第51話 「孤高の人」 妖怪「孤独」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 シンイチは時々、悪夢を見る。

 「最初の日」の夢だ。


 「あの人」。

 自分の背丈よりもずっと大きな、黒い心の闇「弱気」が背中に憑いた、名も分からないスーツ姿の男の人。雑居ビルに幽鬼のように上り、屋上から身を投げた、助けられなかったあの人。

 最後に目があった。顔面蒼白で、変な汗をかいていて、病人みたいに目が窪んでいた。

 手を伸ばしたけど振り払われた。そのまま、彼は何もない空間に飛んだ。

 シンイチは、何ひとつ未来を変えられなかった。妖怪「心の闇」のせいだと分かっていれば、「その弱気は妖怪のせいだ!」と叫んで彼を止め、彼の運命を変えられただろう。不動金縛りだって出来ただろう。

 シンイチがてんぐ探偵を続けるのは、少しでもあの死のような、無知による悲劇を回避する為だ。

 しかし、いまだに振り払われたあの手の感触の夢を見る。冷たくて、乾いた皮膚で、でもいやな汗でべっとりしていて。


 今日の悪夢は、またもあの「最初の日」だった。「あの人」の屋上での飛び降り自殺を、止められない場面だ。

 しかしいつもと違ったのは、シンイチの目から見た視点ではなく、あの人の目から見た視点の物語だった。背中に巨大な黒い顔「弱気」の気配がする。屋上の柵を乗り越える手と足が見える。何も知らない「シンイチ」が、こちらに手を伸ばして助けようとする。

 なにもしらないくせに。

 そう心の中で思って、手を振り払い、体を宙に躍らせた。「シンイチ」の顔が遠ざかる。「弱気の谷底」へ落ちてゆくさまがスローモーションになる。さかさまになったビルと町が見えた。じきに、落ちるのではなく、地面に向かって「上ってゆく」感覚になった。弱気の頂点に、おれは上っていくのだ。そう感じた頂上に闇が見えた。左腰のひょうたんから小鴉を出し、無意識に闇にかざそうとした。しかしこの肉体はシンイチではなく、この時点でシンイチは大天狗に会ってもいないので、小鴉も存在しなかった。

 右手を闇にかざした。たちまち、全身が闇になった。


 朝から嫌な夢を見た。

 シンイチはベッドから起き上がった。ネムカケはまだ太い腹を膨らましてスヤスヤと眠っている。

 「あの人」をあれからさんざん探したが、手がかりはなかった。東京のような大きな街では、たかが飛び降り自殺一件でマスコミが来ることもない。あの雑居ビルの人に聞いても、この辺の人ではないから分らないと言われた。得体の知れない「心の闇」は名前が分かるのに、人の名前を分かることは難しい。


 真夏から随分日の出は遅れてきたが、小学生が起きるにはまだ早い時刻だ。母の和代も父のハジメもまだ寝ている。

 シンイチは青い夜明けの町を散歩することにした。

 かつて深夜の町をうろうろしたときは面白かった。町がまったく違う貌をしていたからだ。その貌ともこの表情は違った。誰もいないが鳥は鳴き始め、新聞と牛乳を運ぶバイクの人が走っている。青白い風景の中、黄色い信号だけが点滅している。夜明けの町は不思議だ。もうすぐ闇から目覚める、半歩手前だ。心の闇を退治するということは、心に朝を迎えることかも知れないとシンイチは想像した。

 東京都下にあるとんび野町は、広い関東平野の端の方だから、この町からは高尾山をはじめとする山々が見える。その山嶺のひとつ奥の山から、白く細い煙の筋がたなびいているのだが、遠すぎてシンイチには見えていない。


 その白煙は、陶器を焼く大きな窯の、四角いレンガ煙突からだった。古い形式の登り窯。巨匠陶芸家、玄田くろだれいの窯である。窯の温度が下がって夜露を含む、窯上がりを意味する水分を含んだ白い煙が上がっていた

