カタナクション

竹尾 錬二

第一章 剣帝再臨

プロローグ 剣帝の遺稿より抜粋(1)~漂着~

 翻る日の丸の旗の下、一体幾度剣戟の音が鳴り響いたことだろう。

 ――昭和317年、未だ戦いは続いていた。

 ここは、大日本帝国が太平洋戦争に勝利し、世界の覇権を握った未来の世界……。

 ……ではない。その程度の馬鹿げた話で済んだのなら、まだ良かった。

 この想像の埒外の異境の土を踏みしめ、幾度、苦々しい思いで日の丸を見上げたことか。


 二百数十年前、独立戦争に勝利して、この地にレディコルカという小国が誕生した。

 レディコルカの初代国王は、突如この地に出現し、怪力乱神を以て絶対的不利な形勢にあった独立戦争を勝利に導いたとされる、当時の将軍である。

 民衆は、王を現人神にまで祀り上げ、その力にあやかろうと王が用いた諸々のものを模倣した。

 武器。服装。宗教。作法。法律。暦。この地で、未だ昭和歴が使用されているのはその名残である。




 俺は、疲れ果てて膝の上で寝息を立てる少女の頭を撫でた。 

 滑らかな絹のような細い金髪の間から、細く尖った耳の先が覗いている。

 寝息に合わせて、ぴくり、ぴくりと耳先がふるえるのが愛らしかった。

 俺の右肩の上では、馴染みの妖精ピクシーはねを休めている。

 ここは、俺達の暮らしてきた世界から、一切が隔絶された、見知らぬ異世界だった。


 野には妖精が舞い、空には竜が翔け、夜には亡者が徒党を組んで歩き回る、文字通りの異界。それは、ある意味では、日本が戦争に勝利したIFの未来などより、余程荒唐無稽な世界だろう。

 だが、この地に漂着して早一年。いつだって己の身の振り方を考えることに必死で、この世界の正体を探る気など、俺にはとうに消え失せていた。

 ここが、山中異界だろうと死後の世界だろうと一向に構わない。今まで通り、俺は俺として生き抜いていくだけだ。

  

 掌中に転がしていた日本刀の鯉口を、強く握り締める。


 俺にとって、この戦いが始まったのは、一体いつだろうか?

 スティルトンが講和条約を反故にし、レディコルカに侵攻した一年前か?

 それとも、俺がこの地に漂着した、平成25年6月20日のあの忌まわしき事故の日か?

 

 だが、少なくとも。この国を打ち立てた、剣帝・切畠義太郎にとってのターニングポイントは、遥か遠き昭和17年10月24日だった筈だ。

 この日、彼が巻き込まれた奇禍を発端として、大日本帝国の軍人だった義太郎さんは、このレンネット大陸で、大国スティルトンに抗う、レディコルカのレジスタンスとしての戦いを開始したのだから。

 

 俺は、黴臭い、黄色く変色した、義太郎さんの手記を開く。

 もう、幾度この手記を読み返しただろうか。

 戦中の質の悪い紙で織られた日記帳には、誠実な性格の窺える丁寧な旧字体で、この異世界を刀一本で生き抜いていった、義太郎さんの当時の心境がありのままに綴られている。 

 


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 昭和十七年十月廿四日 晴レ


 尋常ならざる目覺めざめによつて撥ね起きけり。

 一體此處いつたいここ何處どこなのか、我は如何どうなつてしまつたのか、未だ己が置かれし状況、一向に摑めず。

 胸の動悸は治まらず。斯樣かように心搖りみだすなど、大日本帝國の軍人として劍道家として、沙汰の限りなり。

 半刻ほど默想を行ひ心落ち着け、此れまでの顛末を筋道立てて書き記さむと思ひ立ちぬ。

 我が身に降りかかりし奇禍きかの一部始終を記し纒め、己が採るべき進退の道を見窮みきはめんと欲す。




 昨日1030、海拉爾ハイラル要塞より九七式戰鬪機にてホルステン河近邊の國境線哨戒任務へ出發せり。

 此れ以上のソ連の南進を許さぬことこそ、ハンダガヤに於ける我等第八國境守備隊の使命なり。

 眼を皿にして念入に哨戒しょうかいを行ふも、快晴にして風穩やかにて、此の日もホルステン近邊きんぺんには敵影無し。先の八月攻勢にて我等を煩はせしソ連軍も、大日本帝國の威光の前には臆病風に吹かれたと見ゆる。

