第23話 ENDING



 こんなはずじゃなかった。


 かき消された靄が黒い煙と化すのを見つめながら、ジンファンデルはそんなことを考える。

 一撃で仕留められるはずだったのに、と。







 彼女シーの言う通り、ジンは転移した直後に『靄』を習得ラーニングした。


 幸運なことに、ジン達は一番最初にあの闘技場へ転移した。

 もやが新たな人間を吐き出す様を眺めている内に、彼は自然とその能力を体得したのだ。

 異世界の能力なのでMPを消費せず、正しく制御すれば元の世界へ帰還できることも感覚的に理解していた。


 問題は『靄』の本来の使い手が健在であるということ。

 ジンが仲間を連れて元の世界へ帰還したとしても、そいつは必ず追って来る。

 元の世界へ戻るためには『靄』の本来の術者である「神様」の殺害が絶対に必要だった。

 

 だが「神様」は決してジンたちの前に姿を見せなかった。

 そいつに『靄』が効くであろうことは察していたが、姿を見せないのであれば攻撃することも敵わない。


 更にジンの置かれた状況と彼女シーの提示したルールは彼にとって不利に働いた。

 具体的には『パーティー全員が転移してしまった状況』と『生還者が一名ではなく二名であること』だ。


 もし転移したのが自分だけならジンは寄生虫のように誰かに取り入り、欺き、裏切りを繰り返しただろう。

 狡猾に、貪欲に勝利を求める――「生き残るために殺戮者になったヤツ」として最後の最後まで彼女シーを欺き、寝首を掻くこともできた。

 だがパーティー全員が転移したとなれば話は別だ。

 前提としてMPゼロのジンファンデルはリースリングやシュナン・ブラン、ナイアガラの三人に敵わないし、そもそもカルガネガを殺せないので「露悪作戦」は不可能だ。

 それに数分前まで仲間だったナイアガラ達をいきなり裏切って殺すというのはあまりにも不自然過ぎる。

 神は必ずジンの行動に二心を読み取るだろう。


 更に生還者が二人だと明言されたことでジンは彼らと共闘せざるを得なくなった。

 共闘せざるを得ないということは、パーティーを率いる者として何らかの方針を示さなければならないということでもある。

 他勢力と争うのか、否か。

 神に抗うのか、否か。


 結論から言えばジンは初めから『靄』で神を殺すつもりだった。

 だがその結論を不用意に口にすれば「詰み」になることは察していた。

 この狡猾な神がジンたちを監視していないわけがない。

 靄のことを聞かれてしまったが最後、ジンは宇宙の最果てとやらに飛ばされてしまっていただろう。


 靄のことを隠したまま五人全員で勝ち残った場合、最後の最後で手詰まりが待っている。

 なぜなら意地の悪い「神」は生き残りが二名に絞られるまで決して動かないからだ。

 神が動かないということは「本体」の居場所を突き止められないということでもある。


 神にゲーム終了を認識させる為には他勢力が全滅した段階でジンがカルガネガ以外の三人を説得して死を受け入れさせるしかない。

 こうなると説得の過程でジンが『靄』を扱えることに触れざるを得ない。つまり神に切り札の存在を知られてしまう。


 ①ジンが習得ラーニングした『靄』の存在を最後まで神に知られないこと。

 ②ジンとナイアガラの二人が最後まで生き残ること。

 ③神の本体を見つけ出すこと。


 ジンは神の提示したルールと状況下でこの三つの勝利条件を満たす道筋を見出すことができなかった。

 ゆえに殺し合いが始まった当初、彼は悩みに悩んだ。


 結局はカルガネガが消滅し、ナイアガラが早々に死んだことであらゆる目論見はご破算となった。

 消滅したカルガネガは「蘇生」できるのか分からないし、ナイアガラがいなければジンは魔力を補充できない。

 そこにあのシャールドンの襲撃だ。

 勇者は他勢力を甘く見ていた。


 ジンは激流に巻き込まれる木の葉のごとく状況に流されに流され、結果として②③を満たした状態で神の眼前に立つことはできた。


 が、彼は肝心な事柄を失念していた。

 神はジンの能力を把握していたのだ。『靄』のことも当然織り込み済みだった。

 勇者は神を甘く見ていた。


 ジンは信じたいことを信じたいように信じてしまった。

 彼の精神性は勇者には程遠い。

 少なくとも今は。





  

「……」


 ジンファンデルはその場にへたり込み、唇を噛んだ。


 こんなはずじゃなかった。

 こんなはずじゃ。

 ジンの頭の中でその言葉だけが何度も何度も繰り返される。


「あなたは蛮勇が過ぎる。本質的に私とは相容れない」


 彼女シーはダイヤルを回し始める。

 目に映るすべてが半透明になり、重なり合う世界が目まぐるしく変化する。

 

