第三章

 そこは暗かった。

 暗く、冷ややかで、ごつごつとしていた。

「お待たせしました」

「すまんな、壱介」

 壱介は大きなザックを下ろす。出迎えたのは夜尺と夜筑だった。

「当座の食料とか、頼まれ物とか、何とかかき集めました」

「世話をかける」

 夜尺がもう一度頭を下げる。

「よしてくださいよ夜尺様」

 壱介は笑う。しかしその笑みにはいささかの疲れが見て取れた。

「今までのご恩返しが出来ると思えば」

「外の様子はどうです」

 夜筑の言葉には、壱介はただ首を横に振った。


 


 滝夜叉姫の笑い声を撒き散らすように、周囲に瘴気が渦巻き始める。

「目覚めよわらわの同胞はらからよ!」

 もはや石生界は消え、己の妖術で浮かぶ滝夜叉姫の呼びかけに呼応する様に、地面のあちこちが、まるで土竜の作る塚のように、ぼこりぼこりと泡立ち始める。

 その沸き立つ土塊の泡の中から飛び出したのは手。

 ただの手ではない、黒くくすんだ白い手。細く堅い手。それは骨の手だった。

 地面から突き出したいくつもの骨の手。それがさらに伸びだし、地面をおさえ、その本体が現れる。

 次々と湧き出す骸骨たち。

 あるものはぼろぼろの鎧を纏い、あるものは鍬型の折れた兜を被り、手には錆びた刀を持ち、折れた槍を携え湧き出してくる。

 それはまさに骸骨の軍勢たるものだった。

 その様子を夜都賀王はただ呆然と見つめる。

 すでに石生界は無く、荒れ狂う地面に降り立ち、ただ立ちすくむ。

 足首を骸骨に掴まれようと、錆びた刀で斬り付けられようと、折れた槍で刺されようと、ただ立ち尽くしていた。身に纏った倭文織の陣羽織だけが呆然と立ち尽くす主人を守ろうと、淡く、赤く、輝く。

「若様!」

 夜筑の銅剣が骸骨の群れを切り裂きながら突き進んでくる。後ろに続く夜尺の手に銅鐸は無く、変わりに葛妃が抱きかかえられていた。

「しっかりしてください」

 群がる骸骨をなぎ倒し、夜都賀王に駆け寄る夜筑。しかし夜都賀王は全く反応しない。

「だめだ」

 夜尺は右の肩に葛妃を、左の肩に夜都賀王を担ぐ。

「夜都賀王!」

 その声に肩の上の夜都賀王がかすかに震える。その声は、ハーゼを抱きかかえた桔姫だった。陰陽師の結界で骸骨の群れを押さえ込み、二人の妹が血路を開く。

「これがあなたの目指した結末か!」

 そんなはずないじゃないか! 夜都賀王は叫びたかった。しかし声はおろか、一筋の涙さえ、流れることは無かった。




「酷い有様です」

 壱介は外の状況を語りだす。

「滝夜叉の骸骨どもは町のいたるところを徘徊しています。今のところ一般人を無差別に攻撃するようなことはありませんが、流石の彼女も要石をどうにかすることは出来ないらしく、高札を各地に立てました」

「高札?」

「内容はこうです『五日以内に要石を全て解放しないと手勢を無差別に暴れさせる』」

「脅しか」

「脅しです」

 単純な脅しだが効果的ではあった。しかもそれを一般に流布している。

「我等の扱いは?」

 夜尺の問いに壱介は顔を歪めた。

「高札に……刀自様の名が連名されています」

「なんだと!」

 夜尺がいろめき立つ。

「我等に罪を擦る腹か!」

「あなたたちは大丈夫なの?」

「だいじょう……」

「大丈夫なわけは無いな」

 壱介の答えを夜尺が遮る。壱介はしばらく黙っていたが、頭をかきながら苦笑する。

「佐伯衆は日ごろから戦いに加わっていなかったのが功を奏して今のところお咎めはありません。しかし、風当たりは強い。家から出るのは殆ど無理です。事実上弐姫は休学、参麿は休職。風向きがこれ以上悪くなればやめさせられるでしょうな」

「おまえは? よく出歩けるな」

「わたしは長いですし、その辺はうまくやってます」

「奥さんはどうしたの?」

「……嫁は実家に帰しました」

 沈黙が場を支配する。

「本当にすまない」

「良い、とは言いませんが、覚悟はしていた話です。それよりも刀自様と可坊……大将は?」

「姫様は一命は取り留めました」

 夜筑は静かに答えた。壱介の顔に安堵が広がる。

「それはよかった」

「四つまで要石が解放されていたのが幸いでした。力が戻っていたおかげで凌げた感じです。でももし今要石が再び動かされると……」

 今だ回復を待つ葛妃にとってそれは致命傷になりかねなかった。

「で、大将は?」

 その問いには夜尺、夜筑ともに首を横に振った。

「心が完全に折れてしまっています」

 五月に裏切られ、葛妃が目の前で斬られ、兎萌を自分の手で刺してしまったのだ。そして兎萌の生死は今だ知れない。しかも全ては自分の策で動いていたのだ、その策が成功し、絶頂の際で全てが引っ繰り返った。良かれと考え、考え抜いてした事が、全て裏目に出た。

 古強者でも辛い状況。

 ましてや歳若く経験の浅い可彦にとっては、耐え難い痛手となったのは想像に易い。

「姫様よりも危ういかもしれません」

「可坊は真面目で優しい子だからなぁ」

 壱介はポツリと呟く。

 可彦は全てを正面から受け止めようとして折れてしまったのだ。

「すまんがこれからも物資を頼む」

 夜尺の言葉に答えるように夜筑が分厚い封筒を壱介に渡す。

「これが当面の矢銭です」

「お預かりします」

「それとこれを」

 夜筑はさらに三つの封筒を出す。これもかなり分厚い。

「あなたと弐姫、参麿に。当面の生活費にでも当ててください」

「そんな、こんなに良いのですか?」

「姫様のおかげで資金は潤沢にあるのです」

 夜筑の言葉に夜尺が続く。

「しかし、物資の備蓄は、こんなことになると考えていなかったから、正直怠っていた。金はあっても食えないからな。面倒をかけるが宜しくたのむ。我等はともかく、若は食べずには生きていけん」

「承知しました」

「資金のほかに人脈も築いておいででしたので、姫様がご無事で、風向きが少しでも変われば何とかなるとは思います。それまでの辛抱です」

「はい」

 壱介は深く一礼すると、隠れ家になっている洞穴を辞していった。



「この穴蔵で過ごすのも久しいの」

「姫様! 動いてはお身体に」

「大事無い」

 洞穴の中、中央の広間に現れたのは白い寝着姿の葛妃だった。中央の焚き火に照らし出されるその姿は火照って見えるが、その実、いつにもまして青白かった。

「しかし……してやられたわ」

 葛妃は焚き火の前に座ると両肩を抱く。

「キシュ」

 くしゃみを一つ。

 夜尺は立ち上がると羽織っていた着物を脱ぎ、その背中にかける。

「甘いものでも食べましょうか」

 夜筑は壱介の置いていったザックの中を探し始める。

「壱介さんがいろいろ持ってきてくださいました」

「そうか、奴らは無事か?」

「とりあえずは。勝手ながら蔵から金を出させていただきました」

「それは構わぬ。手間をかけさせた」

「いえ」

 夜筑は手に袋を持って戻ってきた。

「こんなものがありました」

「マシュマロ? またハイカラじゃな」

 夜尺は鉈を手に取ると、薪用に積んであった枝を手に取る。鉈で程よく形を整えると夜筑に渡す。夜筑は渡された枝の先にマシュマロを刺すと葛妃に渡した。葛妃は黙って受け取ると焚き火に当てる。ゆらゆらとゆれる炎に煽られて、マシュマロの周りがしんなりと溶け始め、次第に色付き始める。甘い匂いがほんのりと漂う。

 程よく焦げ目が付いたところで葛妃は火から遠ざけると、息を吹きかけ少し冷ます。そして口へと運ぶ。

 焚き火の爆ぜる音が小さく響く。立ち上る煙がこもるでもなく、何処かへと流れていく。隠れている身なら流れる煙を気にしそうなものだが、誰も気にした風が無い。何か手を講じているのか、それとも、場所自体に秘密があるのか。