 1300、哨戒任務を終了し、いざ基地へと歸投きとうせむとしたまさ其時そのとき、突如として愛機九七式戰のエンジン火を吹きたり。

 操縱桿を曵けど叩けど、機首戻らず。

 ノモンハン紛爭に於いて敵機七機を墜とせし自慢の機體きたい、共に墜つるなら本望なり。

 之も定め、我が運命と腹を据ゑ、お天道樣に背くことなく生きたりし事を誇りに抱き、いざ戰友達の許へと赴かむと、天皇陛下萬歳のこへ高らかに、固く目を瞑りにけり。



 斯くして、本日0900、大破せし九七式戰の操縱席にて目を覺ましけり。

 機體の損傷凄まじく、左翼千切れ、胴體中央部は瓢箪ひさごを石垣に叩き附けたが如し。

 操縱席も又破損著しく、軍服も襤褸布の如く裂けれども、如何なる神佛しんぶつの加護のありきか、我が身には傷一つとして無し。

 あのやうな高度より墜落して命永らへしこと、幸運を通り越し不可解としか言ひやうがなし。

 天皇陛下よりお預かりした命より大切な機體を無樣にも損壞そんかひせしめた不甲斐無さと、己のみ生殘つた生き恥にひとり涙す。

 まづ第一に部隊への歸還きかんを果たし、然るべき沙汰を受けるべく、徒歩にて海拉爾はいらる要塞への移動を開始せり。

 懐中時計より、昨日よりほゞ一晝夜いつちゅうやに亙り、己の昏倒したりし事を確認す。

 我が愛機を此の地に捨て置くこと未練窮みれんきはまれど、部隊長殿への報告が何より先決なり。

 守刀として操縱席に持込し家傳の愛刀忠行ただゆきを片手に、方位磁針のみを目安に南へ進みけり。



 一刻とたぬうちに、此の地の異變いへんに氣附けり。

 目にうつりし草木、昆蟲、禽獸、凡てが見知りき韃靼だったんの地のものとは異なれり。

 天を仰がば、空の色まで異なる有樣なり。

 我が身を置きし韃靼の地は、大陸性氣候なれば、晝夜ちゅうやの寒暖の差著しく、秋には凡てが色褪せたる枯れ草色に包まれむ。

 されど、此の地の草木は青々と繁茂し、日差しの柔らかなる事、祖國日本の春の陽氣のうららかなるを想ひ出さしめむ。


 數刻すうこく方位磁針に從つて南進せれど、再び愛機の墜落せし此の位置に辿り着きぬ。

 水筒の水にて渇きし口中を潤し、此の摩訶不思議なる状況に思惟を巡らけり。

 折れし左翼に背中を預け、暫し空にたなびく縹雲はなだぐもを眺めければ、不意に我が眼前を横切る影あり。


 見れば、身の丈五寸程なる小人、蝶々てふてふの如きはねで宙空を彷徨さまよひけり。


 此の蝶々の如き小人、我が幻覺げんかくに違ひ無しとて、目を擦れど、頭を叩けど、一向に消える樣子無し。

 思へば、怠惰なる友人のヒロポンの打ち過ぎたるが、似たやうな幻覺妄想を訴へしことありけり。

 されど我は、除倦じょけん覺醒劑かくせひざいたのんで心身合一を果たさむとせし性根、武道家にあるまじき墮落と思ひて、遂にヒロポンを攝取する事あらざりけり。

 然れば、此の幻覺の原因、墜落の際に頭部を強打せしことに間違ひなし。

 部隊長殿に妄言混じりの報告せむとすること、あるまじきことなり。

 手帖に日記をしたゝめつゝ、己の採るべき身の振りやうを考へたり。


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 昭和十七年十月廿五日 晴レ


 飛び囘る蝶々が如き小人の幻覺、未だ消え去らず頭上に留まりけり。

 此の小人、揚羽蝶の如き翅と、男兒とも女兒ともつかぬ幼き童の如き裸體らたいを晒し、翅より金粉の如き鱗粉を振り撒きつゝ、緩々ゆるゆると我が頭上を輪を描く如く飛びつづけり。

