誰も自分に気付いてくれない話


 

 翌日の朝。


 「おはよう、カケヤくんっ!」

 「おはようございます、サユコお姉さん」


 通学用リュックサックを背負った学ランの少年は、マンションの一室の扉を元気よく開け、爽やかに挨拶をした。続けて彼が叫んだのは「カケヤくん」という男の子の名前だったが、その声に反応して奥から出てきたのは、白いTシャツにデニムのパンツというあまり洒落っ気のない格好をした、若い女性だった。服装はシンプルだが、それが逆に彼女の大きな胸や尻をくっきりと現すような形になってしまっている。


 「あら、何? その服を選んだの?」

 「サユコお姉さんが用意してくれた中だと、これが普通かなって」

 「下着は? ちゃんと着けてる?」

 「み、水着を……その、下着の代わりに」

 「……」

 「えっ、駄目ですか……?」

 「はぁ……。私の姿で、そんな格好はやめて。あなたは今、大人の女性なのよ」

 「でも、さ、サユコお姉さんの選んでくれた服は、僕にはちょっと派手すぎるというか、刺激が強すぎるというか……。僕も一応男なので、ああいうのは恥ずかしいんですっ」

 「もうっ、まだ言ってるの? 今、男の子は私、女があなたよ。せっかくなんだから、もっと異性のお洒落を楽しみましょうよ」

 「でも、僕は今日一日この家にいるつもりですし、別に服装なんてなんでも……」

 「だーめっ。じゃあ、こうしましょう。今から私を中学校まで送ってくれる?」

 「えっ……!?」


 * *


 コッ、コッ、ココッ、コツ。 

 とある高級マンションの前の通りで、不規則なハイヒールの音が響いている。

 

 「ほら、頑張ってまっすぐ歩いて」

 「うぅ、上手く歩けない……。 本当に僕も行かないと駄目なんですか……?」

 「ええ。私、カケヤくんの中学校がどこにあるか、詳しく知らないし。あなたに案内してほしいの」

 「そ、それにしても、この格好はっ……!」

 「うふふ、とっても似合ってるわよ。通勤中のお姉さんって感じで」

 

 伊達眼鏡にビジネススーツ。下はぴっちりとしたタイトスカートで、太ももには黒いストッキング。サユコは「早原家に泊まりに来ている親戚のお姉さん」という設定で、カケヤをビジネスウーマン風に仕立て上げた。もっとも、サユコにOLなどの経験はないが。


 「このスカートも歩きにくいし……。うわぁっ、コケそうですっ!」

 「ほら、馴れるまで手を繋ぎましょ」

 「す、すみません……」

 「ふふっ。相変わらず、困った顔が可愛いわね。……っと、いけない」

 「えっ?」

 「『困った顔が可愛いよ。サユコお姉さん』」

 「あっ、言葉遣いっ……!」

 「もう外に出たし、違和感のないようにしないとな。まあ、昨日もなんとかなったから、心配しなくていいよ」

 「昨日……ですか。えっと、どうでしたか? 僕の弟や妹たちはいつも元気だけど、時々やんちゃすぎて喧嘩になることもあるんです。そのたびに僕やハスミが……」

 「!!」


 すると突然、サユコはカケヤの細い腕をぐいっと引っ張った。

 

 「あっ、わわっ! なっ、えぇっ!?」


 コッ、ココッ、カツッ。

 体勢を崩したが上手くバランスをとり、カケヤはなんとか転ばないように踏ん張った。


 「さ、サユコお姉さんっ!? いきなり何をっ!?」

 「言っただろ。違和感のないようにって」

 「えっ……!?」

 「サユコお姉さんは、そんな喋り方しないよね。外では、今の自分がどう見られてるかを必ず意識して」

 「……!」

 