 沈黙の中を呟くように葛妃の声が零れ落ちる。

「可彦は、どうしておる」

「別の部屋にてお休みです」

 部屋といっても洞窟なのであろうが、確かにただの穴というわけではなく、快適に居住できる様な仕掛けは施されていた。

「そうか」

 葛妃はそれだけを言うと焚き火を見つめる。折れた心が戻るのにはおそらく時間が掛かるだろう。しばらくはそっとしておくしかない、そう考えていた。

 しかし、可彦の籠る天岩戸は予想よりも早く、中から開けられた。

「美味しそうな匂いがするね」

「可彦!」

「若!」

「若様!」

「そ、そんなに驚かなくてもいいじゃないか」

 向けられた視線に戸惑うように、少しはにかみながら頭を掻く可彦。

 目は少し虚ろで、瞼も腫れ、顔色も青白い。お世辞にも良い格好ではなかった。 かすかに身体が左右に振れて、やっとの思いで立っているのがわかる。しかし、それでも、自分の意思で立っているのには違いなかった。

「僕も食べていいかな?」

「お、おお。無論じゃ!」

 葛妃は手招くと可彦を脇に座らせる。夜筑から枝についたマシュマロを受け取ると可彦に渡す。程なくして再び甘い香りが漂い始める。

「おいしい」

「そうか、もっと食べるか?」

 可彦は無言で頷く。夜尺が手早く串を作っていく。

「そういえば、しばらく何も食べてない気がする」

 三つ目のマシュマロを炙りながら可彦は自分の腹を押さえる。か細いが腹のなる音が控えめに空腹を自己主張した。

「なにかちゃんとしたものをお作りしましょう」

 夜筑はマシュマロの袋を葛妃に預け立ち上がる。

「カレーが、食べたいな」

「出来そうかや?」

 夜筑はザックの中を漁りながら頷いた。

「姉さん、ご飯を炊いてもらえる?」

「わかった」

 夜尺も立ち上がると夜筑と共に広間を出た。

 しばらくすると、甘い香りの漂う中に、食欲をそそる優しい刺激的な匂いが押し寄せてきた。



「慌てるなや」

「うん」

 カレーをゆっくりと運ぶ可彦。立ち上る湯気が吹きかける息で散り散りになると、そこからまた香りが湧き上がってくる。

「おいしいや」

 そう笑う可彦の顔は少し強張り、誰の目から見ても無理をしているのは明らかだった。

「辛い思いをさせたの」

「……うん」

 可彦は否定しなかった。しかしそのことがかえって葛妃を安心させた。辛いことを辛いと口に出せるのは、それを受け止められているからに他ならない。

「食べたらゆっくり休め」

 その言葉に可彦は無言で頷く。

 しかし次の瞬間にはゆっくりと首を横に振った。それは否定というよりも、決意だった。

「そうも言っていられないよね」

 カレー皿にこすれるスプーンの音が、ゆっくりと、しかし次第に忙しなくなる。

「急ぐな、胃が受け付けぬ」

「うん」

 スプーンの奏でる音はアダージョからアンダンテへ、アンダンテからモデラート、アニマート、しまいにはプレスト、プレスティッシモ。有り体にいえば掻き込む状態に。

「おかわり!」

 差し出される皿を見て一同は顔を見合わせる。葛妃が頷くのを見て夜筑は皿を受け取るとカレーをよそる。

「吐いても知らんぞ」

「大丈夫!」

 可彦は皿を受け取ると再びカレーを掻き込み始める。あっという間に二杯目を平らげ、三杯目を求めた時には誰も文句は言わなかった。

「なにをそんなに慌てておる?」

「そと、酷い有様なんでしょ?」

 流石にゆっくリとしたテンポでカレーを運びながら、可彦は指摘する。

「僕たちで何とかしないと」

 カレーを運ぶスプーンがそこでしばし止まった。カレールーをスプーンでかき回す。スプーンが手から離れ、その手が口元に移った。

「見たことか」

 葛妃は可彦の背中に手をやる。

「無理して食べるからじゃ」

「でも早く力をつけて、何とかしないと」

「それはそうかも知れぬが、そう急ぐな」

「時間が無いんだ」

 スプーンを持ち直すと再びカレーを口に運び始める。

「もうやめておけ」

「時間が無いんだ」

 もう一度呻くように呟く。

「入学式までにはけりをつけないと……」

「入学式?」

 皆が皆聞き返した。

それは単純に、純粋に聞き返しただけだったが、その中にただ一つ、響きの違う声があった。過敏になった可彦の心は、その微妙な差異にも気が付いた。

「何か知ってるの?」

 その言葉は夜筑に向けられていた。それはあくまでも何気ない、平凡な問いだった。表面上はそう聞こえた。

 しかしその平凡な問いに夜筑が答えられない。

「何か知ってるの?」

 もう一度問う。同じように聞こえる。しかしそれは質問ではなく、確認だった。

「何か、知ってるの?」

 三度目の問い。

 その口調はゆっくりで、ゆっくりであるが故に振り払うのは容易ではなく、静かに鬼気迫っていた。

「壱介さんのザックの中にあったのですが……」

 そういって夜筑が袂から取り出したのは薄い茶封筒だった。その茶封筒を葛妃に差し出す。

「それ、僕宛だよね?」

 夜筑は躊躇するが、諦めたように封筒を直接可彦に渡した。宛先は佐伯可彦。差出人は今度入学する高校だった。

 封は切られていた。可彦は封筒の中から紙を一枚取り出す。入っていたのはその紙一枚。

 その紙を可彦は食い入るように見る。微かに透ける文字から、そう沢山の文章が書かれているわけではないのがわかる。しかし可彦の目は、何度も何度も左右する。

 おそらくはたった数行の文章。その文章をどれほどの時間をかけて確認しただろうか。可彦は不意にその紙から目を離すと、やけにしっかりと立ち上がる。

「ちょっと食べ過ぎちゃったから、寝るね」

 そのまま紙を茶封筒にしまうと、手に持ったまま奥へ、可彦が寝ていた部屋へと消えていく。

「なにが書いてあったのじゃ」

 予想はできる。出来るが聞かないわけにはいかなかった。

「合格の取り消しです」

 夜筑は淡々と答える。そうしないと口に出すの辛いと言った感じに。

「なに故に」

「素行不良と書かれていました」

「なんと……」

 葛妃の絶句を埋める様に、可彦の消えた先から液状の何かを撒き散らす音が響き渡った。



 異様な臭いが立ち込めていた。

まずはカレーの臭い。しかし決して食欲はそそられず、胃を逆に委縮させるような臭い。それはカレーの臭いに混じった刺すようなすえた臭い、澱むような苦い臭い。

洞穴の凹凸のある地面に撒き散らされた茶褐色の液状の物体が発する臭い。所々に赤や白や黄色の固形物が転がっている。

そこに可彦は跪いていた。

いや、跪いているのではない。両手を動かして掻き集めていた。

その異様な臭いを発する茶褐色の物体を。

自分の吐瀉物を。

「何をしておる!」

 駆けつけた葛妃が可彦を引き起こす。両腕は黄色く汚れ、顔や上半身も飛び散った吐瀉物にまみれ、それでもその顔には、困ったような笑みがこびりついていた。

「こぼしちゃった」

 可彦は起こされた体を、再び傾けて掻き集めようとする。

「しっかりせよ!」

「大丈夫、大丈夫だよ」

 笑う可彦。笑いながら再び屈もうとするところを、葛妃が無理矢理引き剥がす。そのまま通路を抜けて広い空間、部屋の中に引き摺るように連れていく。

「大丈夫だよ」

 まるでこびり付いた吐瀉物のように、同じ言葉を繰り返す。

「ちゃんと食べて少し寝れば、元気になるよ。そしたら全部僕が、片付けるから」

「もうよい、喋るな」

 洞窟の中に設えられた床の上、おそらくはしばらく前まで可彦が寝ていたであろう布団の上に可彦を無理矢理座らせると、まずはその汚れた上着を脱がせ、自分の寝着の袖で顔を拭う。

「僕がちゃんとしていれば」

「もうよいというに」

「大丈夫だよ」

「もうよい」

「大丈夫。僕は佐伯可彦だから。それ以外の何者でもないから」

「そうやってすべてを抱え込むな」

 葛妃は可彦の頭をその胸に抱え込む。

「お前はお前の運命を呪っても良いのじゃ。嘆いても良いのじゃ」

「僕は佐伯……土蜘蛛の末裔……それ以外の僕は……僕なんかじゃ……」

「どうなろうとお前はお前じゃ。抱え込むな、すべてを吐き出してしまえ」

 さらに強く抱きしめる。

「吾がお前を巻きこまねば、このようなことにはならなかったのじゃ。すまぬ」

「僕が……巻き込まれて……」

「そうじゃ、お前は犠牲者じゃ、辛い思いをさせた」

「犠牲……」

 可彦の中の奥深くに、押し込められた感情が嫌な音を立てて軋み始める。軋む音を立てるのは感情そのものではなく、それを抑え込んでいた鎖。その鎖が悲鳴を上げる。

押さえつけられた感情は、怒りだった。

生まれへの怒り、運命への怒り、はるか昔から続く重しが、理不尽にも圧し掛かることへの怒り。

それらの怒りは全く意識することなく、無意識のうちに降り積もり押し込まれ、無意識であるが故に発散されることもなく、ただ心の奥底に昏い悪腫となって固まっていた。

その怒りが、その怒りを縛っていた鎖が、今、放たれた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 奇声を上げて葛妃を押し倒す。黄色く汚れた寝着に手をかけると強引に左右に押し開いた。青白い肌と、薄く、しかし柔らかい胸の膨らみが可彦の眼前に露わになる。

