第19話 明けゆく朝の光に抱かれて

 夜明け前のことです。

 クリオの看病についていた僕は、人の気配を感じて、病室のソファーで目を覚ましました。


 見ると、クリオが眠るベッドの脇に、エテルナ様が立っているのです。


「……クリオ、すまない。私が、無理をさせてしまったんだな」


 エテルナ様の小さな声が聞こえます。

 暁闇の中で定かには見えないのですが、エテルナ様の肩が、わずかに震えているような気がして、僕は声をかけることができずにいました。


 そのうち、眠っていたクリオが、ふと目を開きました。


「……エテルナ様……?」


 クリオの声に、エテルナ様は驚いて謝ります。


「ああ、クリオ、起こしてしまったか。できればすぐにでも来たかったけれど、どうしても仕事が抜けられなくて、こんな時間になってしまったんだ」


 クリオは、エテルナ様のお顔にそっと手で触れ、言いました。


「エテルナ様……どうして泣いていらっしゃるのですか?」


 その声は、とても穏やかで、優しく、僕は目の前の光景が夢なのではないかという気がしてきました。


「……クリオがいなくなってしまうような気がしたんだ」


 エテルナ様は、童女のような頼りなげな声で、そう言いました。


「大丈夫、私、いなくなったりしません」


 クリオが、そう言って、エテルナ様を胸に抱き寄せます。

 エテルナ様は、クリオの胸に顔を埋めて、震える声で言いました。


「クリオ……倒れるほど働かなくてもいい。私のそばにいてくれ。私は、不安なんだ。怖いんだ。いつか、取り返しのつかないような失敗をしてしまいそうで……」


 クリオは、エテルナ様を優しく撫でながら、語りかけます。


「エテルナ様、私も同じ気持ちです。あなたは、こんなにも重い責任を背負って、今日まで戦ってきたのですね。私なんて、たった数か月で、このありさまです」


「私が……私が魔王として振る舞うと、みんなが喜ぶんだ。初めは、みんなの役に立っている気がして、嬉しかった。でも、喜んでくれる人ばかりではないと気づいた。私は……ただ、みんなに喜んでほしかっただけなのに……」


 エテルナ様は、もう涙を隠そうともしません。

 クリオが、優しく微笑んで言いました。


「エテルナ様、私は、今、とてもうれしいのです。エテルナ様が、私にこうして頼ってくださるのが、何よりもうれしい。正直に言えば、昨日の朝、私はもう耐えられないかもしれないと思いました。もうお役目は返上したほうがよいのかもしれないと。でも、今、エテルナ様をこうして胸に抱いて、たくさんのお力をいただきました。エテルナ様、ときどきで構いませんから、またこうしてあなたを抱きしめさせてください。こうしていると、勇気が湧いてくるのです。立ち上がり、前を向いて歩いていこうという勇気が」


 クリオは、そう言って強く、エテルナ様を抱きしめました。

 まさにそのとき、闇を払うようにして、曙光が東の空から立ち昇って来たのです。


「クリオ……ありがとう」


 エテルナ様がそうつぶやいたとき、僕も同じ言葉を、心の中でつぶやきました。

 僕は、このときほどクリオに感謝をしたことはありませんでした。幼くして父と母を亡くされたエテルナ様を、それから間もなく魔王としての振る舞いを求められた彼女を、抱きしめてあげられる人が、この国には一人もいなかったのです。


 明けゆく空の光の中で、僕は目を閉じ、二人の幸福を願いました。僕が、誰か自分以外の幸福を心から願ったのは、このときが初めてのことだったかもしれません。




 その日、クリオの高熱はあっさりと引き、彼女自身も元気を取り戻したようでした。

 ダークエルフの女医が、改めてクリオに診断の内容を告げます。


「過労で弱っていたところに、風邪をひいてしまったようですね。重い病気でなくてさいわいでした。肉体的にというより、心労が大きいようです。できることなら、1週間ほどお休みを取られるとよいのですが」


 そうは言われても、クリオは自分から休暇を取りたいなどとは言わないでしょう。

 翌日から、彼女は中央銀行総裁室に復帰しました。

 そんな中、総裁室に珍しい訪問者がやって来たのです。


「やあ、お久しぶりでございます。クリオールさん」


 柔和にゅうわな笑顔で入って来たのは、オークの農相ボンディ伯でした。


「コクマ村のベベくんを通訳係として登用していただいたとか。彼はよくやっていますかな? オークから文官の人材が生まれるのは、実によろこばしい。育ててやってください」


 ボンディ伯の穏やかな雰囲気に、クリオの表情もやわらぎます。


「ええ、ベベはよくやってくれています。将来、きっと彼はオークの知性に対する世の見方をあらためる、大きな力になると思います」


 クリオの答えに、伯はにっこりと微笑んで言います。


「管理通貨制度も軌道に乗り、総裁の先見的な施策によって、ひとまず国内の経済は安定しております。思えば、中央銀行設立準備が始まって以来、皆さん働きづめでしょう。ここらで骨休めの代わりと言ってはなんですが、ひとつ、お願いしたい公務があるのです」


 そう言って、伯はふところから一通の書簡を取り出しました


「大陸南部に、ガゼッタ半島という地域があります。ほぼ赤道直下に位置する常夏の土地で、魔王家のプライベート・ビーチが設けられており、毎年この時期にエテルナ様は静養におもむかれます。これに、総裁もご同行願いたいのです」


 クリオは、渡された書簡を見て、不思議そうな顔をしています。


「ただの休暇について私がお伝えするのは、おかしいと思うでしょう。もちろん、休暇の合間にお願いしたことがあるのです。通知の二枚目をご覧ください」


 ボンディ伯が、書面の一部を、その太い指で示します。


「ガゼッタ半島は、古くからドワーフのまう土地。地下にはドワーフの大工廠がいくつも存在し、その中でも最大のものが、ガゼッタ第一工廠です。これは、わが国における最大の軍需工場でもあります。ここの工場長は私のふるい友人でして、彼が驚くべきしらせを持って来たのです。あの『蒸気機関』に関わるものです」


 蒸気機関という言葉を聞いて、クリオの表情がくもります。


「工場長は、ドワーフのエンツォ氏です。彼のアイデアは、もしかすると、この国の将来を開くものかもしれません。ぜひ、エンツォ工場長にお会いください」


 そうして僕たちは、季節外れのリゾートに赴くことになったのでした。

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