6:まさかの異世界トリップ

「俺は他人や物の過去が見えるんだ。触れるとさらにその力は強まって、かなり過去までさかのぼることができる。この学校で死んだ人はいないって言ったのは、その力で過去を見たからだよ。壁に触ってたでしょう?」

 と、彼は左手を上げてみせた。

「なるほど。じゃあ中学校のとき、なくした物を探してあげたっていうのもその力なんだ。過去が見えるなんて凄いね」

「信じるの?」

 階段を降りながら、ちらっと笠置がこちらを見た。

「うん。だって、信じるって約束したもの。ここで信じないのは笠置くんを裏切るってことよ。他人の信用を裏切るのは最低の行為だと思うの。だから、私は信じるわ」

 胸を張り、顎を引いてみせる。

 彼はなんだか珍しいものでも見るような顔をして、また前を向いた。

「……さらに言うと、目を合わせれば相手がいま抱いている感情も読み取れる。この能力は不安定で、自分から視ようとするときももちろんあるけれど、勝手に流れ込んでくるときがあるんだ。それを防ぐために、極力他人とは目を合わせないようにしてる。誰でも勝手に心を読まれるのは不快でしょう。もっとも、立花さん相手だと何故か通用しないみたいなんだけど」

「どうして?」

「さあ。俺に聞かれても」

 訊くと、笠置も困ったようにそう言った。

「だから、立花さんもなんらかの能力を持ってるのかなって思ったんだ。俺と同じなら仲良くなれるかなって期待した……でも違うんだね」

 その声にはわずかではあるが、落胆の響きがあった。

(チャンス!)

 きらりと希咲の瞳が輝いた。

「あら、だったらそこで残念がるのは違うんじゃないかしら?」

「え?」

 希咲は軽やかな足取りで段差を縮めて、中途で止まっている彼の隣に立った。

(いまこそこいつを篭絡させるときよ! 見てらっしゃい、可憐な笑顔で私の虜にしてみせるんだから!)

 彼の秘密のことはもちろん他人に吹聴するつもりはないが、純粋に自分になびかない男なんてプライドが許せなかった。

(落ちぬなら、落としてしまえ、ホトトギス!)

 女優になりきったつもりで、にっこりと微笑む。

「なんでかはわからないけど、笠置くんに私の心は読めないのよね。目を見ても何も見えない。なら私は唯一気兼ねなく目をあわせられる相手でしょう? だったらきっと仲良くなれるわ。これからはちゃんと目を見て話してくれると嬉しいな。いつも目が合うと背けられてばっかりで、寂しかったもの」

「寂しい?」

「うん。そりゃあクラスメイトに無視されるのは悲しいわよ」

「……。わかった。今度から気をつける」

 笠置は頷いて、それから、笑った。

(笑っ……!? 笑った!? 笑ったよこの人!?)

 口の端が柔らかな弧を描いた、それだけのことなのに妙に意識してしまった。

 多分この学校で自分だけが彼の秘密を知っている。

 彼の笑顔を知っている。

 ――ああ、彼はこんなふうに笑うのか。

(って、なんで浸ってるの私!? おかしいな、なんでこんなに動揺してるの!? にっこり微笑んで動揺させて笠置も他の男子みたいに私の虜にするつもりだったのに! 向こうが笑って私を動揺させるなんて! 間違ってる!!)

 さっきから心臓がうるさい。

 鼓動を早めた胸に手を当て、急いで顔を背けて階段を下りる。頬が熱を帯びてしまって、きっと顔は赤くなっている。

 こんな顔を見られたくなかった。勘違いされては困る。

(こいつは私の宿敵なんだから! 絶対に負かすべき相手で、恋とかそんなのありえないんだから!)

「立花さん? 先に行くのはいいけど大丈夫?」

「あっ」

 既に問題の鏡の前だった。

 忘れていた恐怖がぶり返し、希咲は急いで引き返して笠置の手を掴んだ。

 さわやかな笑顔を浮かべて先を譲る。

「お先にどうぞ」

「……。別に何も起こらないっていうのに……心霊スポットで話題の幽霊を見たっていうのと一緒だよ。先入観によるただの思い込みで、集団ヒステリーとか共感覚の一言で片付けられると思うんだけど」

「いいからどうぞ」

 ぴしゃりとそう言うと、笠置はもう何も言わずに階段を降りた。

 踊り場はもうすぐそこで、希咲は残りの段数と踊り場の広さを頭の中に叩き込んだ。

 あの鏡の前を通り過ぎてしまうまで、目を閉じてやりすごせばいい。

 何が聞こえても幻聴だと思い込むのだ。そうすれば何も起こらない。

 何が起きても盾となる人間(笠置)もいることだし。

 いよいよ鏡の前に着く、という直前で、希咲は目を閉じた。

 残りの段数は5で、これまでの感覚から段差もわかっている。

 1段、2段。

 あと3段で踊り場に到着する――そのときだった。

 覚えていた感覚と実際の段差にずれが生じたらしく、足が空を泳いで、体が傾いだ。

 何か妙な方向に重力がかかって、急激に斜め前へと引っ張られるような感覚があった。

(うわっ――)

 焦って笠置と繋いでいた手に力を込め、目を開いて――希咲はその目を見開いた。


 風景が、一変していた。


(えっ?)