「私を崇められない傲慢な者は死になさい」


 足元の黒猫が何を見つけ、ととと、と走り去る。

 ぴたりと「宇宙の最果て」にダイヤルが合う。

 彼女シーは手のひらの靄を広げかけ――――




「……何の真似かしら、魔女ナイアガラ」




 彼女シーの一瞥を受けた魔女はとぼけた顔をする。


「……。……はて、何の真似とは?」


 彼女シーは見逃さなかった。

 ナイアガラはジンと彼女シーが話している間にブツブツと何かを呟いていた。


「また隕石でも呼び寄せるつもりですか?」


 彼女シーは先ほど隕石の飛来した天の彼方を見やり、目を細める。

 メテオごときを受けたところで彼女シーを死に追いやることはできないが、痛みはあるし驚きもするので何度も経験したいとは思わない。


「それとも空間転移魔法で私をどこかに飛ばしてみます?」


 闘技場から脱出する時にナイアガラは転移魔法を使っていた。

 あれで彼女シーを靄だらけの戦闘領域の周縁や海の真上に送り込むつもりかも知れない。


 もっとも、空間転移は「出口」の座標を指定しない限り発動できない。

 そして靄の漂う場所は次元の裂け目であるため出口に指定できない。海の真上なら彼女シーはすぐさま靄で帰還できる。

 当然、石壁の中に彼女シーを送り込むことも不可能だ。


 ナイアガラが何をしようと自分の完全性は揺らがない。

 彼女シーは心中密かにほくそ笑む。


(……)


 だがナイアガラは答えなかった。

 そしてどういうわけか、彼女シーに何らかの異変が起こる気配も無い。


 十秒。

 二十秒。

 とうとう彼女シーは不快感を露わにした。


「……何を詠唱したの」


 魔女はにたりとよこしまな笑みを見せる。


「詠唱した? ちと違うの」


 ナイアガラは出来の悪い弟子を諭すかのごとく人差し指を立てる。


「詠唱『していた』じゃ」


「……?」


「遅延詠唱じゃ。妾は詠唱と発動の因果を逆さまにすることができる」


「知っています」


「ではお主、状態異常というものを知っとるか?」


(……こいつまさか、私に何かしたの……?)


 彼女シーは我が身に異常が起きていないことを確認した。

 確認するまでもなく、彼女シーに状態異常の類は一切効かない。


「ひと口に状態異常と言っても色々あっての。毒、麻痺、混乱、暗闇、封印、石化……魅了に恐怖に火傷、凍結なんてものもある」


 それから、と魔女は続けた。


「ゾンビにカエル、豚にハエ、ネズミ。小人にヤドカリへの変化も状態異常じゃ」


 彼女シーは魔女の意味不明の講釈が命乞いの類だと解釈した。

 ジンの行為を見咎めた彼女シーに対して自分の有用性を示し、生還させようとしているのだと。

 涙ぐましい語りの続きは、しかし、彼女シーの予想外のものだった。


「『HP1』」


「……。何ですって?」


「何の数字か分かるか? 『HP1』じゃ。力はゼロ。体力もゼロ。魔力も素早さもゼロ。当然、MPもゼロ」


 この女まさか錯乱しているのか。

 それともジンが何かするために彼女シーの注意を引いているのか。

 そう思ってちらりと勇者を見るが、彼は動く気配が無い。


「正解はお主の作り出す『靄』のステータスじゃ。さっきチラっと見ておいたんじゃがの。まあ、そういうことじゃ」


「……!」


 その瞬間、彼女シーの本能が警鐘を鳴らした。

 神にあるまじき感覚ではあったが、幾つものダンジョンを踏破し、巨悪と呼ばれる存在を打ち倒した彼女シーの泥臭い戦闘経験が理屈に先んじて「何か」を感じ取ったのだ。


「覚えておくがいい。魔法とは殺すばかりが能では無いのじゃ」


 彼女シーはダイヤルを確認し、ナイアガラとジンに照準を合わせる。

 『靄』を手の平に。

 サイズは「海」。


 何もかもまとめて宇宙の果てへ飛ばす。


「消え――――」

 

 なーお、と足元に猫が戻って来る。


「では『戻して』やろう。遅延詠唱。『トゥインクルヒール』」






 こんなはずじゃなかった。

 ジンファンデルはそんなことを考える。

 一撃で仕留められるはずだったのに、と。






 ――――まさか二撃目が要るとは、と。






 がくんと彼女シーの体勢が崩れる。

 何の前触れもなく。


 いや、前触れはあった。


「え……?」


 足元へ目を。

 彼女シーの片脚は『何か』に吸われかけている。

 彼女シーの目は『何か』を咥えた黒猫へと動く。


 猫はネズミを咥えていた。

 そのちっぽけな生き物に彼女シーの脚が吸い込まれていく。


 ネズミ。

 こんな場所に何で――――


(あ……)


