アイリィはここちよい波にゆられて、夢の海を漂っていた。ふと気を抜くと意識を失って、そのまま永遠の楽園にいざなわれてしまいそうである。明瞭とはほど遠い思考の中で、ああ、死ぬっていうのはこういうものなのかな、と想像を巡らせる。どうも次第に呼吸が苦しくなっているような気がするが、ふいに身体全体の力が抜けたような解放感につつまれる。身体が思うように動かず、上半身を起こすことさえままならない…。


 アイリィ・アーヴィッド・アーライルは、なんとか意識を現実世界に引きずり戻すと、神経が処々で寸断されているかのような身体に無理矢理力をおくりこんで、暗闇の中手探りで簡易ベッドの下に備え付けられている小型ボンベ付きのガスマスクをつかみとり、必死の思いでみずからの顔に装着した。隣のベッドで相変わらずうつぶせになっている黒赤の髪を強引につかみあげてその白い顔にも同じものを手荒に取り付けると、胸ぐらをつかんで、親友の身体が他の調度品に何度もぶつかるのもいとわず、渾身の力で部屋の外に引きずり出した。むろん、これはわざと乱暴な扱いをしたわけではなく、気を遣う余裕がまったくなかったからである。


 士官私室の外の通路まで同じ状態であれば状況は絶望的であったが、さいわいエア・コンデショニングは正常に作動しているようであった。照明も非常灯ではなく通常のものが、通常どおり無機質な通路に最低限の色彩を施している。アイリィはひとまず窮地を脱したことに安堵し、ガスマスクをはずして文字通り一息ついた。すぐに心づいて足下で倒れたままの親友の安否をいそいで確かめようとしたが、その親友もさすがに打撲に似た正体不明の痛みを身体の節々におぼえて、目を覚ましていた。


「ん…?」


 快眠を中断させられて不満げな生物科学少佐は、眠りについたはずの場所と眼前の風景がことなっていることに気付いて戸惑ったが、そばに立っている暴行犯の顔を見上げて、寝ぼけながらもそれなりに緊張の電流を全身に走らせた。健康的な肌色をしているはずの親友の顔面は蒼白の色彩を帯び、片手には緊急時用のガスマスクがにぎられている。神経をこらすと、自分の顔にもそのマスクがついているようだ。


「ん…何かあった?」


 眠りから脱したにもかかわらずまだ地面に寝そべっているほうの人物は、得意分野にかぎってではあるにせよ十分に有能なはずだったが、自身の置かれている状況を把握するのに、まだ完全な覚醒とはほどとおい頭脳を無理矢理たたきおこす努力をせず、より多くの情報を握っているであろう人物にたずねるという楽な方法をえらんだ。しかし、労力を出し惜しんだ末の収穫は、量的にも質的にも、満足できるものであるとはいいがたかった。


「まあ、すぐ死ぬようなことはないだろうね」


 と、質問した側が最もかつ唯一頼りにする人物はこたえた。眠りから覚めたばかりで身体にだるさはあるが、痺れやけいれん、呼吸困難などの、有毒ガスを吸引したときによくあらわれる症状はないようだ。おそらく部屋に充満しているのは無力化催眠ガスであろう、と危機対処能力にもすぐれた槍術の名手は結論づけた。これは犯罪組織の取締りなど相手を殺害せずに制圧することが求められるときに用いられるほか、ガス攻撃を受けたことを想定した訓練でも頻繁に使用されており、軍艦であればごく一般的に艦内に配備されている。


 問題はこれが単なる事故か、それとも故意にふたりを害しようとしておこなわれたのかということだ。精神的な負担を避けるため楽観を好む人間の普遍的な性質は前者だと思い込ませようとしていたが、有能な特務陸戦小隊長の理性はその思考を受け付けなかった。とはいえ、最終的な判断を下すにはあまりにも情報が少なすぎる。