 捕獲して其の正體しようたひたしかめむとて、幾度か指を伸ばせども、小人器用に飛び退き、捕らへる事能はず。


 此の地の探索を行ふこと數度、矢張り此の地、滿州國とソ連の國境より遠く隔たりし事確信す。

 墜落地點ついらくちてんより東西南北、隈なく足を伸ばせども、あたりの景象、先に露助と砲火を交へしホルステン河近邊とは著しく異なれり。

 韃靼の地の眺望は、一面に廣がる曠野こうやたであかざまばらに伸びしばかりなり。

 秋冬の夜間の寒風殊更に嚴しく、時に零下十數度まで冷え込みけり。

 昨晩あるひは凍死せむことも覺悟して就寢すれども、此の地の夜ののどけきこと、春の午睡を樂しむが如し。

 近傍の小川には追川オイカワに似たる小魚泳ぎたれば、草にて編みし魚籠びくを沈めて晝餉ひるげとせり。


 此の地、陶淵明が歌に詠みし武陵桃源ぶりようとうげんが如し。


 突如、我が腦裏にそら恐ろしき臆度おくど閃きけり。

 我、既に死して、此の地、冥府に赴くまでの邯鄲かんたんの夢ならむかと。


 暫しの默想の後、愛刀忠行にて居合を稽古し、妄念を振りはらひぬ。

 我には劍を握る兩の手揃ひき。地を踐む兩の足揃ひき。

 此の地、必ずや我が祖國日本より地續きなりし地なり。


 故郷の家を想ふ。

 父母はかはりなきかや。

 妹の絹世は健やかなりきか。弟の信次郎は健やかなりきか。

 ともえさんは元気なりきか。

 銃後の家族の爲にも、必ずや此の戰爭には勝利せねばならぬ。

 我に、此の樣な異邦の地にて迷うてゐる暇なきなり。

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 昭和十七年十月廿六日 晴レ


 遂に牛頭馬頭ごずめず顏拜かおおがむこと叶はざれど、此の地、黄泉の畔に在りしこと疑ひやう無し。

 夜半に兵の行軍しめるが如き跫音あしおと響き亙り、しや友軍來たりけむかと飛び起きれば、世にも奇妙なる怪異と遭遇せり。

 腐りかけたる髑髏が立ち歩き、徒黨ととうを組みて、鐵兜を被りて劍を振りつ襲ひ來たり。

 たとうるなら、繪草紙の中よりがしや髑髏がしゃどくろの拔け出し來たるが如き。

 枕元の愛刀忠行の鯉口に指をかけしが、腐汁垂れ流す汚穢おわひなる髑髏を家傳の愛刀にて斬るに忍びず、薪として集めしひのきの棒にて撃ちかりき。

 髑髏共、錆身の洋劍を振りまわせれども、其の動きはなはだ鈍く、避くる事容易たやすかりけり。

 かるく檜の棒にて小突きければ、たちまち崩れ落ち、枯れし骨の山に變りけり。

 初めは奇態なる風體ふうていに驚きけれど、化け物退治何の事無し。信次郎のちやんばらの相手を務むるよりも容易けり。

 十數體よりなる髑髏の群れ、勞せずして骨殼の山にさしめたり。


 されど、斬り合ひ終へてふと我に返りてみれば、髑髏共の姿消え失せ、天空には靑き滿月輝きけるばかりなり。

 我が幻覺の小人、螢の如く輝き乍ら、昏き夜空に舞ひ踊りけり。

 さすれば、先程の髑髏の武者も、あるひは我が幻覺、惡夢の類に違ひ無しとて再びとこに就きたり。