可彦のその顔はいつもの温和な面影はなく、目は血走り焦点も定まらず、頬は強張り痙攣を繰り返し、ただ口元だけがそれまでと同様、こびり付くように笑っていた。

「それでよい」

 葛妃は定まらぬ可彦の目を見つめて穏やかに微笑む。

「吾を喰らえ。喰らいつくしてすべてを吐き出してしまえ」

 そして葛妃は可彦の頭を両手で抱えると、再び静かにその胸に抱き込んだ。



 柔らかい感触が可彦を包んでいた。

 頬に当たる柔らかい感触。

 鼻腔をくすぐる柔らかい薫り。

 耳に流れる柔らかい歌声。

 それは小さい頃よく聴いた気がする、安らかな調べだった。

 顔を上にあげると小さな顔が見えた。奥座敷にいるとき同様、白い着物をきちんと身に着け、巻いた裳の肌触りが、可彦の頬に伝わってくる。

「目が覚めたかや」

 小さい葛妃の顔が可彦を覗き込む。その柔らかい表情に可彦の気持ちも柔らかくなる。気持ちが柔らかくなると余裕が生まれる。余裕は思考を生み、柔らかくなった頭が記憶を呼びさます。浮き上がってきた記憶に可彦の顔が一転硬くなり始める。

「ぼ……」

 可彦が声を上げようとするが、その口を葛妃の人差し指が静かに押しとどめた。可彦の唇に触れた人差し指は甘く柔らかかった。

「夢を見たのじゃ」

 葛妃は静かに告げる。

その静かさが可彦の中に染み渡り、再び静けさを取り戻す。

「夢……」

「そうじゃ夢じゃ」

 その言葉に曖昧で細波だった記憶が凪いでいく。静かに静かに染まっていく。泡沫のように不安と不信の泡が途切れることなく浮かび上がるが、その泡の作る波紋はごくごく小さく。それを眺めて受け入れるだけの余裕が可彦の心にはいつの間にか生まれていた。それは吐き出してできた隙間だった。

「投げ出しても、良いのじゃぞ」

 葛妃は告げる。何を投げ出すのかは言わなかった。

「お前にとっては辛いだけの事なのじゃ」

 葛妃の言葉に可彦は首を横に振る。

「理不尽だと思う。なぜ僕が、とも思う。呪う気持ちは拭いきれない。でもそう思ってなお、僕は僕でありたいと思う。土蜘蛛の末裔、佐伯可彦でありたいと思う。夜都賀王でいようと思う。よくわからないけど。たぶん」

「そうか」

 葛妃は頷く。それ以上はこの話題には触れなかった。 

「もう少し寝ておれ」

「……うん」

 葛妃の膝の上、目を閉じる可彦。しかしすぐに目を開ける。どこからともなく聞こえてくる規則的な振動音。

「またか」

「また?」

「お前が寝ている間、何度もなっておったのじゃ」

 葛妃は袖の下から携帯電話を取り出す。それは可彦の携帯電話であった。

「相手は小娘のようじゃぞ?」

 見透かすように笑う葛妃。

「画面に名前が出ておる」

 画面には兎萌の文字。可彦は奪わんばかりの勢いで携帯を受け取ると、着信をつなぐ。

「ごめん!」

『あ、やっとでました』

 しかしそこから聞こえてきた声は兎萌のものではなく、桔姫のものだった。




「改めて、お久しぶりです。葛妃様」

「戦場で会ったではないか」

「きちんとご挨拶は出来ませんでしたので」

 桔姫は深々と頭を下げる。壱介に案内され、桔姫は葛妃の隠れ家に招かれていた。無論挨拶をするためではない。

「しかし葛妃様」

「判っておる。皆まで言うな」

 葛妃は桔姫の諫言を押し留めた。

「事を急いでやりすぎたのは認める。見誤ったのも認める。しかし千載一遇の好機であったのは確かなのじゃ。結果誤ったが、起こした事が間違っていたとは思っておらん」

「君はそれでいいの?」

 唐突に桔姫の鉾先は可彦へと向いた。

「高校、駄目になったんじゃないですか?」

「桔姫!」

 雷鳴のごとき怒号とは、まさしくこれを指すのであろう葛妃の一喝を、しかし桔姫はまるで突然の夕立に降られたような面持ちで、軽く肩をすくめて受け止める。

「お主が手を回したのか?」

 怒りを喉の奥で轟かせ、葛妃が問う。しかしその問いを可彦が遮った。

「それより兎萌は無事なんですか?」

「兎萌様は御無事です」

 可彦の問いに、少し顔を綻ばせて桔姫が答える。

「もうしばらく安静が必要でしょうけれど」

「そうかぁ。良かった」

 少し血の気のもどった可彦の横顔を見ながら、葛妃は先を促す。

「それより桔姫。挨拶をするためにわざわざここに招かせたわけでもあるまい。吾等とて挨拶をさせるためだけに、危険を冒してこの隠所に招いたわけではないぞ」

「そうですね。そうでした」

 桔姫は焚火を挟み、促されるまま葛妃の向かいに座る。葛妃の脇には可彦が、葛妃と桔姫間に、夜尺と夜筑が向かい合う様に座る。壱介は桔姫の意向で既にその場を辞していた。

「可彦君」

 桔姫は葛妃の脇の可彦に目をやる。

「高校、行きたいですよね?」

「え?」

 焚火の爆ぜる音だけがやけに大きく響く。

「協力してくれれば、お力になれると思います」

「そのために手を回したんですか?」

 遮ったその言葉を可彦が口にした。

「滝夜叉姫を食い止めるということなら、そんなことしなくても協力するのに……」

「そうでしょうか?」

 その言葉を象徴するように、葛妃も夜尺、夜筑も無言だった。さらに爆ぜる音が大きくなる。

「何で黙っているの?」

 その問いに答えたのは桔姫だった。

「可彦君……夜都賀王には、葛妃様を殺していただくことになると思います」



「え?」

 沈黙の中、浮き上がったのは可彦の間の抜けた声だった。余りにも現実感の無い、泡の弾ける様な声。

「滝夜叉姫を止めるって話だよね?」

「そうです」

「話がつながらないよ!」

 身を乗り出して声を荒げる可彦を葛妃がなだめる。

「確かに少し話が跳び過ぎておるの」

「私は曖昧に誤魔化して、判断を迫りたくないのです。この判断の一番重要な点は、そこのはずです」

 可彦は尚も言い返そうとしたが、止めた。

 桔姫はいつも通り平然とした表情をしていた。しかしその手が、堅く、堅く握られているのに可彦は気が付いた。堅く握られたその手は、小さくぶれて見えた。

「解る様に話してよ」

 座りなおす可彦。焚火で顔に出来た影が、今尚深く刻み込まる。

「今回の事の発端は要石の解放です」

 桔姫は誰の顔も見ずに、ただ焚火の炎だけを見つめて淡々と語る。

「これにより葛妃様は力を得ましたが、同じように『まつろわぬ者共』も力を得てしまいました」

「つまりその力を封じる為に要石を操作して再発動させるってこと?」

「そうです」

 桔姫は頷く。

「水戸八景は現在全て滝夜叉姫の勢力化です。無論彼女たちにどうこうできる代物ではありませんが、私達も容易に近づけない。あの骨の軍隊は一人一人は弱いですが、とにかく数が多いですし、統率が取れています」