 サユコの真剣な表情に、カケヤは思わず息を吞んだ。


 * *


 信号を二つ渡り、角を曲がって通りをまっすぐ行くと、桜並木がある。そしてその桜並木は、中学1年生の早原カケヤが通う、日野外中学校の校門に通じている。


 「それでさ、自分専用の部屋はなくて、ハスミちゃん……ハスミと同じ部屋なんだって、最初は気付かなくて」

 「そ、そう……」

 「カーテン一枚だけの仕切りだから、音とかすごく気になったりしない? 下の三人の兄弟は、両親と一緒に寝てるのかな?」

 「う、うん。多分」

 「ふふっ、そんなに喋り辛そうにしないでよ。……そうだな、サユコお姉さんの方は、昨日何してた?」

 「きっ、昨日は、普通にご飯食べて、シャワー浴びて、早く寝ました……寝た、わよ」

 「ふぅーん……? 本当にそれだけ?」

 「う、疑わないでくださいっ! 僕は一刻も早く元にっ」

 「『僕』? サユコお姉さん?」

 「いやっ、わ、私は、早く元に戻りたい……わっ」

 「そうだよね。気持ちはよく分かるよ」


 と言いつつサユコは、全く元の体に戻る気のない微笑みを、カケヤに向けた。


 「サユコお姉……か、カケヤくんっ。そろそろ、いいんじゃない、かしら……?」

 「ん? 何のこと?」

 「み、みんなに、見られてますし、て、手をっ」

 「手……? ああ、そういうことね」


 朝の通学路。男子中学生や女子中学生が、この桜通りにだんだん増え、賑やかになってきた。日野外中学校には個性豊かな生徒たちがいるが、ビジネスウーマンと手を繋いで登校してくる男子中学生はそういない。

 周囲の視線が、二人に集まっていたのだ。カケヤが落ち着きなく辺りを見回しているのを見て、サユコもようやくそれに気が付いた。


 「はい。送ってくれてありがとう。もう一人で歩ける?」

 「だ、大丈夫ですっ。サユコお姉さんの家で、帰りを待ってます」

 「……どうしたの? 顔が真っ赤よ。手汗も酷いし」

 「だっ、だ、だってやっぱり、恥ずかしくて……! こんな風に目立ってしまうのなんて、初めてだからっ!」

 「へぇ、そうなのね。私は別に、これくらいは気にしないけど……。むしろ、周りの子達に見せつけたいぐらい」

 「なっ、何を言ってるんですか!? か、帰りますっ、僕っ!! それじゃあ、学校が終わったら、会いに来てください」

 「ええ、また後で。……あっ! カケヤくん、忘れ物っ!」


 手をパチンと叩き、思い出した。その音に反応して、家に帰ろうと背を向けていたカケヤも、振り返った。


 「忘れてるわよ。ほら、『行ってきます』の……キス」


 一瞬で、スッと距離を詰めた。「サユコ」の手を取り、顔を近づけ、唇を重ねようとする男子中学生の「カケヤ」……。


 「なっ、ひゃあっ、わあああっ、うわああーっ!!」


 ずでんっ。

 突然のことに驚き、のけぞり、口付けはなんとか避けたが、不安定なヒールのせいで後ろにすっ転び、尻もちをついてしまった。刹那に走った周囲の緊張は、少し緩和されたものの、カケヤの叫び声によりさらに多くの注目を集める結果となってしまった。


 「うふふっ。意地悪してごめんね。さぁ、立って」

 「うぅ……。さ、サユコお姉さぁん……」


 *


 コツ、コツ、コツ。


 「痛てて。いきなりあんなことするなんて……」


 浮かない顔でお尻をさすりながら、カケヤは先程来た道を戻っている。ヒールでの歩きは次第に馴れてきたが、彼女の懸念事項は残念ながらまだまだたくさんあった。


 (あの人が何を考えてるのか、分からない。僕のことをどういう風に見てるのかも、さっぱりだ。早く元の身体に戻らなくちゃいけないはずなのに……)

  

 信号が青に変わった。とぼとぼと、横断歩道を歩いていく。


 (『キモババア』、かぁ。いや、サユコお姉さんはいい人なんだけど……いい人だと思うんだけど……。たまに、あの人のとる行動が、少し怖くなったりすることもある……)


 小さく溜息をつき、下腹部をそっと撫でる。


 (サユコお姉さんの体も、よく分からないし。時々、ここの下のあたりが、きゅっとなったりして……。うーん……)


 次に顔を上げ、カケヤは額の傷に優しく触れた。


 (治ってきてる、かな……? 傷口は塞がったみたいだ。今度サユコお姉さんに会ったら、元に戻れるかもしれないって相談して……ん?)