「艦橋へ行こう」


 と足下にたおれたままの親友に対してアイリィはいった。その親友はまだ眠りたそうであったがさすがに身体を起こして、促されるままに部屋の中にもどり、未開惑星の探査活動にもちいられる活動兵装をととのえた。促した方もガスマスクを付け直してそれにつづき、臨戦兵装に身を包んだ。無論シュティのほうは、鳥籠の中にとりのこされていた相棒を連れ出すのを忘れなかった。彼はガスの影響を受けずにしていたが、動物種の特性によるものなのか、あるいは得意の惑星術プラネットフォースで回避していたのかは不分明である。木星術は気圧を操作して任意の風を作り出すのが基本であるから、時間をかぎればガスを押し返すのも不可能ではない。


 ふたりはさらに最低限かつ有益な携行品をえらんで手に取り、睡眠ガス室と化した士官私室ををあとにした。



 艦内通路を歩き始めてすぐ、ふたりはそこに存在すべきものがまったくなくなっていることに気がついた。


「人の気配がないな…」


 軍艦の内装が優美さを欠くのは仕方のないことだが、そこには艦内警備、陸戦隊、砲撃手、司令員などの多数の人間が、ふねに不足している個性を各々の器量に応じて演出しているはずであった。だがいま、すくなくとも視界に入るかぎり、いってみればもぬけの殻なのである。ふたりが心の中で描きはじめていた不安曲線は、急角度での上昇を余儀なくされた。


「うーん…」


 睡後のまどろみからなんとか脱したらしいシュティ・ルナス・ダンデライオンも、アイリィのとなりで、艦橋に歩みを進めながら必死に考えているようだ。アイリィは可能ならば親友には安全な場所に隠れていてほしかったが、この状況ではどこが安全なのか、そもそも安全な場所があるのかどうかよくわからない。それに正直にいって、アイリィも有能な味方はほしいところである。


 じつのところ考えても結論は出ないのだが、材料となる情報がほとんどないのだからやむを得ない。味方を探し求めて艦橋までのルート上にあるいくつかの部屋をのぞいてみたが、どこも無人であった。艦内無線は生きているようだが、万一悪意ある集団が艦を占拠している場合、無線の使用はわざわざ居場所を相手に教えてしまうことになりかねない。いまの状況では、その危険をおかして無線を使用することは好ましくないように思われた。



 結局、敵の妨害も味方の合流もないまま、ふたりは艦橋の入口まで到達した。艦が敵対する勢力のコントロール下にあるなら、ここは最も敵意ある存在が密集している可能性の高い場所である。


 ふたりは二、三度みじかく言葉をかわすと、足音を殺して素早く艦橋の扉の左右に移動し、壁に背を向けて、突入後すぐ戦闘に移行できるように武器を構えた。アイリィがもちいるのはむろん闘槍であるが、シュティ・ルナス・ダンデライオンが得意とするのは腕に装着するタイプのハンド・ボウガンである。人類が馬や驢馬ロバを移動手段としていたころから狩猟や戦闘に使用されてきた由緒正しい武器なのだが、現代にいたるまでに改良をかさねられており、その威力は実弾銃におとらない。対獣戦において有効ながら、対銃器防御に特化されその他の武器に対しての防御が相対的に軽視されている現代兵装に対してもなかなかの攻撃力を有する。さらに腕に装着したハンド・ボウガン自体が盾の役割も果たせるよう設計されているため、ハンド・ボウガンの存在によって生死がわかれるような状況も起こりうるのだ。


 ふたりはそれぞれ腰に備えた光線銃と実弾銃の位置も再確認し、必要に応じてすぐさま使用できるよう心構えをおこたらなかった。突入したはいいものの多勢に無勢だった、という可能性も高いが、すこしでも良い結果に近づけるよう準備することが、生命を将来につなごうとする者の義務であることを、ふたりは知っていた。


 アイリィが右手の指で示したカウント・ダウンが零になるのと同時に、ふたりは艦の中枢部たる艦橋へとおどり込んだ。だが、小柄なふたりの戦士を迎えた光景は、事前にある程度予想されていた、しかし事態がより悪い方向にかたむいていることを黙々と誇示するものであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る