「それで?」

 可彦は先を急かす。どうしても葛妃を殺すこととつながらない。

「現状、玉座に座れるのは黒坂家の数名と夜都賀王のみです。さらに、あの中を突破して玉座を得るとなると、二人しか成し得ないのです」

 中央から人を呼び寄せれば別ですが、桔姫は小さくそう付け加えた。

「その二人のうち、一人は現在怪我で動けません」

 そのひとりとはハーゼ、すなわち兎萌のことに他ならなかった。

「そうなると、もう一人しかいないのです」

 炎からゆっくりと視線が持ち上がる。

「すなわち夜都賀王、がやるしかないのです」

「話は解ったけど、肝心のことが聞けて無いよ!」

「葛妃様、お加減はいかがです?」

 その言葉に可彦の目は大きく見開かれ、葛妃を見る。確かにあの時、葛妃は斬られたはずだ。そのことを可彦はすっかり忘れていた。

「正直、しんどい」

「要石が四つも解放されているから、無事でいられる。そうですよね」

 葛妃は口元を小さくゆがめる。

 それは微笑みなのだろうが、その試みは余り巧くいっていなかった。それが逆に不安を煽る。

「そんな……」

 目の前で炎が激しく揺れている。

「しっかりせい」

 自分自身が揺れていると気が付いたのは葛妃が肩を抑えてくれたからだった。

「要石をそのままに滝夜叉を倒せばいいじゃないか!」

 声を上げる可彦。

「要石の解放は、土蜘蛛に属するあなた達の力も解放しているんでしょ?」

「それが出来るなら、私達の手ですでに倒しています」

 その答えが返ってくることは可彦にもわかっていた。解っていてなお、言わずにはいられなかったのだ。

「あなた達だけで無理でも、僕たちが加われば」

「滝夜叉の力を侮るなや」

 葛妃がゆっくりと窘める。

「あれの力は今や際限なく膨れ上がっておる」

 宥め聞かせる様に、なだらかに語る葛妃。

「滝夜叉は怨霊として有名じゃ」

 葛妃の奥歯が静かに悲鳴を上げる。

「しかも平将門の娘という肩書きが、それに拍車をかけておる。更にこの騒ぎ、吾らにとって知れるということは、知れ渡るということは、すなわち力じゃ」

「でも刀自様だって、土蜘蛛だって能や歌舞伎になってるじゃないですか。知名度だったら」

「あんなもの、吾等であるものか!」

 静かに語っていた葛妃が突如激昂する。しかしその怒りの鉾先は、誰にでもなく、ただ自分に向かっているようだった。

「大和に破れ、土地を追われ、その存在を忘れ去られてしまわぬよう、止む無く土蜘蛛の名を受け入れて、吾等の存在をつなぎ止めたが、これ以上は耐えられぬ」

 激昂した表情が、次第に悲しみの表情に変わって行く。怒りという炎が、哀しみという水の中に沈んでいく。

「もはや吾等が吾等をなんと呼んでいたかさえ、吾にも思い出せぬ、それどころか……」

 葛妃は呟いた。

「吾は吾の本当の名も忘れてしまった」

「え?」

 可彦は思わず聞き返す。

「葛妃……様じゃ」

「それは、国巣くずきさきと言う意味に過ぎぬ」

 葛妃の声は落ち着いていた。深く深く哀しみの湖の底に落ち着いていた。

「吾等の強さゆえに、吾の強さゆえに、大和は、天津神は吾を恐れ、吾等の名を貶め、吾が名を忘殺した。それどころか……」

 あくまで静かな声。

「文字という凶器を使い、娯楽という毒を用いて、吾等の存在を捻じ曲げた」

 真冬の日の出前のような、静かで凍てつく声。

「吾等は糸など吐かぬ、脚など増えぬ。人肉も食まぬ。吾等は断じて……」

 凍てつく中に炎を抱く声。

「……蜘蛛などではない」

 静かな叫びだった。

「確かにあの姿を受け入れれば、吾等は力を得よう。滝夜叉にも負けぬ力を」

 訥々と……

「しかしその瞬間から、吾は神ではなくただの化物になる。そして化物として、天津神に抗した国津神ではなく、ただの化物として、大和に討たれよう」

 粛々と……

「吾は化物として討ち取られるぐらいなら、神として消えていく道を選ぶ」

 そして沈黙。

 沈黙こそが慟哭そのものだった。

 薄氷のような沈黙が張り巡らされ、誰も一歩も歩けない。一歩を踏み出せばそこから踏み抜いて、深い水の底に沈んでしまいそうで、自分ひとりではなく、全ての人を巻き込んで。

「夜都賀王にやらせよう」

 薄氷を踏み抜いたのは葛妃だった。結局のところ踏み抜く権利を持った人物は、踏み抜く義を背負った人物は彼女しかいない。

 沈み行く中を可彦がもがき叫ぶ。

「そんなのって!」

 しかし言葉が続かない。何を叫んでもすぐに沈んでしまう。悲しみが、怒りが、口を開いたとたんに容赦なく流れ込み、のどを塞いでしまう。

「夜尺、夜筑……桔姫も。夜都賀王を頼む」

 夜筑、桔姫は静かにうなずく。しかし夜尺だけは沈黙したままだった。

「姉さん?」

「承服いたしかねます」

 はっきりと強い口調で夜尺は否を唱えた。

「まるで滅ぶのが前提のような物言い。承服いたしかねます」

「それは万が一ということで」

「万が一などありえない!」

 夜筑の言葉を一撃でねじ伏せる夜尺。その顔を葛妃へと向ける。

「若は負けられぬ戦いに赴きます。ゆえに姫様、あなたも負けられぬ戦いと思し召せ」

 日頃あまり喋らない、どちらかといえば寡黙な夜尺が饒舌に叫ぶ。その重みは圧倒的な質量もをって一面を押しのけ、もはや沈む沈まないの話ではなくなっていた。

「決して滅ばぬ、そうお誓いください。言葉ではなく、己自身でそう信じて」

 夜尺の饒舌はなおも続く。

「もし、仮にもし姫様が滅んだならば、私は蜘蛛の姿を受け入れて、この世界全て、食い殺してご覧に入れる!」

 それはもはや脅迫だった。全てに対する、己自身をも相手に含めた脅迫だった。

 そしてその言葉は誇張ではなかった。

 夜尺とて、かつては一族を率いた長であり、反逆し、討ち取られたものの一人であった。

 その彼女が食い尽くすといった以上、食い尽くすだろう。

 己が身を滅ぼされるまで。

「でなければ……若があまりにも……不憫……」

 最後はすでに言葉にはなっていなかった。言葉にはなっていなかったが、言葉になる必要などないほどに全てを貫いた。

「わかった。吾は滅びぬ」

 葛妃は静かに誓う。

「絶対にじゃ」

「その誓いは私ではなく、若に」

「絶対にじゃ」

 可彦を見つめ、誓う葛妃。

「僕も絶対に負けない」

 葛費の目を見て、可彦もそう言葉を発することができた。言葉は言霊となって、各々の魂の中に溶け込んでいく。




 三台の車が疾走する。群がる骸骨兵を蹴散らし踏み潰し突破していく。

 二台は黒塗りのベンツ。

 もう一台は白いワゴン。脇には佐伯酒店と書かれている。

 青柳夜雨

 三台の向かう先は水戸八景、水戸八卦陣の一つ。

 夜都賀王がはじめに落とした一つ。

 始まりの一つ。

 そこを再び起動させるべく疾走していた。

「おじさんは車の運転があるからともかく」

 夜都賀王は激しく揺れる車の中を見渡す。

「弐姫さんや参麿さんまで来る必要はなかったんじゃないですか?」

「つれないこと言わないでよ、王様」

 弐姫が非難の声をあげる。

「わたしたちだって、これをどうにかしないとどうにもならないんだから」

「そうですよ」

 参彦が言葉を続ける。

「それに私たちだって佐伯衆。一蓮托生です」

「まぁ見ていてくださいよ大将」

 運転席の壱介も、全てを吹き飛ばすように笑う。しかしその笑いには不思議と自棄になっているような印象はない。

「我々だって伊達に佐伯衆を継いでいるわけじゃあないんです」

 さらに揺れが激しくなる。衝撃音がひっきりなしに叩き付けられる。それでも顔色一つ変えないところを見ると、確かに何かあるのかもしれなかった。

「それより王様」

「なに?」

「さっきから目が泳いでるんだけど、何か不安なことでも?」

「えっと、それは……」

「ああそれは」

 夜都賀王の脇に座った夜筑が笑いながら答える。

 ちなみに夜都賀王の前に弐姫が、夜筑の前に参麿が、向かい合わせに座っている。壱介は無論運転席。助手席には夜尺が座っていた。

「車が揺れるたびに弐姫の豊満な乳房が激しく揺れるせいですよ」

「夜筑さん!」

「ええぇ!」

 声を上げる夜都賀王と胸を押さえる弐姫。慌てて脇を見る。参彦はわれ関せずとばかりにそっぽを向いていた。

「さらしぐらい、巻いておけ」

 助手席から夜尺の的確な指摘が飛ぶ。

「わたしはそうしている」

「姉さんも結構大きいからね」

「わたしは……身体が大きいだけだ」

「締め付けると苦しいんだよなぁ」

「こりゃ、いけねぇ」

「おじさんまで! 胸が揺れるのはそんなにいけないの!」

「違うよ! お前のおっぱいの話じゃねぇ! 止めるぞ捉まれ!」

 壱介はバンを急停車させる。何とか持ちこたえる一同。夜都賀王は座席越しに前を伺う。

 そこにあったのは壁。いや、壁のようにひしめき合う骸骨。ひしめき合う骸骨が折り重なり重なり合い、道を塞いでいる。

「どうします?」

「どうするもこうするも、降りて進むしかない」

 外を見れば二台のベンツも止まり、桔姫たちが降り始めていた。

「若」

「うん。いこう」

 夜都賀王は立ち上がる。

「露払いは我らが!」

 そういってすばやく降り立ったのは壱介。それに弐姫、参彦が続く。弐姫、参彦の手には長く大きな鞄が持たれていた。

「え?」

 倭文織に守られた夜都賀王や土蜘蛛の二人とは違い、彼らは人間だ。ある意味最も死に易い。引き止めようとする夜都賀王を夜尺の声がかき消した。

「任せた! 血路を開け! 夜都賀王をお通しせよ!」

「承知!」

 壱介が腰から何かを取り出す。それはズボンに挟んでいたのであろう細長い板の束だった。簾のようにつなぎ合わされ、丸められたそれ……木簡を左手に持ち、右手の指先をなめらかに滑らせる。それはまるで空に文字を書く行為。口からは歌にも似た呟きが朗々と放たれる。

