第5話

 気がついた時にはすっかり日も暮れていた。周囲の部屋から騒がしい声が響いてくる。

 はて、どうだったっけ。今日、一日のことを思い起こす。

 制服のまま、床の上で寝ていて……そうだ、写真だ。

 しかしまだ、画像を見るだけの勇気が出ない。取り敢えず風呂を沸かし、買っていたパンをいくつか囓りながら、今日のことを思い出す。

 玉砕した卒業生。それが俺に被って見えた。

 湯船に浸かり、寝間着に着替えて、床につく。勉強? そんなもの、手につくわけないじゃないか。

 布団をすっぽり被って中に潜り込み、そわそわしながら、はやる気持ちを抑えて携帯電話ディスプレイを点灯させる。キーを誤らないよう慎重に、かつ、しっかりと押しながら、捉えたであろう彼女の尊顔を鑑るべく、気持ちを昂ぶらせる。自分の設定したパスワードの入力すら、偉大且つ矮小な目的に辿り着くための大きな障害に思えた。

 メニュー→データ→カメラフォルダ→一覧

 その最上段に構えた、最新の画像ファイルを開く。

 そこには、女神が御座した。

「ちゃんと、撮れている」

 多少ぶれがあるものの、その表情を余すことなく撮れたのは彼女に対する愛がなせるものなのか、などと思うも、これを七星さんに見られたらどんな言い訳をすべきだろうか、という後悔が俺を襲う。

 ま、隠し通せばいいんだ。

 仲良くなりたいけど、自分の未来図には彼女と関わり合いになることはもうないだろう、と思い描くと、ため息が出る。

 ダメだな、俺。自分の欲望にすら満足に満たせないのか。

 ……そう思いつつも、今日撮影した画像だけで大満足、と自分に言い聞かせる。

 昼間見た、睨む形相。それがディスプレイの中に再現されていた。少しキツい印象の表情を浮かべた写真を待ち受け画面に設定する。

 彼女の写真を眺めながら、リモコンをたぐり寄せて照明を落とす。明日は今日よりいいことがあると信じて。真っ暗闇の中に燦然と輝くディスプレイの彼女。それが予期せず切り替わる。突然の呼び出し音に、俺は慌てて通話ボタンに指を移動させる。

「浩一、起きてる?」

 電話の主は母であった。一年間どうだった、さびしくない、といった取り留めのないことを一通りまくし立てられた後、最後の最後になって聞き捨てならないことを俺に告げてきたのだった。

「あ、あと、明日、あなたの従妹、祐佳里がそっちへ行くから」

 花村祐佳里……一歳年下の俺の従妹である。長らく耳にしなかった彼女の名前に、なぜ今、会うことになるのかとんと見当が付かず、その理由を尋ねようとするが既に遅し、

『ツー』

 母親の電話は切れていた。

 祐佳里か。十年ぶりくらいかな?

 まだ小さかったあの頃。紫のリボンが結ばれた白い帽子からあふれだすツインテール。記憶にある、最初に出逢った時はすこし恥ずかしそうに下を向いていた。ゆかりちゃんこんにちは、と声をかけると、やっと俺の方を向いてくれた。はにかんだ笑顔だった。

 ……初恋、だったかもしれない。

 まだ生えそろっていない歯が、彼女の幼さを物語っていた。しかし、その笑顔は未だ、彼女の純粋さを示す真っ白なドレス……というほどの衣装ではなかったような気がするが、彼女の存在故にそんな感じがする真っ白なワンピースであるが……と相まって、俺の脳裏に焼き付いて離れられない。まだ背も、胸も、成熟という言葉からはあまりに遠いその容姿を今でもありありと思い出す。互いに一人っ子だった俺は近所に住んでいた祐佳里に、休みともなろうなら、俺の実家近くを流れる大きな河の河川敷に朝早くから引っ張り出された。河原で宝石みたいな色を放つ石を探したり、素手で泳ぐ魚を捕まえようとしたり、河に紙で作った船を浮かべて川下りの行く末を見守ったり……。夕方、びっしょびしょになって帰って、いつしょに怒られたり。

 そんな俺たちには、共に、兄弟もしくは姉妹と呼ぶべき存在を持ち合わせていなかった。まだ祐佳里が小学校に上がったばかりの頃だったと記憶しているが、その日祐佳里が突然、こんなことを俺に言ったのだった。

「学校のみんなで、家族についてべんきょうしたんだよ。みんな、お父さんとお母さんだけじゃなくて、お兄ちゃんとかお姉ちゃんとか……」

「うんうん」

「ゆかり、ひとつおねがいがあるの」

 そして、少し間を置いて、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「お兄ちゃん、って呼んでいい?」

 そういう祐佳里に対し、俺は

「うん、いいよ。だったら祐佳里ちゃんは妹だね」

というと、こくりと頷いてくれた。

「わー、やったー。お兄ちゃん、大好き」

 こうして俺は祐佳里と実の兄妹以上に遊び回った。普通の兄妹なら毎日の朝晩、一緒にいられるはずなのに会えないというもどかしさ故に、余計に祐佳里と会うのが楽しみで楽しみでたまらなかった。しかしながら、祐佳里の両親が離婚し、彼女は母親に連れられて引っ越して以降、音沙汰がなくなってしまった。幼すぎて携帯電話なんて使えなかったから、住所も電話番号も変わってしまった祐佳里と繋がりはあまりにあっけなく途切れた。以来、すっかり疎遠になってしまい、それっきり会っていない。

 明日、祐佳里がやってくる。

 会うことの出来なかった日々、祐佳里は何を想っていたのだろう。俺のこと、覚えているだろうか。今の俺をどう見てくれるのだろうか。そして、……祐佳里はどんな風に成長しているのだろうかと想像を巡らすと、背が伸び、女性らしい体つきながら、あの顔のまま巨大な胸を実らせた、ややいかがわしい姿が脳裏に描き出される。

 浩一お兄ちゃん、祐佳里、今でも大好きだから……付き合って

 俺の頭の中で、そんな言葉を言う、祐佳里っぽい二次元的存在。

 だめだ。なんか違う。そんな、変な商品みたいなのじゃなくて、もっと立派な淑女であってほしい。

 ……それにしても、妹、か。

 いや、従妹なのだが。

 遠くもあり、近くもある不思議な関係はもう終わったにしても、突然、明日になって訪問とはせわしいな、と思いつつも、俺は、床につく。

 布団の中に入っても続く、廻り続ける過去の記憶と現在進行形への想像、いや妄想か。走ったり、泣いたり、笑ったり、怒ったり、……あのかけがえのない時間は従妹の胸にはどう残っているのだろうか。布団に入っても、想像した巨乳のイメージが睡眠を妨害する。

 睡魔が俺を襲い、眠りについたのは、既に窓の外に光が溢れ始め、新聞配達員がドアに商品を差し込んだ後であった。

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