 三日続いた徹夜の火の番を終えた玄田は、仮眠を取ろうと、窯に隣接した掘立小屋の畳に横になった。今回の出来には自信がある。今までにない灰かぶりと火の暴れが、吉と出るか凶と出るか、窯が冷めてからでなくては分からないが。すっかり白髪の増えた長髪をしごき、作務衣姿のまま玄田は目を閉じた。山の下界の町は、シンイチとともに今目覚めようとしている。一方山では、一人の芸術家が眠りにつこうとしている。

 この光景がとりわけ対比的だったのは、玄田の肩に、妖怪「孤独」が取り憑いていたからである。


    2


 太陽の昇った昼すぎ、玄田は目を覚ました。窯の入り口を塞いだ土を少しずつ崩し、中の陶器に振動を与えないように慎重に窯の中に入る。まだ窯の中は遠赤外線で熱い。

「……」

 玄田は一言も発さず、棚の上の陶器たちを仔細に眺めた。端から順に吟味し、駄目なものは無造作に床に落とす。鈍い音を立ててそれらは割れる。火の回りが悪かった部分は、赤と青の釉薬が思った色になっていない。しかし十にひとつは自分の予想を超える、鮮やかな窯変を起こした奇跡のものがある。だから陶器はやめられない。最も出来のいいものをひとつだけ残し、それ以下の数十を残し、玄田は残りの数百を地面に落とした。