 ちょうど十字路へとさしかかった時に、ふと、目に留まった。それに気が付くと同時に、足もぴったりと止まった。彼女の視線の先には、月曜日の朝だというのにキャッキャッと元気な、小学生の集団登校があった。


 「ちょっと変だったよねー、昨日の兄ちゃん」

 「そうかな? あんまりそうは思わなかったけど。何かあった?」

 「なんか、いつもよりくっついてきたり、触ろうとしてきたりしてさ。『どうしたの?』って聞くと、泣きそうになりながら、『なんでもないっ!』って」

 「きっと、寂しかったんだよお兄ちゃんも。友達の家にお泊まりして、私たちに会えなかったから」

 「えー、そうかなあ? 兄ちゃんってそんなに寂しがりだっけ?」


 声を聞いた。そして、確信した。


 (ジュンゴ、ケンタロウ……! そしてその後ろにいるのは……!)


 「ハスミっ!!!」


 やんちゃな二人の弟と、兄弟の中で一番信頼を寄せている妹。両親とここにはいない一番下の妹も含め、カケヤにとって大切な家族だ。

 

 「「「!?」」」


 見知らぬ女の叫び声にびっくりして、三人は立ち止まった。ジュンゴやケンタロウはその女をじっと見たが、やはり知らない人だった。伊達メガネのおかげか、『キモババア』だということにすら気付いていない。


 「は、ハスミっ……! みんなっ……!!」


 「だ、誰? ハスミ姉ちゃんの知りあい?」

 「私、知らない……と思う。あのお姉さん知ってる? ケンタロウ」

 「しらなーい。ママの友達かなぁ?」


 三人は、困惑した様子で互いに顔を見合わせ、小さな会議をした後、「変な人」を見るような冷たい目で、もう一度カケヤを見た。カケヤはそれでも前に進み、自分が誰なのかを伝えようとしたのだが……。


 「ぼ、僕っ! 僕だよっ!! い、今はこんな姿だけど、あの、実は僕が本物の、か、カケ……ヤ……う、うぅっ!」

 「!?」


 何かを必死に伝えようとしていた見知らぬ女は、突然うめき声をあげ、下腹部を押さえながらその場にうずくまった。苦しそうな表情で、額にはじっとりと脂汗をかいている。


 (ま、まただっ……! 痛みはないのに、苦しいっ!! ほ、本当にどうなってるんだ、サユコお姉さんの体はっ……!? 何か

ドロドロとしたものが、体の奥から溢れ出そうとしてる……)


 「はぁっ、はぁ、はぁ……! うぅっ、ぐっ……!」


 女の人が、目の前で苦しんでいる。流石にこの状況を放ってはおけず、三人の中でも一番年上のハスミは、彼女に恐る恐る近づき声をかけた。

 

 「あ、あの、大丈夫ですか……?」


 ガシッ。

 その女の手が、ハスミの細い腕を掴んだ。強い力で握りしめ、そして目一杯の力で、女は自分の懐へグイッと引き寄せた。


 「はぁ、はぁ……、ふふっ、うふふっ……! やっと、ここまで来てくれた……!!」

 

 「ひぃっ!?」


 薄気味悪い笑みを浮かべ、瞳は飢えた生き物のように怪しく輝いている。

 ハスミは直感で身の危険と判断し、体を捩って懐から脱出し、女の手を必死に振りほどこうとした。力の差は大きかったが、幸運にも隙を突いて上手く逃げ出すことができ、ハスミは弟たちの元へと全力で戻ってきた。


