チェリー・OH! ベイビー

ちはやブル

蛇が足のごときプロローグ

 敬愛する小野十三郎のとある一遍の詩にこの小説をささげる。


 その男は、だまし絵のごとく風景にとけ込んで、いつの間にかその場所にいた。

 児童公園の、青々と枝を張った並木の根かたに、じっとたたずんでいる。

 もとの色が判別できないほどに薄汚れた外套。垢じみた襟なしシャツ。底がすり減って足の指がのぞく革靴。

 見るからに怪しい風体だ。不審者として警察へ通報されてもおかしくない。

 しかし男には、不思議と存在感が希薄だった。

 日曜の昼下がり、公園には多くのひとたちがつどっている。犬を散歩させて歩くお年寄り、幼い子どもづれの主婦、ジョギング中のサラリーマン。しかしだれひとりとして、この遊歩道わきにたたずむ不審な男に注意を向けるものはいなかった。

 男は、背中に楽器を背負っていた。

 琵琶だ。

 サラスヴァティ・ヴィーナと呼ばれる古代インドの琵琶で、棹には七本の頑丈な弦が張ってある。

 彼は、吟遊詩人であった。

 いつもの放浪癖で、あてもなく諸国をさまよい歩くうち、ここへ流れ着いたのだ。

 ころあいを見て、男は拍子木を打った。

 晴れわたる秋の空に、チョン、チョーンと硬質な響きがこだました。


 さァさ みなの衆 お立ち会い

 文明開化の この御世に

 やって来ました 紙芝居

 じいちゃん ばあちゃん 孫つれて

 はやく来ないと はじまるよ


 すべり台にいた子どもが、ボールを追いかけていた少年が、砂場で遊んでいた女の子が、公園のいたるところで遊んでいた大勢の子どもたちが、まるで集団催眠にでもかけられたように、歓声をあげ一斉に男のもとへ駆け寄ってきた。どの顔も、みな目をキラキラと輝かせている。

――この町に、紙芝居がやって来たのだ。


 さァさ お早くいらっしゃい

 紙芝居がはじまるよ

 ご用とお急ぎのないかたは ゆっくりとご覧になってちょうだいな

 遠い異国のお姫さま とある可愛い女の子のお話だよ

 可愛くて 強くて 恐ろしい 最強無敵の女の子だ

 さァさ お早くいらっしゃい

 紙芝居がはじまるよ


 男の周りには、たちまち人だかりができた。遅れてやってきた子どもが前のほうへ割り込もうとして他の子どもとケンカになる。わざわざ母親の手を引いてきて肩車をせがむ子もいる。そんな子どもたちに愛想笑いを振りまきながら、男はわきに置いた巨大な木箱の引き出しを開けた。


 ぼっちゃん じょうちゃん まずは飴を買ってからだ

 お話がはじまるのは それからだよ

 このリンゴ味のが五円 そっちのチョコレート味のは十円だ

 お、ぼっちゃんお目が高いね そのアプリコットの飴は二十円するよ 常陸は石川の名産だ おいしいからね

 さァさ まずは飴を買ってからだ

 お話がはじまるのは それからだよ


 集まった子どもたちが、我さきにと飴を買ってゆく。小銭を持たない子どもが二、三人バラバラと駆け出した。自分の家へ金を取りにゆくのだ。お気に入りの飴を手にした子どもから順番に芝生のうえへ腰をおろしてゆく。

 やがて全員に飴がゆきわたると、男はフタを閉じた木箱のうえに素早く紙芝居の舞台を組み立てた。二十号サイズの油絵を入れる額縁ほどの大きさだ。すでに扉絵が嵌められている。

 その扉絵には丸っこい手書きの字で、こう記されていた。


 チェリー・OH! ベイビー


 シャラーン、と琵琶が鳴った。それが合図のように、子どもたちのおしゃべりがピタリとやむ。

 シャラン、シャラーン。

 弦がつま弾かれる。その音律に合わせ、今までとは別人のような枯れた声で、男は切なく歌いはじめた。


 ぎおんしょうじゃの かねのこえ

 しょぎょうぶじょうの ひびきあり

 さらそうじゅの はなのいろ

 じょうしゃひっすいの ことわりをあらわす


 演奏の手の合間に、素早く扉絵が引き抜かれる。

 次に現れたのは、燃えさかる城を背景に、荒廃し尽くした異国の街並みだった。


 とおく異朝をとむらえば

 秦のちょうこう 漢のおうもう 梁のしゅうい 唐のろくざん

 これらみな きゅうしゅせんこうの まつりごとにも したがわず


 子どもたちが固唾を呑む。

 二枚目、三枚目の絵には、逃げまどう老若男女と、軍刀を振りかざし追い回す蛮族の兵士が描かれていた。

 ひとが殺され、街が燃やされてゆく。

「ああ……」とうめいて目をそむける子がいる。

――突然、曲調が変わった。

 男の手にはめられた偽爪が、熱に浮かされたように激しく弦をかき鳴らしはじめる。

 ジャカ、ジャカ、ジャカ、ジャカ

 その一瞬の合間に、幻術のような手さばきでサッと絵が引き抜かれた。

 はたしてつぎに描かれていたのは……。

 腰に手を当て、仁王立ちする、黒いドレス姿の美少女だった。

 子どもたちのあいだから、わっと歓声があがった――。

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