程なくして目の前の骸骨の壁が、空虚な音を立てて崩れ始める。骸骨兵がただの骸骨と還り、支え合う術を無くして崩壊を始めたのだ。元が古い骨だけに、地に落ちるや否や、粉と散り始める。

「いりゃぁぁぁぁぁぁぁ」

 その崩れた隙間に斬り込んだのは弐姫。手に持つのは長大な日本刀。刃の部分と柄の部分がほぼ同じ長さの長巻と呼ばれるものだった。

 横に薙ぐと、薙いだ長さに居た骸骨兵が崩れていく。

 縦に振ると、直線に並んだ骸骨兵が次々と崩れていく。

 弐姫を軸にした刃の独楽が当たるを幸いに巻き込んでいく。しかし骸骨兵の数は今なお多く、印象よりも機敏な動きで、何の躊躇もなく取り囲んでくる。

「弐姫!背後は任せろ!」

 その狭まる囲みを幾本もの軌跡が貫く。

 それは参麿の放った矢。

 手にした長弓に次々と矢を番えては放つ参彦。まさに矢継ぎ早に放たれる矢は、その速度や威力もさることながら、その正確さが武器だった。

 矢の強さは一点を貫くところにある。

 しかし相手は骸骨。隙間だらけで肋骨や腕などに当たったところでそこが壊れるにとどまり、動きを止めるまでには至らない。

 だが参麿の矢は正確無比に骸骨兵の背骨を貫いていた。全身を支える背骨を砕かれてはひとたまりもない。

 しかも一本の矢で同時に二体三体と仕留めていく。

「佐伯衆は健在ということですか」

 桔姫が呟く。

「すごい……」

 夜都賀王も絶句する。今まで彼らは支援専門であり、表立っての戦いは出来ないものと思い込んでいた。

 しかし真相は違った。戦えるのに、それこそ一騎当千と言えるほどの力を持ちながら戦わなかったのだ。

「姫様は彼らの生活を危惧されたのです」

 夜筑が静かに答える。

「武をもって中央に歯向かっては、法に縛られる人間である彼らは面倒になりますから」

「感心していないで急いでください」

 木簡をかざし結界を張りながら壱介が叫ぶ。

「この数じゃすぐに穴は塞がっちまう!」

「わかった!」

 まずは夜尺が、その脇には桔姫がそれぞれの得物を振りかざして囲みの穴に突進する。続いて夜都賀王と夜筑が、そして滝夜叉対策の陰陽師二人が、最後に桔姫の妹たちが、次々と飛び込んでいく。

「おじさんたちは!」

 夜都賀王はすれ違いざまに叫ぶ。

「俺たちは何とか持ちこたえます」

 壱介が叫ぶ。

「でも長くは無理ですから、急いでくださいよ! 大将!」

「わ、わかった!」

 夜都賀王の腰から、直刀の太刀が抜き放たれた。




「来たわね」

 側近の耳打ちに頷くと部屋に設えられたソファーから滝夜叉はゆっくりと立ち上がる。

おそらくはホテルの一室、スィートルーム。

チャイナドレスの深いスリットからのぞく足がゆっくりと送り出され、二歩、三歩と前に出る。

顔には笑み。

悪びれも、屈託もない、笑み。

ただその笑みの持つ妖艶さだけは消しようもなく、すべてを蠱惑するように滲み出て、辺り一面に甘い瘴気となって立ち込めていた。

「場所は?」

「青柳夜雨のようです」

「初めの場所ね。わかりやすいこと」

 滝夜叉は笑う。その笑いがさらに甘い瘴気となって部屋の中を満たしていく。

夜叉丸やしゃまる

 黒スーツの男が跪く。

蜘蛛丸くもまる

 もう一人の黒スーツの男が跪く。

「行って歓迎なさい」

 ふたりは立ち上がると再び一礼する。

「わらわも追って歓迎に出向くわ」

 部屋を辞するふたりを見送ると、滝夜叉は着ているものを脱ぎ出す。脱ぎ散らかしながら部屋の中を歩き、最後の一枚を脱ぎ捨てると、バスルームへと足を踏み入れる。

「シャワーで水垢離みずごりとは風情も何もないわね」

 蛇口をひねるとシャワーから勢いよく水が降り注ぐ。滝夜叉はその水を頭から受け止め、静かに手を合わせる。流れるままに流れていく水流が、長い髪を重く包み、全身に血脈のように伝わり落ちる。

「この一戦で、決める」

 滝夜叉は静かに目を閉じると胸の前で手を合わせた。




「見えた!」

 前方に風になびく柳の木が見えた。

 押し寄せる骸骨兵の波を押し返し、突き進む。道を閉鎖するために集められた外縁ほどの数はいなかったが、それでもそのおびただしい数は滝夜叉の力の膨大さを物語っていた。

 もっとも夜都賀王は抜いた太刀を一回も振るっていない。

 ほとんどは夜尺、桔姫が蹴散らしていく。

 銅鐸を振り回して。

 大身槍を振りかざして。

 それはまるで水の中を進むのに似ていた。

 切り裂き叩き潰す手ごたえは、水のようにほとんどない、ほとんどないが圧倒的な物量がその歩みを鈍らせる。

 それでも二人歩みは止まらなかった。

 その止まらなかった歩みが、止まる。

「でましたね」 

 そこに立ちはだかったのは黒スーツの二人組。

 手にはそれぞれが槍を持ち、仁王立ちに立ちはだかる。

「あなた達の相手はわたしたちが」

 前に出てきたのは二人の姉妹。手には薙刀、鉞。

「御冗談を」

 黒スーツの一人が嗤う。

「誰一人、通しません」

 ふたりが槍を構えると、周りに群れていた骸骨兵が整然となり始める。一列目に木盾と槍を構えた一団が、二列目には槍を斜め上に構えた一団が、即座に終結する。

「厄介な」

 夜尺が呟く。弱兵と言えど、統率された兵は強い。生き死にに無頓着とくれば尚更だった。それはもはや、弱兵ではないのである。

「砲を使う」

「どうぞ」

 夜尺の言葉に桔姫が頷く。周囲の影響を考慮して夜尺は音響砲を控えていたが、そんなことを言っている場合でもなかった。

 桔姫の返事を待つまでもなく夜尺の銅鐸が振り上げられると左右に交差して擦り打たれる。放たれた音が盾ごと骸骨兵を吹き飛ばす。しかしその穴は瞬時に埋められていく。

「放て!」

 隊列の一番後ろに整列した骸骨兵が、一斉に矢を放つ。正面ではなく、上空に向けて。

 夜尺は空に向けて音響砲を撃つ。折れた矢が力無く降り注ぐ。

「進め!」

 号令の元、骸骨兵が前進を始める。木盾を押し立て、槍を突出し、押し出してくる。ゆっくりとしたその歩みが、逆に圧力となって押し寄せてくる。

 銅鐸を構える夜尺。しかしその瞬間、後列の矢が放たれる。自然、音響砲は降り注ぐ矢の迎撃に向かうことになる。

「埒があきません」

 桔姫が槍を頭上で振り回し突進する。姉妹二人がそれに続く。しかし突き出された槍に阻まれ容易に近づけない。長柄を活かした攻撃も、うまく木盾に弾かれてしまう。

「グレネードランチャーを!」

「駄目よ!」

 桔姫が叫ぶ。

「現世で重火器は周囲に及ぼす被害が大きすぎます!」

「でもこのままじゃ!」

「斬り込むしかありませんよ!」

 両手の銅剣を振りかざし、夜筑が身体を斜めに振り回しながら槍衾の中に斬り込む。突き出された穂先を斬り飛ばすと立ち並べられた木盾を足掛かりに、さらに銅剣を振り回す。突き出された槍先が着物を切り裂き、朱を撒き散らすが、夜筑は一向に止まる気配がない。