 しかれど、朝日が昇れども、白骨の山消え去る事なく足元に散らばりけり。

 眞晝まひるのお天道樣の下、入念に檢分けんぶんを重ねど、本物の人骨なる事疑ひやうなし。

 此の地の謎、深まりけるばかりなり。不可解なる思ひを腹に呑み、まづは穴を掘りて拾ひ集めた骨を埋め弔へり。

 髑髏共、浮世に如何な未練がありて彷徨さまよひ歩いたるかは測りかねたるが、再び迷ひ歩きしこと無きよう、いのるのみなり。


 髑髏の如く消え去りけるかと思ひ、蝶々の小人に檜の棒を振るひしが、器用に避けつ我の頭上で輪を描いて飛び囘れり。小癪こしゃくなる小人なりけり。

 

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 昭和十七年十一月二日 曇リ


 此の地に落ちて、はや十日が過ぎにけり。

 爲すべきことも無く、ただ過ぎ行く日々を數えけり。

 望郷の念、日に日に強くなりけるばかりなり。

 切畠義太郎きりはたよしたろう此處ここに居りけりと、幾度空に向かつて叫びしか。

 我等が第八國境守備隊は露助の南下を抑へてをりけるか。

 戰友達は如何に過ごしけりか。

 今頃部隊にて、我、戰死者扱ひとなりしこと間違ひなし。

 皆の顏が見たひ。皆と一緒に進軍喇叭しんぐんらっぱの音に合はせて歩きたひ。

 また、御國の爲に戰ひたひ。

 何のお役にも立たず、此のやうな異邦の地でひとり果つるは無念窮まり無し。


 蝶々の如き幻覺の小人、消え去らざりければ、揚羽アゲハと名附けり。

 金色の翅の端、青紫に輝きけること揚羽蝶あげはちよふに似たりけるが名の由縁なり。

 揚羽はただ飛び囘るのみにて、人語を解する樣子無かりけり。

 我のみ、ただ揚羽に語りかける時間のみ增えにける。

 傍から見れば、狂人と變はらぬ樣相らしからう。

 

 絹世は泣いてはゐないだらうか。

 巴さんの顏が見たひ。

 まう一度、信次郎と相撲がとりたひ。



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正義まさよし様、敵陣に動きがありました!」

「……いよいよか」


 跳び込んできたバルベーラの報告に、俺は掌中の手記を閉じた。

 もう少し、先の部分まで読み返したかったのだが。

 この戦闘が終わったら、腰を据えてゆっくりと続きを読み返そう。

 傍らに控えていた紫髪の自動人形オートマタに手記を手渡した。


「ふぁっ!?」


 膝で寝息を立てていた金髪の小さな頭が、勢い良く飛び起きた。髪の間から飛び出た細長い耳が、羞恥に赤く染まる。

 

「正義さま、も、申し訳ございません、私、不覚にも不寝番中に居眠りを――」

「6時間も連続で障壁を張り続ければ倒れるのは当然だ! そんな事より、敵が動き出したぞ、キヌ」

「状況は!?」

「北西7里の地点を拠点に、現在猛烈な速度で勢力を拡大中です! 敵の使用する魔獣の勢力は、視認できるだけで既に500を超えています!」


 バルベーラの告げる敵戦力は、通常なら現在この地に駐屯させてあるレディコルカ軍を壊滅させて余りあるものだった。

 