 靄は発動後も残留する『生成物』だ。

 魔女ナイアガラはジンファンデルが密かに放った『靄』に状態異常魔法をかけてカエルに変えた。

 それを黒猫が――――

 そして今、ネズミが状態異常を解かれて元の姿に――――


 脚が消――――


「……本当に無敵ならあんたは独りで居るべきだった」


 最後に彼女シーはジンの声を聞く。


「言っただろ。何でもできるって」


 次の瞬間、彼女シーと黒猫は影も形も無く消え去る。

 黒色火薬の失敗作が燃えるような、ひゅぼっ、という音だけを残して。






















 一時間ほど、二人はその場に待機していた。


「……」

「……」


 ジンは脱出用の靄と攻撃用の靄を用意し、ナイアガラは自動蘇生リザレクションを掛けた上で、ありとあらゆる補助魔法でステータスを高めている。

 警戒を解いた瞬間に脚元からぐさり。背中からばっさり。顔面をがぶり。

 敵を倒した後に油断すれば何が起きるか、二人はよく知っている。


 更に一時間が経過したところで、ようやく二人は肩を落とす。


「もう良いかの」


「だと思いたいな」


 ジンファンデルは靄を消滅させ、長髪をかき上げた。

 汗が掌でぬめる。体温も少々下がったように感じた。


「行き先は何か真っ暗でヤバそうなところにしておいた」


「ほお。術者に選べるのか」


「慌てて作ったから精度に自信は無いけどな」


 宇宙。

 すなわちあの青空の向こうにどんな世界が広がっているのか、ジンファンデルは知らない。

 星が息づいていることぐらいは知っているが、生物が棲んでいるのかどうか、そもそも人間が生存可能な環境なのかすら分からない。

 その最果てに吹き飛ばされた彼女シーに何が起きるのかも。

 まあ、永続自動蘇生キープリザレクションとやらがあるので死にはしないだろう。

 靄を覗き見た様子だと生き延びることもできないと思うが。

 つまり――――どうなるのかはよく分からない。戻って来れないことだけは確実だ。


「一応、こっちは成功してるはずだ。何か空気の感じが俺達とピタっと合ってる」


 ジンが脱出用の靄を示すと魔女は眉の両端を下げて困り顔になる。


「曖昧じゃのう。……ほれ、二人を戻すぞ」


 ナイアガラが詠唱を終えると、宙に淡雪を思わせる光の粒が舞った。

 それらは一点に集まり、鍔広帽の剣客リースリングと甲冑姿の姫騎士シュナン・ブランが現れる。


「……む」

「え?」


 呆然とする二人は周囲を見回し、ジンとナイアガラを認める。

 ややあって、剣客が髭を指先で整えた。

 彼は死に慣れている。


「あいや。終わったのかね」


「ああ終わった。大変だったよ」


 剣客と拳を打ち鳴らしたジンは尻から地面にどっと崩れ、あぐらをかいた。


「おーい。生きてるか姫様ー」


「生きてます。……うう。何か目がムズムズするような……」


 蘇生によって記憶は混濁しているものの、「目を潰された」という事象を肉体が覚えているのか、姫騎士は目をごしごしと擦っている。

 二人の健在を見届けた魔女はほっとしているようだった。


「ナイアガラ。カルガネガは戻せるか?」


「魂魄の組成から弄らねばならぬ。ちと待て」


 魔女もまた地面にあぐらをかき、うんうんと唸り始めた。

 めくれ上がったローブから生白いあんよが見えていたが、咎めることもできないほどジンは疲れていた。

 本当に、ジンは疲れていた。








 鎧を着た骸骨戦士カルガネガはまず我が目を疑った。

 眼球は持ち合わせていないが、ともかく。


 彼は淡い光の粒が肋骨の中を漂う感覚に仄かな温もりを覚えていた。


「……!」


 首を巡らせばジンとリースリング、シュナンの三人があれこれと言い合っている。

 見下ろせば魔女ナイアガラの姿。

 頭二つか三つは違うので大人と子供のようだ。


「済まんの。待たせてしまって」


「……」


 カルガネガはほとんど何も覚えていない。

 この世界へ飛ばされたことと、理解できない言語で女がぺらぺら喋っていたことぐらいしか記憶に残っていない。


 ただ、空っぽの頭蓋骨には奇妙な感情が残っていた。

 笹の葉に残る雪解け水のように清らかな感情が。

 カルガネガは自然とナイアガラの小さな頭を撫でていた。


「! な、なぜ撫でるのじゃ!」


「……」


 自分にも分からない。

 その微妙なニュアンスは魔女に伝わらない。


 土地にもよるが、カルガネガやジンファンデルの世界では生死がいささか曖昧な状態にある。

 死者は蘇り、生者はすぐに死ぬ。

 死とはすべての終わりではなく、一時的な生の中断に過ぎない。痛みが無ければそれを眠りと錯覚する者すらいるだろう。