 そこへ、スーツ姿の男が入って来た。

「おはようございます。今回は割と残ってますね」

「随分と早いな。もうそんな時間か」

「もう体力的にきつい歳だし、寝過ごしたんじゃないですか?」

「言うねえ。どうだ、見積もってくれ」

 スーツの男は、丹念に、玄田以上に丹念に陶器を眺め、触り、軽く叩き、全ての土の粒子を舐めるように見た。

「まあまあかな、今回は」と玄田は謙遜する。

「いえ、素晴らしいです。むしろ近年一かと」

 スーツの男は感心しながら答えた。

「土を変えたんでしたっけ?」

「信楽から取り寄せてみたが、まだ使いこなせたとは言えない」

「信楽にこんな洗練と野趣の統合はないでしょう。エクセレントな出来ですよ」

「世辞はそれぐらいでいい。いくらだ」

「細かくはあとで計算しますが、……三千万はくだらないでしょう」

「ご苦労。引き取りは任せた」

 スーツの男、鵠沼くげぬまは、ひとつだけ別の棚に置かれた、「特別品」を見た。

「今回はこれが一番ですか。確かに、群を抜いている。これ単体で二千五百はつくと思いますよ。巨匠玄田礼の最高傑作、とでも銘打てば」

「それは売り物ではない」

「惜しいなあ。素晴らしい出来だ。コレ、欲しいなあ」

「無闇に触らんでくれよ」

「ちぇっ。そんな花瓶ばっかりあっても、生ける花もないでしょうに」

 鵠沼は名残惜しそうに「特別品」を見て、残りの品数を数えた。

「引き取りは、明日来させます」

「車、あるか」

「はい」

「食糧が尽きた。買い出しに行かねば。ずっと食ってない」

「倒れますよ。では、おともします」

 久しぶりの下界だ。ずっと山篭りだった。今回は二ヶ月、誰とも話さず土と向き合っていた。

 スーパーの前に止まった車から降りると、作務衣の袖を引っ張る、天狗面の少年がいた。

「ん?」

「……あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」

「何?」

 我らがてんぐ探偵、シンイチである。


    3


「ええっ! じゃずっと一人で陶芸やってんの? 誰ともしゃべらず?」

「そうだな。……ずっと山にいる」

「そりゃ『孤独』も取り憑くでしょ! 格好の餌みたいなもんじゃん!」

 玄田とシンイチは、鏡に映った妖怪「孤独」を眺めた。

 「弱気」に似た、黒い色をしていた。暗灰色の地肌に、苦虫を噛み潰した顔で、両目をつぶっている。どこも見ていない感じが不気味だ。

「でも芸術家は、孤独からエネルギーを生み出すのでは?」

 スーツ姿の男、芸術商ディーラーの鵠沼は言った。シンイチは反論する。

「そりゃそうかも知れないけどさ、このままじゃ『心の闇』が孤独状態からエネルギーを取り続けて、殺されちゃうよ?」

「……何年前から、オレはこの妖怪に取り憑かれたのだろうな」

「分かんない。でもそこまで大きくはなってないから、孤独の栄養をそんなに吸い取ってないのかな。いや、孤独のエネルギーは全部陶芸に注ぎこまれたってこと?」

「そうかも知れんな。シンイチ君、巨匠玄田礼の作品を見てごらんよ」

 鵠沼は車の中にあったパンフをもってきた。

「すっげ!」

 それは、もはや陶器というジャンルを逸脱してるかのようだった。炎の形の入れ物、水しぶきの形の入れ物、鮮烈な赤、深い緑、目の覚めるような青、深い白。鉄錆の、廃墟のような美しさ。それは動いていないのにはげしく動いているような錯覚。ものすごい「勢い」が、永遠の時の中に閉じ込められたような熱情。