「射よ!」

 夜筑にめがけて矢が放たれる。銅剣で矢を斬り落としながら、さすがに身を引く夜筑。しかしこの瞬間を夜尺は見逃さなかった。

 銅鐸が打ち鳴らされ音の波が骸骨兵に襲い掛かる。音速の衝撃波は木盾をも貫き、骸骨兵を打ち砕く。

「突貫です!」

 桔姫を先頭に姉妹が隊列にその身を捻じ込み、その隊列を側面から切り崩す。正面には強固な槍衾も入り込まれると脆い。

「小癪な! 囲み込め!」

 隊列を包囲陣へと切り替えると同時に、自ら斬り込む夜叉丸、蜘蛛丸。

「たかだか従者如きに、あたしの剣が防げるかしら!」

 再び踏み込む夜筑。輝く銅剣が突き出される槍を弾き、打ち据えられる石突を逸らす。

 再び包囲の輪を狭め始める骸骨兵。しかしその一部が力無く崩れ始める。それは陰陽師による結界。九字を切り呪符を飛ばして包囲を留める。いつしか両陣営入り乱れての乱戦となる。

 夜都賀王を除いては。

 乱戦の中、誰も襲ってこない。それどころか微かではあるが前に向かって細い隙間が出来ているように見える。

 明らかに罠。

 いくらお人好しでもそれぐらいは判る。

 判るがここは引けなかった。

 これは夜都賀王……自分のためのレッドカーペットなのだ。

(いくよ)

 夜都賀王は夜尺、夜筑にちらりと視線を送った。乱戦のさなか、ふたりはこちらに見向きもしない。守役でもあったふたりが気にも留めない、それはすなわち自分の行動は自分で決めろということに他ならない。それは信頼の証しなのだ。

 そして夜都賀王は走り出す。




「待ってたわ」

 石碑の前、意匠の凝った丸テーブルに背もたれの高い椅子。そこに座るのはチャイナドレスの女性、滝夜叉だった。

「すこし、お話ししない?」

 対面の席を勧める滝夜叉。滝夜叉の背後には骸骨武者ともいうべき立派な甲冑の骸骨兵が滝夜叉を守るように立ち並ぶ。

「僕も話したいことがあります」

 そういうと太刀を収め、勧められるまま対面の席に腰を下ろす。

「お茶も出せないけど」

「お構いなく」

「お先にどうぞ」

 滝夜叉は手を組み、そこに顎を乗せて微笑み、夜都賀王を見つめる。

「なぜこんなことを?」

「聞かれるとは思ったけど、愚問ね」

 滝夜叉はゆっくりと口を開く。

「「受け入れるしか道は無い」」

 その言葉は夜都賀王と重なる。それは以前、五月の口から出た言葉だった。

「わかってるんじゃない」

「そちらのお話はなんですか?」

 納得したように、そして突き放すように先を促す夜都賀王。滝夜叉の表情は変らず、ただ手の上の顔を少し傾ける。

「君、わらわ……私のものにならない?」

 笑みが大きく濃くなる。匂い立つような笑み。

「無論、私も君にものになるわ」

 笑みがさらに広がっていく。一見華奢な身体に乗った、小さな顔なのに、その小さな顔に、蠱惑の笑みが際限なく広がっていく。その広がりがすべてを飲み込んでしまうかのように。