 亡き母を想って涙する娘がいる一方で、蘇らせるのは孫が出来てからでいいと実母の骨を物置にしまう貴族がいる。

 死生の壁が半壊したことで失われたものがある。


 だが価値あるものは変わっていないとカルガネガは考える。

 それをこの魔女ナイアガラが手にしたことを骸骨戦士はおぼろげながら覚えていた。

 人付き合いが下手で、人と関わろうとしないこの娘が率先して何かを為そうとした瞬間のことを。

 それが彼には我が子のことのように嬉しかった。

 自らの声帯を震わせて想いを伝えられないことは少々寂しかったが。


「何じゃこのホネめ。訳の分からんことを……」


 ナイアガラは顔を紅潮させ、しどろもどろになった。


「わ、わらわはやるべきことをやっただけじゃ。褒められる筋など無いぞ」


「よう」


 ジンはカルガネガの頭をこおんと剣の柄で叩いた。

 通りすがりの酔っ払いがそうするように。


「お帰りさん」


 姫騎士が眉を寄せたが、骸骨戦士は気を悪くするでもなく頷く。

 それじゃ、とジンは魔女に向き直った。


「他の世界の連中もだ。北光ほっこうとか秋鈴しゅうれいも蘇生してやってくれ」


「簡単に言いよる。どんな死に方をしたかも分からぬと言うのに。顔もうろ覚えじゃぞ」


 だがナイアガラは「できない」とは言わなかった。

 人を蘇らせること。人を殺すこと。

 それらは彼女にとって至極簡単なことだった。少なくとも、人を理解したり、人の間で生きるよりはずっと。


「あいや、ジン」


 口を挟んだリースリングが鍔広帽をやや目深に被る。


「選ばなくて良いのかね。蘇らせる者を」


「!」


 シュナンが身を強張らせた。

 ジンファンデルもまた思い出していた。

 好戦的な火炎の男、水の刃の男、髭面の男、それにジンを怨んでいるであろうセキレイやガルナチャのことを。


「この靄があれば元の世界へ戻れるそうだが……果たして全員を元の世界へ帰してやるべきだろうか。死なせたままの方が良い者は居なかったかね」


 ジンは少し考え、言う。


「居なかったな」


「あいや。そうか」


 聞く前から答えが分かっていたような口ぶりで剣客は品の良い微笑を浮かべる。


「……いいのですか」


 姫騎士は納得していないようだった。

 無理も無い、とジンは思う。

 だが彼は彼女シーではない。

 命に物差しを添えるつもりはない。


「蘇らせた後で食って掛かってきたら殺せばいい。その時は止めやしない」


「……」


「板切れを取り合うことにはなったが、元は同じ船に乗り合わせた客同士だ」


 未だ憮然とするシュナンの肩を叩き、ジンは魔女へと近づく。


「じゃ、ちゃちゃっと頼む」


「妾が言うのも何じゃが……命を軽く扱うのう、お主は」


「ああ。軽いよ」


 ジンは嘆息し、天を仰ぐ。

 星も雲も見えない、掴みどころのない青空を。


「だから取り返しがつくんだろ」





















 蘇った者たちの反応は様々だった。

 

 喜ぶ者、恐縮する者。

 怒る者、何も言わない者。

 説明を求める者、混乱の余り嘔吐を繰り返す者。


「げえげえ吐くでない! 眠っとれ!」


「はぅん!」


 ナイアガラが指を一振りすると制服姿の男、甲斐路虎助かいじとらすけは深い眠りに落ちた。

 倒れ込む身体をカルガネガが支え、離れた場所にそっと横たえる。


「軟弱な男もおるものじゃの」


「あいや。そう仰るな。戦いの無い世界というものもある」


 快力オルゴンを操る面々はけろりとしており、秘精ヌミノース使いの少年ですらしっかりと二本脚で地に立っている。

 ガルナチャはナイアガラの視線に気づくと、怯えたようにセキレイの背後へと隠れた。


(嫌われたものじゃの。……ま、お互い様か)


 魔女はカルガネガを消滅させられた怒りを押し殺し、ガルナチャから視線を引き剥がした。

 そして近くに佇む人物に声を掛ける。


「おい、髭」


 蘇生したばかりのオリヴァー・"デラウエア"・マイヤーズは今まさに自分の髭面を手で撫で回しているところだった。

 肉の焼け焦げる感覚を覚えている彼は未だ己の蘇生を信じていない。

 神のことは未だ強く信じているが。


「……」


「これ、呆けとらんで起きぬか」


 びしりと眉間を指で弾かれ、傭兵はうろたえる。

 その手は反射的に銃へ伸びかけたが、どうにか押し止めることができた。


「おぬし、皆で助かる方法があると言いおったな」


「……?」


「覚えとらんか。最後まで生き残った後、わらわと何をするつもりじゃった?」

 