「これは、裡に燃えたぎる、ものすごいものがないと創れないと思うんだよね」

「それが孤独ってことかい」

 皮肉に笑った玄田の腹が鳴った。

「とにかく俺は三日三晩飲まず食わずなんだ。『断食明けブレックファスト』に立ち食いうどんでも食ってからにしてくれないか。それから食糧を買おう」


 シンイチは、玄田の話し相手として孤独を癒してやろうと、玄田の工房に遊びに行くことにした。

 高尾山系の奥の山をしばらく登ると、山の斜面沿いに、長い形の窯が作られてある。

「下で薪を焚くだろ。空気は熱いと上に登るだろ。だから窯ってのは、斜めに作ってあるんだ。山の斜面を利用してな」

「へええ!」

「炭で焼く場合もあるけど、今回は薪だ。でも千度は超える」

「熱いの?」

「中に入ったら死ぬな」

「そりゃそうだよ!」

「ははは。そばにいても熱い。夏場はきついさ」

 山の中はツクツクホーシとヒグラシが鳴いていた。残暑が過ぎれば、この夏も終わりだ。

「やっぱさ、陶芸家って、『これじゃなーい! パリーン!』って割ったりするの?」

「そういうイメージがあるけどな」

「なんだ、やんないのか」

「やっぱり割る」

「割んのかよ!」

 何故だろう。この少年といると心が落ち着き、何でも話してしまう。不思議な少年だと玄田は思っていた。

「うわっ、これか!」

 窯の中の新作群をシンイチは眺めた。もう冷えているはずだが熱いような気がした。炎の形と鮮烈な赤の釉薬が、それをイメージさせたのかも知れない。

「すげえ! 粘土細工でもこれは無理!」

「触ってもいいが、割るなよ。一個百万円じゃすまないぞ」

「まじで!」

「下のはいくら触ってもいいがな」

 地面に落として割ったものを玄田はさした。

「ちがーう! これじゃねえええ!」と、シンイチは芸術家コントを一人でやってみせた。

 二人は笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だ、と玄田は思った。


「しかし『孤独』は外れないね。玄田さん、ずっと一人でやってるの? 家族とかは?」

「……いたがね。妻には離婚され、息子たちともしばらく会っていない」

「なんで離婚されたの?」

「俺も陶芸家として有名になろうと必死でな。妻の子育てに付き合ってやれなかった。彼女にこそ孤独を与えてしまったのかも知れんな」

 玄田は窯の隣の掘立小屋に案内した。ろくろを回したり、寝泊りする場所だ。

「茶でも淹れよう」

 シンイチは何気なくその工房に入った。が、その場で雷に打たれたように、動けなくなってしまったのだ。

「? ……どうした」

 シンイチは動揺で震えたまま、指さした。

「……あの人……」

 その先には、ろくろの奥の写真たてがあった。

「……あの人……」

 シンイチは、同じ言葉しか繰り返せなかった。指はカタカタと震え続けた。

「あの写真? さっき話したろ。妻と、息子たちだ。もう十年以上会っていないが」

 それは、色褪せた何気ない家族の写真であった。

 少し若い玄田。あまり笑っていない隣の奥さん。そして笑う二人の息子。高校生か、制服を着ている。その兄のほうの顔。

「妻の文子ふみこと、長男のひろし、次男のふとし。……どうした?」

「玄田……洋さんて言うのか……」

「? 洋がどうした。知ってるのか?」

 ようやく名前を知ることが出来た。

 「あの人」だった。

 今朝、悪夢に出てきた「あの人」。

 「最初の日」、屋上から飛び降りて自殺した「あの人」。身長よりも巨大な「弱気」に取り憑かれ、シンイチがどうやっても助けられなかった「あの人」。末期癌患者みたいな顔をして、窪んだ目で笑っていた「あの人」。

「いなくなる。お先に」と言っていた、「あの人」。

「オレが……あの人……洋さんを、殺した……」


 シンイチは長い沈黙のあと、ようやくかすれた声で言葉を絞り出した。


    4


「洋が……自殺したって?」

 茶を淹れる玄田の手が止まったままだ。さっきまで「孤独を癒してやるよ!」なんて言って笑いあっていた少年が、写真を見て別人みたいになってしまった。しかも、「自分の息子を殺した」と告白して。


「オレ、……妖怪が見えるんです。何故だか知らないけど、ある日突然妖怪が見えるようになったんです。この世には、目に見えない妖怪たちが沢山いて、人に取り憑いて殺すんです。新型の妖怪『心の闇』がいて、ほんとに色々なやつがいて、玄田さんの『孤独』もそのひとつで、そいつらが負の心を吸って殺すんです」

「……」

 玄田は黙って茶を淹れ、一口啜った。すっかり濃くなり、苦かった。

「『最初の日』。オレは妖怪『弱気』に取り憑かれたんです。で、同じ『弱気』に取り憑かれた洋さんを見て、おいかけた。何かこの妖怪のことが分かるかもって思って」

 まるで昨日のことのように思い出せる。跳び箱七段を前に日和ったこと。公衆トイレの鏡で見た「弱気」の黒い顔。巨大な「弱気」を背中に背負い、公園の前で憔悴して彷徨っていたサラリーマン、玄田洋。

 雑居ビルの屋上。広い空。飛び降りた瞬間。払われた手の感触。

「……妖怪『弱気』だって分かってれば! あなたはあなたのせいで自殺するんじゃなく、妖怪のせいで自殺するんだって言えてれば! オレに天狗の力があれば! なんでオレは子供なんだ! 振り払われた手だって、ガシッとつかめたのに! あの『弱気』を外して見せたのに! あの人を、助けられたのに……!」

 シンイチは肩を震わせて嗚咽した。玄田は、肩と背中をさすってやった。

「……それがほんとうならば、洋はこの世を生きるには、少し心が弱かったのかも知れん」

「ちがうよ! 妖怪のせいなんだよ! 人は誰だって不安定なんだよ! 心はいつも力強くてバッチグーなんかじゃないんだ! 何かに照らされただけで逆に闇が出来るんだ! いつも光が色んなところから当たるから、闇が出来やすいんだ! 人の心はそういうもんなんだ! 人の心が悪いんじゃない! ただそれを知らないだけだ! その無知につけこむ、悪いのは妖怪だ!」