「悪い話じゃないと思うけど」

 沈黙を守る夜都賀王に気にする風もなく、滝夜叉は一方的に話し続ける。

「今君と私が組めば、この地を手に入れるのは容易いでしょ?」

「そして中央が動き出す」

「それこそ望むところ」

 滝夜叉はゆっくりと立ち上がる。深いスリットの間から、白くしなやかな脚を惜しみなく晒し、夜都賀王の脇に歩み寄る。

「坂東の父上を目覚めさせ、神田の父上も叩き起こして、今こそ雪辱を果たさん」

「この地は僕たちのものです」

 夜都賀王はゆっくり、はっきりと告げる。

「あなたには渡さない」

「ならばここで死ね」

 滝夜叉が飛び退くと入れ替わるように骸骨武者が殺到する。手にした槍が四方八方から夜都賀王を貫き、座っていた椅子の背もたれが、無残にも打ち砕かれる。

夜都賀王は体中を槍で貫かれたまま、ゆっくりと立ち上がる。槍はまるで無いもののように夜都賀王の身体をすり抜けていく。

「黙っていると思ったら……いつの間に呼び出したの? 油断も隙もない」

 楽しそうに笑う滝夜叉が見上げた先には玉座。

 夜都賀王はすでに玉座を呼び出し、石生界に同調していた。

「僕は要石を起動させます」

「私はそれを止めるだけ」

 滝夜叉は太股から五寸釘を抜くと舞うように投げる。扇を描いて飛来する鈍色の凶針が夜都賀王に襲い掛かる。

 夜都賀王は太刀を抜くと打ち払いながら上空に飛ぶ。滝夜叉も後を追う。その周りには青白く光る鬼火が灯り始める。

 鬼火が夜都賀王にまとわりつく。太刀で振り払うがひとつが二つに、二つが四つに、断ち切るほどに増えていく。

 まるで雲霞のように立ち込めた青白い鬼火が夜都賀王を包み込み、その自由を奪っていく。

「ぐぁ」

 夜都賀王の胸を襲う激痛。何かで貫かれ、それを抉られるような激痛に夜都賀王はたまらず身をのけぞらせる。

「君の力はそんなものかえ?」

 滝夜叉は手にした藁人形に突き立てた五寸釘を大きく円を描くように捻る。捻るたびに夜都賀王の身体も捻じれていく。

「わらわのものとなれ夜都賀王」

 滝夜叉はその手を休めずに続ける。

「さすればこの地の半分とは言わぬ、すべてをやる」

 口角を上げ、笑みのままの滝夜叉。

「わが身もすべて、くれてやる」

妖艶とした笑み。しかしその笑みは般若のそれのであった。

「わらわは復讐さえなされれば、それでよいわ」

 その顔は、笑みなのか怒りなのか嘆きなのか。

「答えよ!」

 手にした五寸釘がさらにいっそう深く押し込まれる。

「僕はただ……僕なだけだ」

 漏れるような言葉。しかし、偽りの無い意思。

「左様か!」

 滝夜叉の手に力がこめられる。

 しかしそこに一筋の疾風が舞い込んだ。

 風を巻き込んで飛んできたそれは、意匠の凝った柄と、赤金色の刃を持つ武器。宝戈だった。宝戈はそのまま弧を描き、飛んできた方へと戻っていく。

「なに?」

 そばに流れる川の上、そこに一艘の船が浮かび、その上にはふたりの人影が見えた。

ひとりは衣裳姿の女性。

ひとりは銀色の甲冑を着た女性。

「鬼道少女・葛妃!」

「黒坂の騎士・ハーゼ・フォン・ローゼンブルグ!」

 葛妃は手にした宝戈を捧げ持つ。

ハーゼは細剣を顔の前に押し立てる。

そして、声をそろえて言い放った。

「「推して参る!」」

 ふたりは甲板を蹴ると空高く飛び上がった。




「兎萌、葛妃様……」

 ふたりの姿が痛みで霞む目に映る。ふたりとも元気になった、などと都合が良い事は思わない。ふたりとも無理を押して出てきたのだ。自分がここで折れるわけにはいかない。

 夜都賀王の纏う倭文織の陣羽織が赤く燃え上がる。それと同時に滝夜叉の手にある藁人形も燃え上がり、一瞬にして消えてなくなる。

「呪詛を返しおった!」

 歯軋る滝夜叉。しかし悪態をつく暇もなく、夜都賀王が斬り込む。舞うように引き、再び鬼火を繰り出す滝夜叉。

「あなたの相手はあたしたちだよ!」

 ハーゼが左手に茨の盾を持ち、鬼火の中に突っ込む。纏わりつく鬼火の群れを、展開した茨がハーゼを覆うように渦巻き、ミキサーの刃のように砕いていく。

「小癪な!」

 抜き打たれる五寸釘。しかしそれは飛び込んできた葛妃の宝戈が薙ぎ払う。

「吾も忘れてくれるなよ」

「あなたには、これがあるのをお忘れか?」

 そういって滝夜叉が取り出したのは藁人形。その胸に向けて五寸釘が突き刺さる。

「うぐっ」

 うめき声をあげる。

 しかしそのうめき声は葛妃ではなかった。

 滝夜叉が胸を抑え、その身を押し曲げる。

 ハーゼが手をかざし、掲げていたのは一枚のお札。

「陰陽の呪符……か」

 胸を抑えながらよろめく滝夜叉。その手の中で藁人形が再び燃え落ちる。

「一気に叩くよ!」

 ハーゼの茨が伸び、滝夜叉を絡め取る。ハーゼの茨と己の呪詛に絡め取られて身動きのできない滝夜叉に、葛妃は容赦なく襲い掛かる。

「覚悟しや!」

 白い裾を翻し、全身をひねり力を乗せて、宝戈の刃が滝夜叉の白く細い首を無情にも刈り取る。かにみえた。

しかしその刃は、あと一重のところで首の周りに柵のように浮かぶ五寸釘に阻まれる。

「ぬぁ!」

 滝夜叉らしからぬ怒りの方向が天空に向けて放たれる。それと同時に飛び回る五寸釘がハーゼの戒めを切り裂いた。

「あなどるな!」

 さらにばら撒かれる五寸釘。その五寸釘が滝夜叉を中心に渦を巻く。鈍色の渦が中心の滝夜叉を霞ませる。

「これほどとは」

 葛妃が歯軋る。

「夜都賀王!」

 ハーゼが叫ぶ。

「もう少し!」

 玉座の奏上はおそらく最終段階。あと数刻持ちこたえればいいはずだ。

「させぬ!」

 五寸釘の半数近くが上空に舞い上がると、そのまま夜都賀王たちの頭上に降り注ぐ。水色の雨ならぬ鈍色の雨。ハーゼは茨を展開し、大きな傘を作る。

「ありがとう!」

「すまぬ!」

「礼はいらない!」

 今度は横殴りに降り注ぐ。ハーゼは素早く茨の壁を作る。

「茨に助けられる日が来るとはの!」

 茨の壁を飛び越えて、葛妃が斬りかかる。しかしそこには槍衾のごとき五寸釘の壁。

「どちらを向いても棘棘棘じゃ!」

 葛妃は身をひるがえし、飛来する五寸釘をかわし、打ち落とす。

「いささか吾には験が悪い」

 一見無茶に見える葛妃の突入はしかし明確な意図があった。それは無論注意を引くこと。奏上の終った玉座に夜都賀王が飛ぶ。

「させるか!」

 すべての五寸釘が一斉に襲い掛かる。上空から側面から地面から。雨のように風のように岩のように。

「行って!」

「行け!」

 ハーゼと葛妃の声を乗せて、夜都賀王が抜ける。

 ハーゼの茨の盾、葛妃の宝戈の薙ぎ払い、それらを抜けてなおも大量の五寸釘が夜都賀王に襲い掛かり、その姿を鈍色に包み込む。

 しかしその中に夜都賀王の姿が掻き消えた。

 夜都賀王は再び光速を超える。

 残像が掻き消されると、その姿は玉座の上に現れた。

「起動!」

 夜都賀王の宣言の下、要石が作動する。




「きりがない!」

 お互いに背を合わせ、三方をにらむ佐伯衆。囲む骸骨兵の数は一向に減る様子をみせない。三人とも致命傷こそは避けているものの、細かい傷が体力を奪い、ほとんど限界に近かった。顔を隠した面は既にボロボロで、その体をなしていない。

 壱介が血に濡れた木簡を掲げ、最後の精神力で結界を張る。

 弐姫が長巻を構える。その柄は赤く染まる。

 参麿が弓を突き出す。すでに矢は尽き、弭槍で戦っていた。

「もうひと押しだ」

 壱介の言葉にふたりは頷く。頷くが正直なところもう動けなかった。じりじりと囲みが縮まり始める。まるで真綿で首を絞める様にゆっくりとゆっくりと締め上げてくる。

 結界に押し寄せる骸骨兵。結界に触れるや否や粉々に砕け散っていく。今だにこの威力を維持する壱介の精神力が常人離れしているのは確かだが、それすらも凌駕する物量。砕ける傍から次々と押し寄せ、強引に結界を削っていく。

「破れるぞ」

 壱介が呻く。三人は覚悟を決める。ならば少しでも道連れに。すでに死した相手を道連れというのかどうかは不明だが、たとえ焼け石に水だとしても、そうしなければ気が収まらない。