 それは今やナイアガラにとって大した問題ではなかった。

 現に彼女シーは死に、誰一人欠けることなくこの大地に立っているのだから。

 単なる好奇心から彼女はデラウエアにそう問うていた。


 ぽうっと記憶の海をたゆたっていた髭面の男は井戸に落とした桶を引き上げるようにゆっくりと思考を取り戻す。


「ああ……。お前、魔法を使えるだろう」


「うむ」


 ナイアガラは確信と共に頷いたが、デラウエアは数秒思考し、告げる。


「人を別人に変えることはできるか」


「できる」


「ならいい。元の世界へ戻れるのは生き残った『二人』だけだ。お前が生き残り全員を二種類の人間に変えてしまえばいい」


「……」


 つまりこういうことだろうか。

 最後まで生き残ったデラウエアがナイアガラを蘇生させ、自分が死ぬなりもう一人の勝者を殺すなりして『ナイアガラと誰か』の勝利が確定した状態を作る。

 その状態で他の全員を蘇らせ、魔女が全員を『ナイアガラと誰か』のいずれかの姿に変身させれば、人数こそ十数名になるがその場に立っているのは『二人』。


「……。そんな頓智でこの状況をどうにかするつもりじゃったのか」


 彼女シーは嗜虐的と呼んでいいほど性格のねじれた女だった。

 とてもではないがデラウエアの案が通るとは思えない。


 いや、逆に通るのだろうか、と魔女は考える。

 彼女シーにも面目があったはず。

 全員を蘇生させた状態で今の話を突きつけられたら、論破できない限り飲まざるを得ないのかも知れない。


 今更考えても埒も無いか、と魔女は肩をすくめた。


「悪魔は自らの舌に喉を刺し貫かれるものだ」


「悪魔? シーとやらのことか?」


「ああ。あれは悪魔だ」


 デラウエアはそれ以上の言葉を発せず、黙考に沈む。










 ジンは『靄』の前に座り込み、じっと中を覗き込んでいた。


「これ、ちゃんと帰れるんですかね~」


 その横にひょいとオレンジマスカットが屈みこむ。

 テンポ遅れて、甘い少女の香りがジンの鼻腔を侵す。


「たぶん大丈夫だ。何かこう……あんたとピタっと合うんだよ」


「ぴた?」


 ぴたりと頬に頬を押し付けられた。

 その無邪気な仕草にジンはおふっと息を漏らす。


(何つう無防備な……)


 娼婦とはまた違うし、淑女ともかけ離れている。

 世俗の汚れを知らないまま肉体だけが成長したような少女。

 こんな女はジンの世界には居ない。


 照れ隠しに靄の向こうの世界を透かし見たジンはうっと声を詰まらせた。

 そこには黒と黄色の毒々しい色合いを放つ生き物が空を埋め尽くしている。


「何かでかい蜂が見えるんだが、大丈夫かあんたの世界」


巨蜂きょほうが見えるのなら間違いないわね」


「うおっ」


 深緑の髪が黒紫へと変じ、勇者はひっくり返りそうになる。

 それまでとは打って変わって落ち着いた声。

 背中の羽も薄羽から肉の厚い蝙蝠の翼へと変じていた。


「それじゃ、帰らせてもらおうかしら」


 ロザリオビアンコは艶めかしい仕草で髪を払う。

 彼女は恩義に報いるため少しだけオムの魅力をジンにおすそ分けしてやったが、これ以上のサービスは不要だと考えていた。

 男が女に貢ぐのは当然であり、女がそれに気おくれを感じる必要は無い。


「あまりお話ができなくて残念ね」


 これっぽっちも残念そうな響きを持たない声。

 ジンはしたたかなこの女に対して徒っぽい笑みを向ける。


「いいや。アンタには助けられた。色々とな」


「あらそう? それじゃ遠慮なく感謝してもらおうかしら」


 ロザリオビアンコは燕の速さで空高く舞い上がり、銀氷天ぎんぴょうてんよりも更なる高みへと昇り詰める。


「はー……」


 習得ラーニングできないことが悔やまれるほど惚れ惚れするような飛翔だった。

 快力オルゴンの面々も、ナイアガラやカルガネガも、空飛ぶ少女を興味深そうに見上げている。

 レオタードから伸びる白脚に生唾を呑む者も何人か居た。


「それでは皆様、御機嫌よう」


 蝙蝠の翼で大気を叩き、長い脚を組んだロザリオビアンコは重力に縛られた面々を睥睨する。


「願わくばもう二度とお会いしませんことを」


 ロザは背中側へ身を倒し、そのまま大地へ向かって急降下した。

 誰かがあっと声を上げたところで彼女の髪は深緑色へと変わり、大地に激突する寸前で一回転。

 そこには靄へ向かって一直線に飛ぶオムの姿があった。

 彼女は地面と水平に飛翔しながらジン達を振り返り、無邪気に手を振る。


「さよーならー! 生き返らせてくれてありがとー!」


「おー。もう捕まるんじゃないぞ」


 ジンが手を振ると、オムはぷうっと頬を膨らませた。


「虫じゃないよぉ」


 声が遠ざかる。

 空飛ぶ少女オレンジマスカットは一直線に靄へと飛び込んだ。

 ぼふっと黒煙が漏れ出し、靄が消える。


「ジン。鼻の下を戻さんか」


「へいへい」


 続いて前に出たのは銃をベルトに差した傭兵デラウエアだった。

 靄は既に人数分作られており、彼の世界へ続く一つがジンの手の動きに合わせてふよふよと近づく。


 空飛ぶ人間も、魔法使いも、巨大ロボットも、黒い靄も、デラウエアの世界には存在していない。

 まるで夢を見ているようだ、と彼は思う。

 もっとも、夢から醒めた現実には悪夢が待ち構えている。


(……)