「通常の歩兵は?」

「歩兵、騎兵、魔道兵、他、一般のスティルトン軍の姿は確認できません!」

「奴さんも余程の馬鹿じゃない限り、自軍の一般兵は退かせてるだろうよ。

 シャルドネ、魔道士のお前から見て、あの術は一体どうなんだ?」


 絵本の魔法使いのような三角帽を被ったショートボブの娘は、忌々しげに敵陣で増殖を続ける魔獣の群を睨んだ。


「あんなもの、術でも何でも有りませんわ。アレは唯の禁呪。渇望を見境無く無限に振り撒き、周囲にあるもの全てを喰らい尽くすだけが目的の、混沌の顕現『デーデェィアの園』。ディナーの時間は近いようですわ」

「乙二種以下の撤退は済んだか?」

「もうとっくに。さあ、剣帝直属抗魔剣士隊の力を見せてやりましょう!」

「そのネーミングはいい加減何とかしないか、バルベーラ……」


 天幕を出ると、既にボジョレ以下数名の手練の者達と、友枝ともえが抜刀して丘の向こうを睨んでいた。 

 

「マサにい、そろそろ動き出すよ。術者は、あの丘の上のモミの木の下辺り。多分、正気の人間はもう居ない筈。術者を止めれば、この現象も止まる――そうでしょ?」


 友枝ともえは、普段と変わらぬ聡明さで的確に状況を分析し、己の義務を果たそうとしていた。不意に、軽甲冑を身に纏ったその姿に、過日のセーラー服姿の友枝の姿が重なって見えた。僅か一年と少し前までは、彼女もごく普通の女子高生だった筈だ。俺が、どこにでもいる普通の警察官だったように。この世界に来て、一番戸惑ったのは、きっと彼女だった筈なのに、友枝は持ち前の芯の強さで気丈に日々を生き抜いてきた。俺が、この世界で戦いの道を選んだのは、俺自身が決めた選択の結果だ。だが彼女には、友枝には、もっと穏やかな生き方を選ばせるべきだったのだろう――。そんな後悔が、時折、俺の胸の底を焦がす。


「どうしたの、マサ兄」


 黒目がちの大きな瞳が、悪戯げに俺の顔を覗き込んでいた。ショートカットの黒髪が揺れる。

 

「どうせ、また責任感じて変なこと考えてたんでしょ?

 大丈夫、前も言ったよね。私も、自分の生き方は自分で決める、って。

 私は、私のために、マサ兄と一緒に戦うって決めたんだから――」


 そう言って彼女は白い歯を見せて笑った。


「狙うなら最短距離で、一直線に、だね」

「ああ。これから、あの中央まで、一点突破で敵を狙う。俺の下に六、友枝の下に四で分かれてついてくれ。それで行こう」

「正義様、来ます!」


 大地が、赤く鳴動した。禁術『デーデェィアの園』の発動。正規魔道士の用いる美しく規則正しい金色の魔方陣とは異なる、血糊をぶちまけたような赤く捻じくれた異形の魔法陣が地に浮かび上がるのが、ここからでも確認できた。発動の瞬間に効果圏内に身を置けば、これ程の面子であっても無事は保障できない。

 瞬間、世界が変質した。人狼ワーウルフをその基本形態とする魔獣達は奇妙に変形を始め、足が増えるもの、頭が増えるもの、昆虫の如き節足を生やし外殻を纏うもの、融けるようにその全身を崩し軟体となるもの、鳥の如き羽を生やして宙に飛び立つもの。一つとして同じものなき畸形へと姿を変え、ただ原始的な殺意だけを残して、変異した各々の肉体を駆使して丘を駆け下りる。

