらいいのかわからず困惑していると、リュカがマリアの前に立った。

「よせ、メイド。我はキサキが死ぬのは嫌だ」

「ならば私を破壊するしかありません。多少なりとも力が戻ったいまなら叶うはず。この『檻』から出たいというのならば覚悟をみせてください」

 重く、沈み込むような沈黙があった。

 昴が放つ敵意。マリアの威圧感。俯いたリュカ。

 居心地が悪くて仕方ない。

 数分前までの賑やかな談笑が遠い過去に感じる。

「…………。嫌だ」

 リュカは長い――長い沈黙の果てに、小声でそう言った。

 マリアはただリュカを見ている。

 感情を持たない死神のように、凍った瞳でリュカを映している。

「嫌だ」

 リュカはもう一度繰り返した。

 顔をくしゃくしゃにして、泣きそうな目で、

「ここから出たい。自由になりたい。いつもそう思っていたし、いまも強く願っている。でもメイドを傷つけるのは嫌だ。我は……」

 そこで言葉を切って、また彼は顔を伏せた。

 絞り出すような声で、ぽつりと、言う。

「メイドを失うのは……嫌なのだ」

 静寂が落ちた。

 リュカは項垂れ、マリアは動きを止めている。

 昴は希咲を庇う格好のまま動かない。

 でも、悲痛なリュカの言葉を聞いて少しは緊張の糸を緩めたらしく、身体から立ち上っていたオーラは消えていた。

 背中を向けているので彼の表情はわからないが、多分、心境は希咲と同じだろう。

 ――二人に戦闘なんてして欲しくない。

 マリアはリュカの母親代わりのようなものだ。

 リュカはただのメイドだと言い張っていたが、50年も二人きりの生活を送っていれば自然と情は生まれ、時間と共に育まれていく。

 希咲がここで暮らしたのはたった一ヶ月だが、それでも二人に主従を越えた絆を感じた。

 リュカが感情豊かで素直な良い子だと希咲は知っている。

 でもそんなことは傍にいたマリアが誰よりも良く知っているはずだ。

 我が子にそうするように、誰よりもマリアはリュカを愛し、慈しんでいた。

 言動の一つ一つがそれを物語っていた。

(王様からリュカの監視という密命を受けていたとしても、そんなの関係ないわ)

 その証拠に、リュカの純粋な本心を聞いたマリアの無表情に亀裂が入った。

 一定のトーンに保たれていた声色も、悲しみに沈んだように低くなる。

「……あなたは甘すぎます。絶大な力を持つあなたが外に出れば世界は混乱します。ある者はあなたを殺そうとするでしょう。ある者はあなたを利用しようとするでしょう。ある者はあなたを神と崇めるでしょう。ある者はあなたを憎むでしょう。あらゆる者があなたを恐れ、忌み、嫌うでしょう。あらゆる負の感情があなたに向けられるでしょう」

 マリアはもう無感情ではない声で、切々と語った。

「あなたが行くのは茨の道です。ここにいれば誰も、あなたも傷つかない。それでもあなたは行くのですが。私は外の世界がどんなものか知っています。人間がどれだけ卑怯で醜いか、魔族がどれだけ残虐で狡猾か、身をもって教えられました。きっと外の世界はあなたの望む場所ではありません。あなたが傷つくとわかっているのに、私は認められません」

「……もしも……」

 リュカは再び顔を上げ、小さな拳を握って、まっすぐにマリアの瞳を捉えた。

「もしも世界が我の望むものでないのなら、またここに戻ってくれば良い。それだけのことだろう? 我は外の世界が見たい。書物で見た一面の砂の大地を、空に浮かぶ虹色のカーテンを、月が浮かぶ湖を、噴き上がる火の塊を、それらの全てをこの目で見てみたい。でなければ我はなんのために生まれてきたのだ? 一生この『檻』に閉じ込められるために生まれたのか? そんなの嫌だ。50年も経ったのだ、もう約束には十分だろう? キサキたちと一緒に行きたい。そして、メイド……その、マリアも、一緒に来い……いや、来てくれると、嬉しい」

 リュカは不器用な言葉遣いで、精一杯の思いを伝えた。

 すると、マリアは沈黙した。

 はらはらしながら見守る。

 リュカに加勢したいが、希咲の出る幕はない。これは完全に二人の問題なのだから。

 だから、祈った。マリアが笑って同意してくれるように。

 リュカの望み通り、二人だけで50年間過ごしてきたように、旅に出てもまた二人が一緒に過ごせるように。

 微動だにしなかったマリアは、不意に目を閉じて。

「……とんだ甘ちゃんに育ってしまいましたわね。憎まれるのも承知で試しましたのに、ずるいですわ。これでは何も言えなくなるではありませんか」

 マリアは目を開くと、困ったように苦笑した。

 それはまるで、子どもの我儘を聞き入れる母親のような顔だった。

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