 そして結界が破られた。

 先ほどまでのゆっくりとした動きとは対照的に、結界という堰を切った骸骨兵は三人に殺到いする。最後の抵抗を試みる佐伯衆。

 しかしそれはそうはならなかった。

 三人と接触する瞬間、骸骨兵はその動きを止め、さらにその場に崩れ始める。三人はその場に立ち尽くす。

「やった……のか?」

 壱介の呟きにふたりはそれぞれ反応を示した。

 弐姫は飛び上がった。

 参麿はへたり込んだ。

 壱介はただ静かに息を吐いた。

「大将……」

 壱介はかろうじて残っていた面を外すと、上着のポケットから丸められた煙草を取り出す。そこから折れ曲がった一本を抜き取って丹念に伸ばし、口に加えて火をつける。

「禁煙……やめようかな」

 そしてゆっくりと立ち上る紫煙を感慨深そうに眺めた。




「なに!」

 異変に気が付いたのは夜叉丸だった。槍衾の隊列が次々と崩れ、陣形が維持できなくなり始める。

「落としましたね!」

 桔姫が歓喜の声と共に槍を薙ぐ。避ける夜叉丸。しかしその動揺は隠しようもない。

「身体がすこし重いですが、それがこんなにうれしく感じるとは思いませんでしたよ!」

「おのれ!」

 対峙する両陣営。

 夜叉丸、蜘蛛丸の黒スーツ二人組。

 対するは夜尺、夜筑、桔姫三姉妹に陰陽師が二人。

 骸骨兵が消えた今、形勢は完全に逆転した。

「蜘蛛丸!」

「おう!」

 黒スーツは双方が別々の方向に遁走する。一方は右に、一方は左に。

「まって!」

「追うな!」

 追いすがろうとする桔姫を夜尺が止める。

「囮だ、私たちの本命は滝夜叉だ」

「そ、そうでした」

 桔姫は踏みとどまると妹二人に指示を出す。妹はそれぞれに分かれ後を追う。

「いきましょう」

 阻むもののなくなった先を、走り出す。




「よくやった……」

 地上に降り立つ夜都賀王を出迎える葛妃。ハーゼもその跡に続く。

「みんなのおかげだよ」

 夜都賀王であることも忘れ、夜都賀王は素に戻ってはにかむ。

「ありがとう」

 頷く葛妃。しかしその顔色は悪い。要石の影響が如実に現れていた。

「刀自様……」

「大丈……」

 葛妃はそのまま血を吐く。白い着物がみるみる赤く染まっていく。

「刀自様!」

「いかん……傷が開きおった」

 膝をつく葛妃。あわてて夜都賀王は助け起こす。

「兎……ハーゼも手を貸して!」

 夜都賀王の叫びに、しかしハーゼは動かない。その視線の先、目を向けるとそこには滝夜叉が立っていた。要石は起動したが、まだ終わってはいない。

「降伏しなさい!」

 ハーゼが細剣を突出し、叫ぶ。

「もはや万策尽きたはずよ」

「笑止」

 滝夜叉は一本の巻物を取り出す。

「わらわにはまだこれがある!」

 滝夜叉はその巻物を口に咥えると、手を合わせ印を組む。地面から滝夜叉を囲むように円形状に瘴気が昇り始める。それが煙のように周りを覆い、視界が完全に塞がれる。

「逃げる気か!」

「わらわがか?」

 ハーゼの声にこたえる滝夜叉。

 その煙が晴れたとき、それは、いた。

 岩のように節くれだった皮膚。そのくせ濡れたような粘る光をまとっている。

 大きな口。飛び出した目。長く太い後ろ脚と幾分細い前足。

 喉元のが膨れ、雷鳴のような音を鳴らしている。

 それは巨大な蝦蟇だった。

 その背中に乗る滝夜叉は、巻物を口に咥えたまま、喋る。

「大妖術・四六の大蝦蟇。とくと味わうがよい!」

「咥えたまま器用によう喋るわ」

「その身体で軽口とは恐れ入る」

 大蝦蟇の喉が大きく膨らむ。吸い込むというより何かを溜め込んでいるような動作。

「いかん!散れ!」

 夜都賀王の腕の中で葛妃が叫ぶ。葛妃を抱えた夜都賀王と細剣を構えたハーゼが左右に飛び退く。

 蝦蟇の口から緑色の煙が吐き出される。それは爆風のような広がりを見せる。どこか黒ずんだ、濁った色の毒々しい緑。

「毒息じゃ。吸うな!」

 口元を覆う葛妃。夜都賀王、ハーゼもそれに倣う。

 蝦蟇の毒息は重く、風が吹いてもなかなか散らずにその場に止まり続ける。被害が広がらないという点ではありがたくもあるが、それは一種の盾となり滝夜叉を守っていた。

「吾は大丈夫じゃ」

 葛妃は自分の足で立つ。要石作動の反動で開いた傷口も、なんとか塞がり始めていた。

「とはいえ素早くは動けぬ。吾がここで引きつけるゆえ、小娘ともども回り込んで討ち果たせ」

 反論したくなる気持ちをぐっと押さえて、夜都賀王は頷く。葛妃から手を放すと葛妃は宝戈を正面に突き、それにすがるように両手を添えて仁王立つ。

「たーきーやーしゃー!」

 葛妃が咆哮する。真っ赤に染まった衣裳は首に下げられた瑪瑙の勾玉よりも赤く、深く、そしてその顔は透けるように白く、手にした宝戈は赤金色に輝く。

「親の七光りの怨霊如きが神たる吾に勝てるかや!」

「名も忘れ去られた土蜘蛛風情が神とは笑止! その挑発、のりましょう!」

 対峙する滝夜叉。妖艶に微笑んだままの憤怒の形相。口には巻物、手には五寸釘。大蝦蟇の上に立つ姿はまさに妖術使い・怨霊滝夜叉そのものだった。

 ここぞとばかりに回り込んだハーゼが側面から斬り込む。

「邪魔するな!」

「受けるな! 避けよ!」

 大蝦蟇の背中一面の節くれだった瘤が脈動すると、白いものが次々に吹き出す。茨の盾で受けようとしたハーゼだったが、葛妃の言葉に横の飛び退く。

噴出された白い液体は、地面に降り注ぐと煙を上げながら地面に孔を穿つ。

「強酸!?」

「蝦蟇毒じゃ! 腐り落ちるぞ!」

 ハーゼは慌てて距離をとる。

「喰らえ葛妃!」

 蝦蟇の口が開くとそこから何かが飛び出す。

 飛び退く葛妃。

 蝦蟇の口から飛び出した赤く長い舌は、得物を取り逃がしその口の中に戻る。さらに畳掛ける様に蝦蟇は飛び跳ねると、葛妃のいる場所へと飛び降りる。轟音と土煙。これも葛妃は横跳びに避ける。

「動きが鈍っておいでですよ」

 蝦蟇の上の滝夜叉が嗤う。葛妃を包む赤が、再び濃くなり始める。

「意地を張らずに、大蜘蛛になったらいかがです。葛妃殿?」

「ぬかせ!」

 再び仁王立つ葛妃。その足元に赤い池が出来る。

 左右から襲い掛かる夜都賀王とハーゼ。

 しかし蝦蟇毒の弾幕がその攻撃を足止めする。

 舌の主砲と毒息の防御。蝦蟇毒の弾幕に驚異の跳躍力。大蝦蟇は移動要塞のごとき様相で立ちはだかる。

 しかも時間がない。葛妃の体力も限界。長引けば周りへの被害は必至。すでに石生界の効力は無くなっているのだ。

「あなたの首を手土産に、辺り一面枯れ野原に!」

 再び大蝦蟇の喉が膨れ始める。みるみる膨れ上がる喉。先ほどよりもさらに大きく膨れ上がる。

「毒息にまかれて悶え苦しみなさい!」

 大蝦蟇の背中で高嗤う滝夜叉。しかしその笑い声は長くは続かなかった。

 布を切り裂くような激しい音と共に大蝦蟇の身体が激しく揺れ、胴の側面に赤い霧が立ち込める。滝夜叉の身を守るように現れた鬼火が、四方に飛来した紙片に掻き消される。

 重火器による銃撃と呪符による結界。

「おーのーれー!」

 大蝦蟇は悶えながら、全身の瘤を震わせる。撒き散らされる蝦蟇毒。

 そこに撃ちこまれたのは夜尺の音響砲。音波に流された蝦蟇毒は横殴りの毒雨となって滝夜叉に降り注ぐ。断末魔の咆哮を上げる滝夜叉。

 大蝦蟇の口が大きく開く。しかしその瞬間、その口の中にグレネードが撃ち込まれ、蝦蟇の腹が大きく膨らむと、四本の脚が力無く投げ出され、大蝦蟇はその場に伏し、溶け込むように地面の中へと吸い込まれてしまう。

「お……の……れ……」

  頼みの大蝦蟇も失い、襤褸切れのごとくなったチャイナドレスをそれでもひるがえし、黒髪を振り乱し、焼け爛れた身を振り絞って闇雲に五寸釘を投げ始める滝夜叉。しかしその弾幕は既に目標を見失っていた。

「「覚悟!」」

 夜都賀王とハーゼの声が重なる。

 左右から交差する身体。

 そして夜都賀王の太刀とハーゼの細剣は、滝夜叉の身体を貫き、その心臓で交差する。

 顔を天空に向け、口を開き、舌を突き出して吠える滝夜叉。しかしその叫びは既に声にはならなかった。

 ただ叫ぶ声のごとき鮮血が、口から間欠泉のように吹き上がると一面を赤く染め上げる。両者の剣が引き抜かれると、支えを失った操り人形のように、その場に崩れ落ちた。

「……とどめを……」

 そう発したのは誰でもない滝夜叉自身だった。己の血のにまみれ青いドレスは鮮やかな紫に変わっていた。

「……惨い姿を、晒したくない」

それぞれに構える夜都賀王とハーゼ。しかしそれが振り降ろさせる瞬間、黒い疾風がふたりの前を吹き抜ける。

 それは黒スーツの二人組。

 桔姫の妹二人の追跡を逃れた二人は、この瞬間をただひたすら待っていた。滝夜叉の身柄を奪うこの瞬間を。

 滝夜叉の身を奪うや否や、ふたりはそのまま遁走する。追いすがろうとする一同を、葛妃が止めた。

「あの怪我では助かるまい。助かったとて、しばらくは動けまいよ」

 夜筑に支えられながら、葛妃が告げる。

「後片付けもせねばならんしの」

 そして向けられた視線の先には向きあう二人の姿があった。




 ふたりは向き合っていた。

 ひとりは佐伯衆大将・夜都賀王こと佐伯可彦。

 ひとりはシュワルツヒューゲルが騎士・ハーゼ・フォン・ローセンブルグこと黒坂兎萌。

 戦い終わったその場所でふたりは静かに向き合う。

 おもむろにハーゼが静かに手を差し出す。まっすぐに開かれた手。兎耳の前立てが少し斜めに傾いて、まっすぐに夜都賀王を見つめる。口元には見慣れたあの笑み。

 夜都賀王はハーゼの差し伸べた手を硬く握る。ハーゼがその手を握り返す。硬く硬く、握り締め、握り締められる手と手。

 ハーゼの顔に浮かぶ笑み。

 夜都賀王の顔に浮かぶ笑み。

 硬く握りしめられた二人の手がゆっくりと揺れる。

 その絆を確かめる様に。

 そしてその手が引き寄せられる。

 引き寄せられるままに夜都賀王の身体がハーゼへと向かう。

 ふたりの笑みが。

 ハーゼの笑みが。

 夜都賀王の笑みが。

 次の瞬間。

 歪に変わる。

 ハーゼの笑みは殺気を帯びて。

 夜都賀王の笑みは苦痛を帯びて。

「後は君さえいなくなれば、すべては元通り」

 先ほどまで滝夜叉の血で濡れていたハーゼの細剣は、今は夜都賀王の血で濡れて、その腹を貫き、背中から突き出していた。

 更にハーゼは身体を寄せ、夜都賀王の身体を抱くようにして突き入れる。

 ハーゼに抱かれながら、苦痛と絶望の中で葛妃の顔が見える。葛妃の顔は悲しみに染まっているものの、そこには諦めが見えた。

「土蜘蛛の女王は取引しました」

 ハーゼが残酷に宣言する。

「あたしと手を組む替りに夜都賀王、君の命を差し出したのよ」

 そんな馬鹿な。

 夜都賀王の頭の中にその思いだけが渦巻く。

 葛妃様が自分を売るなんて。

 そして兎萌に刺されるなんて。

「刀……葛妃……様?」

「すまんな、夜都賀王」

 力無く呟く葛妃の声は、やけにはっきりと夜都賀王の耳に届いた。

「吾の失策を背負わせてしもうた」

 それ以上は聞きたくなかった。それなのに、その聴きたくない言葉だけが、否応なしに貫いていく。

「土蜘蛛と佐伯衆のために……死んでおくれ、夜都賀王」

 それ以上の言葉は、夜都賀王の耳に既に入ることはなかった。

 

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