 変異が始まったのは、魔獣達だけでは無い。魔獣が踏みしめた地やぶつかった樹木、接触のあったあらゆるものが変異を起こしていた。地からは美しいクリスタルの柱が、あるいは汚穢な蠕動する肉の触手が、立ち上がり、互いに絡みあい、その表面をレンゲやシロツメクサの花々が駆け登るように繁茂して蔽い尽くし、更にその上に原型を失った魔獣が飛び乗り、理解不能の叫び声を上げる。

 飛蝗ばったのようなフォルムで先頭を飛び跳ねながら駆け下りてきて来た魔獣が、バルベーラと会敵した。トラウマが刺激されたのか、バルベーラは気合一発、瞬く間に見事な太刀筋で魔獣を横薙ぎに切り裂いた。真っ二つになった地に転がった魔獣の骸。死してもおぞましい変異は止まらず、その上半身からは高価な色とりどりの鉱石が零れ出し、下半身からは蜘蛛や百足や蚰蜒ゲジといった、嫌悪感を催す蟲群が涌き出した。

 変異には目を奪われる程美しいものも有れば、顔を背けとたくなるほど醜いものも有った。しかし、その全てはいずれも人に害を為し、迷わず俺達に対して牙を向けた。

 禁術の生み出した世界は、ヒエロニムス・ボッシュの描いた絵画のように現実感が希薄で、グロテスクであり、それでいてどこか美しかった。

 しかし、美しかろうが醜かろうが、俺達の力はその一切合切の変化を容赦しない。

 バルベーラが続けて切り飛ばした敵の腕は、即座に畸形の溝鼠ドブネズミの群れに変異し俺に向かって飛びかかったが、汚穢な鼠の群体は、近寄ることすらできずに砕け散った。

 異形の魔群は次から次へと俺達へと襲い来るが、その全ては世界の映写機が歯車を止めたかのように、形を保てずに崩れ落ちていく。

 俺は足元に伸びる緑の牧草と、可憐な三色スミレに視線を落とした。

 異形への変異を続ける世界の中で、俺と友枝の周囲の空間だけが変わらぬ世界を保っている。


 剣帝・切畠義太郎が、圧倒的劣勢にあったレディコルカ独立戦争の趨勢を覆した由縁。

 時折、この世界に迷い込む異世界からの来訪者、マレビトのみが持つという力。

 義太郎さんが破邪の加護と呼んだこの力――抗魔力は、謂わば、この世界を嫌う力だ。

 魔法なんて有り得ない、非日常的的なことなど起こり得ない世界から迷い込んだ俺達だけが、持ち得る特権。この世界の、あらゆる魔道を拒む力である。

 俺達に近寄るだけで、全ての魔法は雲散霧消し、竜は地に墮ち、魔剣はその輝きを失う。

 しかし、魔道相手には無敵に見えるこの力も、世界の法則に従った正純の力から出ずる攻撃に対しては、藁の盾に過ぎない。剣の一振り、僅か一本の矢すらが即、死に繋がるのだ。


「二時の方向より、弓兵が来ます。変異の及ばない超遠距離から集団で射掛けてくるつもりのようです!」

「キヌ、障壁を頼む」

「お任せ下さい、正義さま!」


 エルフの少女は、異形渦巻く俺の抗魔圏外へと躊躇い無く踏み出すと、虚空へとそのかいなを広げた。

 瞬間、魚鱗のようにびっしりと、空を半球状に亀甲梅花の紋をモチーフとした物理障壁の群が埋め尽くし、襲い来る矢衾やぶすまを一本残らず食い止めた。


「正義さま、ご無事ですか……?」

「すぐ戻れ、馬鹿!」


 キヌの手を引いた瞬間、彼女のいた空間を蟷螂の鎌のような異形の刃が通過していた。

 彼女が抗魔圏内に戻るのと、構成していた物理障壁が硝子が弾けるように砕け散るのは同時だった。

 雲一つ無い陽光の下、俺達の頭上を影が横切る。

 変異の及ばぬ遥か上空より、騎竜兵が簡易のパラシュートを身につけ、猛然と降下を開始したのだ。

 