 靄の奥には白い女、蝋女ろうめの姿があった。

 デラウエアを待ち受けるのは蝋燭の化け物だ。

 

「……」


 ざり、ざりり、と砂を踏む度に矢のような視線が突き刺さる。


 彼はこの世界で二人の命を奪っている。

 制服姿の少年と、魔女。

 彼の危険性を認識している者は少なくない。


「……」


 甲州の視線が突き刺さり、ガルナチャの視線が突き刺さり、翡翠の視線が突き刺さる。

 視線だけで少なくとも三本の矢を突き立てられた傭兵は、しかし罪悪感をほとんど覚えない。

 こちらの世界で殺したのはたった二人だが、元の世界では数えられないほど殺している。

 そしてもうすぐ――――


「これ、ヒゲ」

 

 魔女ナイアガラが靄と傭兵の間に立っていた。

 ハロウィンパーティーから飛び出したかのようなその姿にデラウエアは張っていた緊張の糸を少しだけ緩める。

 緩め、すぐに引き締める。


「何だ」


「あまり人を殺めるでないぞ」


「……」


 ナイアガラは知っている。

 彼の手からは鉄と尿の混ざったような独特の異臭が漂っていたことを。


 この男は決闘を繰り返してきたリースリングよりも遥かに多くの人間を殺している。

 そしてジンとは違う方向性で彼は命を軽んじている。

 魔女はそう感じていた。

 

「要らん世話だ」


 デラウエアはナイアガラを通り過ぎ、靄へ片脚を突っ込もうとする。

 ブーツの踵が靄へ触れた瞬間、魔女は呟く。


「人を殺せば心がすさむ」


「……」


「ヒゲ。お主が何に忠誠を誓っておるのかは知らん。じゃがの、人の心を荒ませてまで――――」


 ひゅぼう、という音。

 ナイアガラが振り返った時には既に、オリヴァー・"デラウエア"・マイヤーズの姿は無い。


「説教は嫌いだとよ」


 ジンは軽い言葉を放った。

 ナイアガラはゆるく頭を振り、靄の消えた跡に背を向ける。

 かくも人と人との心は遠いのだ。

 そんなことを考えながら。



「翡翠殿」



 乾いた空気に響いたのはシャールドンの声だった。

 他者を威圧する響きのある声。

 シュナンとリースが得物に手を置き、ジンも掌が汗ばむのを感じる。


「我らの世界へ帰りましょう。ここはいささか埃が多い。御髪おぐしが汚れます」


「……お心遣いどーも」


 羽兜を被ったセーラー服の少女、狩峰翡翠かりみねひすいは振り向く。

 視線の先には赤髪の義弟。


「甲州。行こう」


「うるせえ。その靄は一人用だろうが。さっさと一人で行け」


 シャールドンは一度も振り向くことなく五つ並んだ靄の一つへ踏み込み、そして消えた。

 翡翠はジン達に一礼した後、別の靄へ吸い込まれる。


「ミスター・ジンファンデル。この度は感謝しても――――」


 稲穂秋鈴いなほしゅうれいはジン達に頭を下げた。


「待った。もういいってさすがに」


 一生分の礼を受けたジンはげんなりしながら秋鈴を手で制する。

 糸目の秋鈴は小さく笑うと、やや躊躇いがちに続けた。


「そちらの世界に繁栄することを願っています」


 躊躇の理由は侵略だろう、と巨視的な観点を持つシュナン・ブランは考える。

 この役人気質の男は靄を使って自国へ攻め込まれることを危惧しているのだ、と。

 それは無用な心配なのだが、シュナンがどう説明すべきか悩んでいる内に別れは済まされていた。


 一礼の後、秋鈴は靄の中へ。


「……で、おぬしは何じゃ。何か言いたいことでもあるのか?」


「……」


 カルガネガは腕を組んだ。

 彼はほとんど記憶が残っていないし、赤髪の男の言葉すら理解できなかったが、彼の怒りの矛先が自分に向けられていることを感じ取っている。


 一方の甲州は表情に苛立ちを滲ませていた。

 助けられたことにまで怒りを覚えるほど性根が歪んでいるわけではないが、彼はとにかく腹立たしかった。

 腹立たしい反面、感謝もしていた。


「……!」

 