 足元には当たり前にあるはずの階段がなかった。

 階段どころか壁も天井もなかった。

 見慣れた校舎などどこにもなく、そこに広がるのは不思議な風景だった。

 息を呑むほどに美しい青空と白い雲。空を悠然と泳ぐ飛び魚のような巨大な魚。

 足元を見れば、ガラスでできたような半透明の森。

 見たことのない植物が群生する大地。青く澄み渡った海。

 遥か遠くに見えるのは、コロシアムのような石造りの円形の都市。

 その中央に浮かぶのはクリスタルのような透き通った球体とそれを取り巻く呪文のような文様――希咲の目には、それが魔法陣のように見えた。

(な、なにここ、日本じゃない――外国!? どこよここ!?)

 そして、無重力の空白の一瞬の後に待ち受けるのは、当然のように墜落だった。

「――っぎゃあああああああああああああああああああああ!!!」

 希咲はもはや優等生を演じることも忘れて絶叫した。

 平穏な日常生活を送っていてこんなふうに腹の底から絶叫したのは初めてだ。

 見知らぬ異世界で、地上何メートルなのか想像もつかないほどの高度から命綱なしのフリーフォール。

 これで平静を保てる人がいたらお目にかかりたい。

 つんと澄ましているお嬢様だって冷静沈着な人間だって絶叫の一つや二つしたくもなるだろう。

「……落ちてるね」

 いや、いた。

 この状況で冷静を保っている物凄い胆力の持ち主がすぐ隣にいた。

 希咲と同じように上体からフリーフォールしながら、彼は無感動に呟いていた。

 希咲が持っていた数学のプリントはどこかへ吹っ飛んでしまっていたが、彼の眼鏡も風圧に負けたらしくなくなっていた。

 彼が首から提げているチョーカーがばたばたと激しく暴風に揺れている。

「なんであんたはそんなに冷静なのよっ!?」

 凄まじい風圧で目を開けるのも辛いが、希咲は全力で突っ込んだ。

 パニックで泣き叫びたいくらいだった。

「いや、もちろん驚いてはいるんだけど、隣でわかりやすくパニックに陥ってる人がいると、意外と冷静になれるものだよ。驚くタイミングをなくすというか」

「状況わかってる!? 落ちてるのよ落下してるのよこの重力加速度で地上にぶつかったら絶対ミンチよひき肉よ!! なんなのどうなってるの学校は何処にいったのここはどこ私は誰!?」

「その台詞、実際に言う人がいたんだね。いまの立花さんを録画して、崇拝してる男子生徒みんなに見せられないのが残念だな」

「だからなんであんたはそんなに冷静なのよぉぉぉぉ!? なんなのこれなんなのこれ、学校の階段の踊り場で足を踏み外して落ちて、気づいたら空からダイブっておかしくない!?」

「定番の異世界トリップってやつかな。明らかにここ、日本じゃないしね。あれがなんなのかわからないけど、ぶつかったら死にそうだな」

「?」

 冷静に周囲を確認する理性など欠片も残っていなかったが、現実は直視しなければならないだろう。

 もはや半泣き状態で指し示された下を見る。

 正常な重力が働く以上は希咲たちの落下地点となるであろう、真下だ。

 そこには白い点があった。

 時間が経ち、どんどん地上に近づいていくにつれて、それが白いドームのような何かであることがわかる。

(白いドーム……いや、シールド? ゲームに出てきた、王城を守る魔法障壁みたいな……え? あれに激突するの? この速度で? 身体を浮かす便利アイテムも何もないのに? 生身であれにぶつかれっていうの!?)

「……死ぬじゃんっ!!!」

 高確率で訪れるであろう未来を絶望的な気分で叫ぶ。

 無数の輝く文様が浮かぶ不思議な白いドームが迫ってくる。

 もう悲鳴をあげる余裕すらなく、希咲はぎゅっと目を閉じた。

 ぶつかる直前で、笠置に腕を掴まれ、身体の向きを強引に変えられた。

 そして、抱きしめられた。

 異性に突然抱きしめられて胸をときめかせる――なんてロマンチックに浸る時間は一秒もなかった。

 白いドームに激突したらしく、雷に打たれるような凄まじい衝撃があって、希咲は意識を失った。

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