わたくしがそれを許すと思って!?」

 

 ショートボブのハーフエルフ、シャルドネは見事な腕前で短弓による迎撃を行うが、如何せん数が多い。最初から捨て駒として使い捨てることを前提とした、圧倒的な物量と人員の導入である。

 仲間の屍を盾をしながら、敵の歩兵は遂に俺の抗魔圏内に降り立った。

 ここからが――本当の意味での、俺の戦。

 振り上げざまの小手先を切り飛ばし、返す刀でその首を刎ねた。俺の抗魔圏外に転がり出た首はそのまま巨大な蟇蛙ヒキガエルに化け、俺に飛びつこうとしてその全身を四散させる。

 長らく魔道師匠国の地位に胡坐をかいていたスティルトンも、年々白兵戦の錬度を上げてきている。唐竹割りにツヴァイハンター振り下ろす男の胴を薙ぎ払い、刀身を汚す血糊を血振りで払った。

 俺の抗魔圏を示すように、紅が半円を描く。無遠慮にその境界を跨いだ愚者の胸板を貫き、屍を蹴り出し魔獣に喰らわせた。


 この世界を生き延びる為に、俺達は己の武を磨き上げた。故郷、日本から持ち込んだ、剣の業を。

 俺の右肩には、赤き狼を意匠したレディコルカの国旗が、左肩には、義太郎さんが生涯手放さなかったという祖国日本の日の丸が縫いつけられている。

 まさか、こんな最果ての異世界まで来て、日の丸を背負って戦うことになろうとは。つい、苦笑が零れてしまう。


「友枝様、私の後ろに」


 真紅の髪が宙になびく。バルベーラの剛剣が、敵の首を二つ纒めて地に転がした。

 あちらは、友枝は徹底的に抗魔圏の維持に勤め、バルベーラらが前衛を担っているらしい。

 悪くない陣形だ。

 このまま突破できるか。

 禁術による変異は周囲の魔獣から空間にまで及んでいた。

 地からは赤き葉脈の如く魔力の流れが虚空に溢れ出し、フラクタルを描いて宙を走った魔力の流れが、遂には破裂して胞子の如く舞い散り、黄砂の如く辺り一面に降り注ぐ。その魔力に触れた万物は、再び変異を開始する異形の無限連鎖。

 その源は、この先に。目印だったモミの木はその葉をサイケデリックな色彩に色付かせ、毒々しい畸形の果実を実らせている。


「術者はもうすぐ近くだ! 一気に駆け抜けるぞ!」


 進行方向に刀を向けて鬨の声を上げれば、俺の抗魔力に共鳴して魔軍が真っ二つに割れた。

 命を惜しまず降下を続けるスティルトン兵を切り捨てながら、ただ只管ひらすらに駆け抜ける。白熱していく脳髄の、芯は冷たく冴え渡っていた。


『正義ぃ、それにしても、お前は本当に義兄ちゃんそっくりになったなあ』

 

 不意に、祖父の言葉が蘇った。

 俺に剣を教えてくれた、大名人、切畠信次郎の笑顔が。

  

 そうだ、俺の戦いが、始まった日があるとするならば、幼き日。

 信次郎爺ちゃんのような、立派な剣士になろうと誓って竹刀を取ったあの日から、俺の戦いは始まっていたのかも知れない。

 今の俺は、紛れもなく、あの日の俺の地続きにあるのだから。

 爺ちゃんは、今の俺を見たら、何と言うだろうか。

 俺の知る世界の道理が通らぬこの異界の地でも、俺は俺なりに精一杯、お天道様に背く事無く生きてきたつもりだ。

 この世界に来る少し前のこと。爺ちゃんにつけて貰った、最後の稽古の記憶が俺の脳裏を過ぎった――。

  

 


  

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