 犬が唸るような声と共に紅島甲州べにしまこうしゅうはジンに中指を立てる。

 心地良い眠りをかき乱されたことへの怒りと、心地良い眠りから覚ましてくれたことへの恩義が彼に暴力を許さなかった。


「お?」


 ジンファンデルは歯を剥いた甲州をしげしげと見つめ、ナイアガラやカルガネガ、シュナンやリースと目配せし――――


 ――――五人は満面の笑みで中指を立てる。


「挨拶じゃねえんだよ! カスが……!」


 どおん、と一度だけ肩から炎を噴かすと、紅島甲州べにしまこうしゅうは靄の一つにずかずかと歩み寄った。

 最後にぼりぼりと頭を掻き、すぼん、と赤髪の戦士が靄へ消える。


「じゃあな」


 声だけが残され、ジン達の耳に届いた。

 

「おかしな奴じゃのう」


「……あいや。彼はどことなく貴女に似ていますな、ナイアガラ殿」


「はあ?! どこがじゃ?」


 カルガネガが頷くと魔女はぽかぽかと剣客と骸骨戦士を交互に殴った。


「ん……」


 最後の一人、セキレイはガルナチャの両頬を手で包み、唇を重ねているところだった。

 長い長い挨拶が終わると粘液質な糸が二人の唇を結び、ぷつりと切れる。


「いい男になりなさい」


 セキレイが身を離そうとするとガルナチャは彼女をぐいと引き寄せ、唇を吸った。

 年下の男にいいようにされる感覚に金髪の女丈夫はしばし我を忘れる。

 ややあって唇を離した少年はセキレイの耳元で囁いた。


「僕、もういい男になったつもりですけど」


「……ばーか」


 セキレイはトンファーの一本をガルナチャの胸に押し付け、少年の紫色のスカーフを奪い取った。


「バイバイ」


 少しだけ名残惜しそうな視線を交わし、二人は永遠に別れる。

 最後の戦士を吸い込んだ靄を少年はしばらく見つめていた。


「あー……じゃあそろそろ俺も帰るわ」


 そう呟いたのは夜坂北光よるさかほっこうだった。


 彼は蘇生後すぐにコクピットに引きこもり、他の者たちと言葉を交わさなかった。

 シャールドンやオレンジマスカットもそうだが、何よりジンとどんな顔をして話せば良いのか分からない。

 今もって彼の軽々しさは好きになれないが、向こうは本気の殺意を向けた北光に対して特に何の感情も抱いていないらしく、それがまた落ち着かない。


「待ていホッコー。……カルガネガ。先にこやつを」


 魔女の言葉でカルガネガが眠る虎助をひょいと担ぎ、薪を放るような気軽さで靄へ放った。

 ひゅぼ、と。

 結局誰とも言葉を交わさなかった少年は闇の中へ。


「……いや、説明責任ってあるんじゃねえの?」


「知らんで良いこともあるじゃろ」


 それもそうか、と北光は銀氷天ぎんぴょうてんのレバーを握る。

 動き出した計器が小気味よい音を立て、程良く温まったエンジンから拍動にも近い振動が伝わった。


「で、誰も何も言わねえから言うんだけどさ、魔女の姉さん」


「何じゃ」


「俺、マジでこの格好で帰るわけ?」


 メインカメラに現在の銀氷天の姿が映し出される。

 白銀の鎧武者の欠損した手足には――――毒々しい紫色の豪腕と数本の青い触手を束ねた腕が生えている。

 紫色の腕には剣のような爪が何本も生えており、触手からは得体の知れない液体が滴っていた。

 脚は百年生きた樹木ほどに太く、黄土色の鱗に覆われている。

 健在だった部位も結局バランスを取るために切り落としてしまったため、今や銀氷天は光片子で構成されない部分の方が多い。

 それだけでは重かろうとナイアガラは六枚の翼まで用意してくれた。ロザリオビアンコのそれに近い、真っ黒な翼だ。


「何じゃ。物足りぬのか?」


「いやそうじゃなくて」


「お主がふれーむふれーむ言うから足したんじゃろうが」


 言った。

 確かに言った。

 フレームが欠損した今の状態で元の世界へ戻れば危険だ、と。

 だがだからといって怪物の手足を移植してくれとは一言も言っていない。


『いいじゃないですか北光。この方が格好いいです』


 透ける黄緑色の少女がひらりとメインカメラの前へ。

 先ほどまで電子立像のケーキを並べ、「北光復活祭」を一人で開催していたミュスカデは口の端にクリームをくっつけたままだった。


『以前より有機的な動作が可能になったことで生存率が大幅アップです。この部位の駆動に動力が要らないというのも手放しで喜べます』


「発見率と被弾率も大幅アップしてるだろ」


『……でも、もう北光が死なずに済むかも知れないじゃないですか』


 その瞬間だけ微かに寂しさを見せたミュスカデは北光と同じ背丈にまで巨大化し、シートを抱くようにして主に重なる。

 夜坂北光はミュスカデの体温を錯覚する。

 本物の少女のように甘く柔らかな身体の感触も。