 「行くよっ! 二人とも走ってっ!!」

 「「う、うんっ!!」」


 「あっ……!! ま、待って!! みんな、待ってくれ!! 違うんだ、今のは体と感情がっ!! 僕はカケヤで、この人と体が入れ替わって……うぅっ、うわぁーーっ!!!」

 

 最愛の兄弟たちは、体の異常に苦しむ長男を置き去りにした。

 カケヤは髪をぐしゃぐしゃにしながら、まだまばらに人が通る路上にへたり込んで、大声で泣き叫んだ。その声はかなり遠くまで響いたが、この町の中学校や小学校に届くことはなかった。


 * *


 キンコーン。

 今朝の騒ぎからしばらく時間が経ち、現在は日野外中学校で四限目の授業が終わったところ。お昼ご飯の時間だ。


 ドサッ、ドサドサッ! 


 「へっへっへ。ほら、見ろよカケヤ。俺のオススメを持ってきたぞ」

 「うわぁ、これ全部雑誌? オススメっていうのはどういうこと? ぶよくん」


 ぶよくん。ぶよぶよ太っているから、ぶよくんだ。ぶよぶよ太ってはいるが人柄が良く、明るい性格なので男子の友達が多い。そしてカケヤにとっても、彼は親友と呼べるような存在だった。


 「グラビアのページだよ。特にエッロい雑誌を選んで持ってきた。俺こういうの集めてるからさ」

 「ぶっ! え、エロぉ!? 中学1年生にしては色々と進んでるわね……」

 「そうかぁ? カケヤは真面目すぎて遅れてるんだよ。……で、お前はどれがいい? この中で言うとどれなんだ?」

 「えぇ……? うーん、僕の好み……カケヤくんの好きそうなタイプは……」

 

 サユコ的精神としては、当然グラビアアイドルなんかには

全く劣情を抱かないのだが、カケヤにも友達付き合いがあるはず。適当にそれっぽいのを選んで、ぶよくんに話を合わせよう……としたその時、とある古い雑誌の表紙が、サユコの目に留まった。


 「代……浜……サユ……コ……!?」


 (わ、私っ!? どうしてこれが、ここにっ!?)


 表紙には、白いビキニで豊かな胸を存分に強調した、代浜サユコ(もちろん元の体)の姿があった。当時、23歳ぐらい。


 「おっ、カケヤは代浜サユコを選んだのか。やっぱり、このFカップに惹かれたか?」

 「いやっ、で、でもどうして? これ、随分前の雑誌だよ?」

 「ああ、俺の兄ちゃんが持ってたのをもらったんだ。お気に入りだったんだってさ」

 「ふ、ふぅん。そう、なの、ね……」

 「ん? もしかして欲しいのか? 仕方ないな、特別だぞ」

 「あ、ありが……とう……」


 ぶよくんから雑誌を受け取ると、サユコは表紙すら見ずに、すぐにそれを机の引き出しの奥へと仕舞い込んだ。


 (あぁうっ、は、恥ずかしいっ……! まだこれを持ってる人がいたなんて……!)


昔の話。当時の思い出は、サユコにとってあまり思い出したいものではなかった。色々と無理をしていた時期なのだ。


 「それでさ、カケヤ」

 「あっ、な、なぁにっ!? ぶよくん!」

 「俺の好みなんだけどさ、何日か前にめっちゃくちゃエロい子が載ってるのを見つけちゃってさぁ」

 「へ、へぇー、それはよかったね」

 「なあ、見てくれよ。お前はどう思う? この子」


 ぶよくんはそう言うと、とある最新の雑誌の表紙をこちらに見せつけてきた。確かに、これもまた男にとっては煽情的なグラビアだ。今度こそ、しっかりと彼に話を合わせてあげよう……と、サユコはそう決心したが、今度はその表紙の写真ではなく、そばに書かれている文章に釘付けになってしまった。

 

 「人気ロックバンド、『ジュエルジェイル』のボーカル•SENKIが……電撃結婚!?」

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