『私、一人ぼっちはイヤです』


「そうだな」


 北光の手がクリームのついたミュスカデの唇に伸びる。

 だがその手はするりと少女をすり抜けた。


「どいつもこいつも色に狂いおって……帰ってからやれい」


 魔女の憮然とした声で二人は身を離した。


『では皆さん、さようなら。式にはぜひいらしてくださいね』


「やらねーよ。ったく」


 銀氷天の脚が地を離れる。

 翼とバーニアを得た機体は過剰なまでに高く飛んだ。

 じゃじゃ馬になったな、と北光は苦い笑いを浮かべる。


「北光!」


 ジンが声を投げた。

 彼自身も疎まれていることに気付いているのか、声には慎重な響きがあった。


「悪いな、殺しちまって」


「……いや、こっちこそ悪かった」


 釈然としない思いは残ったが、北光は既に気持ちを切り替えている。

 靄の先に待つ彼の世界は死とスクラップの嵐が絶えず吹き荒れている。

 ほんの少しの躊躇が命取りだ。


「死ぬなよ」


「お前もな。……いや、お前は死んでいいのか」


 銀氷天ぎんぴょうてんが魔物の腕を一振りし、飛翔する。

 銀色のゴーレムは宙に浮かぶ小さな靄へと吸い込まれ、消えた。


「……」


 鎧武者の巻き起こした風がガルナチャの髪をさらさらと揺らしている。

 彼は既に自分の靄の前に立っており、立ち去ろうとするところだった。


「おい」


 呼び止められ、少年は険しい表情で振り返る。

 彼に近寄ったジンはきまり悪そうに頭を掻いていたが、やがてその手を差し出した。


「色々、悪かったな」


「……」


 トンファーを携えた少年はその手に応じなかった。

 代わりに女のそれと見紛うほど柔らかな口唇から言葉がこぼれる。


「……勇者」


「あ?」


「勇者って呼ばれてるんですか、あなたは」


 ジンはいささか気恥ずかしそうに言葉を濁した。


「あー、まあ、そういう仕事だな」


 でも、とジンはある種の誇りを胸に続ける。


「一応、俺は勇者だ」


「……」


 少年はしばしの沈黙を経て、息を吸い、そして問う。






「自分一人が勇気に満ちていたら、それが勇者なんですか?」 






 ジンの髪を掻く手が止まる。


「僕やホッコーさんと戦った時、あなたは彼女シーを騙そうとしているようには見えなかった」


「……」


 ジンは全員を蘇生した後、求める者には説明責任を果たした。

 靄のこと。

 自分の習得ラーニングのこと。

 彼女シーの不意を突かなければならなかったこと。

 魔女ナイアガラが居なければ全員の生還は難しく、その為、ジンはいささか強硬手段で勝利をもぎ取ったこと。


 すべてに耳を傾けてもなお、ガルナチャは納得していなかった。

 否、納得と言うより「実感」だ。

 ジンの語る理屈は彼の見せた姿と微妙にズレていた。


 ジンファンデルの行動には躊躇や罪悪感といったものがほとんど見られなかった。

 結果として全員を救ってはくれたが、ジンは冷淡で、酷薄だった。


「あれがあなたの本当の姿なんじゃないですか」


「……」


「僕は勇者のことなんて本の中でしか知りませんけど」


 少年はジンに背を向ける。

 肩幅の狭い、小さな背中を。


「あなたの姿を見て、勇気を貰える人っているんですか」


 問いではなかった。

 糾弾に近い断言。


「……。ぁぁ」


 ジンが言葉を見つけるより早く、少年は靄へと身を投げた。

 それが彼なりの勇者への『一撃』だった。


「……さ、て。妾たちも戻ろうかの」


 リースリングが、シュナン・ブランが、カルガネガが、次々に靄へと入り込む。

 彼らはジンとガルナチャのやり取りを聞いていたが、勇者に優しい言葉を掛けることはしない。

 仲間ではあるが、親友ではない。

 各人の問題は各人で解決すべし。

 それが彼らの距離感だった。


 勇者ジンファンデルは慰めの言葉を求めず、ただその場に立ち尽くす。


「ジーン。何しとる。行くぞ」


「ああ」


 能天気な魔女ナイアガラが靄へ消える。

 乾いた大地には毛皮のコートを着た勇者だけが残された。


「……」


 ジンは手に入った経験値を勘定し、相変わらず軽いままの財布の感触を確かめる。

 仲間が死んだ回数。

 失った時間。

 消費した魔力。

 新たに覚えた「敵の技」。


 それから、胸に刺さったまま疼痛を放ち続けるガルナチャの言葉。


「割に合わねえ」


 苦い笑いを浮かべ、ジンは靄の中へするりと身を滑り込ませた。

 そして世界には、誰もいなくなった。

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