 これがシンイチの正義だ。

 だからシンイチは、大天狗の弟子入りを申し出、修行し、「心の闇」を退治するてんぐ探偵となったのだ。

 玄田は言った。

「世の中には、病気にかかって死ぬ人も、事故や災害で死ぬ人も沢山いる。……わしは山の中にいて洋を救えなかった。その死すら知らなかった。……運命と思うしかない」

「運命は、変えられるよ! そうじゃなきゃ、何の為に天狗の力があるんだよ!」

 シンイチは取り乱して指から「つらぬく力」を放った。「つらぬく力」の矢印は、粗末な掘立小屋の天井をぶち抜き、土壁をぶち抜き、奥の扉をぶち抜いた。

「はあ……はあ……はあ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 玄田はシンイチを抱きしめた。シンイチの嗚咽はなかなか止まらなかった。



 シンイチの意図せず放った「つらぬく力」で、扉が自然と開いて奥の部屋が顕わとなった。そこには沢山の「特別品」が整理されてある。無数の花瓶。色とりどりの、様々な形の。燃えるような形、爆発するような形。

 玄田はそれを見て、決意した。

「……シンイチ君。文子に会ってくれないか? 次男の太にも」

「……どうして……」

「今の話を、正直にしてやってくれ」

「……」

「妖怪のことを知らずに、文子も太も、洋がただ自殺したと思っているだろう。弱い心がいけないのだと、さっきの俺のように勘違いしたまま」

「……」

「真実を、語ってくれ」

「……」

「実は、俺が花瓶ばかりつくるのには理由があってな」

「……?」

「離婚した妻の文子は、活花の先生なんだよ」

「えっ」

「……いつか、使って貰えないだろうかと、俺はずっと一人で花瓶をつくり続けてきたんだ」

 ひとつ二千五百万の価値。そう鵠沼に査定された特別品。そのクラスの出来ばかりの作品が、無数に安置してあった。

「今までで一番いい出来のが出来た。それが今日。これも運命だ。彼女に渡しに行きたい。手伝ってくれ。そして、真実を話してくれないか」


    5


 次男の太は実家で、文子と二人で暮らしていた。

 長男の洋は、社会人になったのをきっかけに一人暮らしをはじめ、そして帰ってこなかった。文子も太も、彼は鬱病で自殺したと思っていて、玄田とシンイチの語った突拍子もない「妖怪の話」など信じられなかった。


 まず太が反発した。

「ずっと母さん放っぽらかしたと思ったら、よりによって妖怪とは、なんだ! 兄さんを馬鹿にしにきたのかよ!」

「俺も見たんだ。妖怪を。そしてそいつは今もこの肩にいる」

 玄田はポラロイド写真(アナログ写真には妖怪がうつる)を見せた。黒っぽい薄いモヤが玄田の肩にいる。

「今度は心霊写真かよ! インチキくせえ!」

 太は端から信用していない。しかし文子の反応は違った。

「なんだか、映画か小説の中の話みたいだけれど……」

 文子は棚の上の洋の写真に目をやった。小さな花瓶に花が活けてあって、それはその悲しみとともに彼女が生きている証拠でもあった。

「私は、シンイチくんの話を信じることにするわ。……洋が悪いんじゃなくて、妖怪が悪いんだ、っていうのに縋ることにする」

 シンイチは、彼女の目を見て話した。

「……妖怪が取り憑くのは、それこそ風邪をひいたり、事故にあうようなものです。予防できるかも知れないし、危険を察知して回避することも出来るかもしれない。けど、どんなに予防しても風邪をひく時はひく。だから、そっからどうやって『治る』か、つまり負のループから抜け出すかが肝心なんだ」

「そんなに大きな『弱気』は、さぞ辛かったでしょうね……」

「オレもそいつに取り憑かれたから分かる。自分がどうしようもなく無力で、何も出来なくて、世界から逃げ出したくなる」

「いなくなる。お先に」と言った洋の最後の言葉を、シンイチは夢に何度も見た。

「……洋さんは悪くない。悪いのは妖怪なんだ」

 文子は洋の写真を再び見た。

 玄田は桐の箱から、最新の「特別品」、白に赤と青の花瓶を出した。

「俺も、妖怪『孤独』に取り憑かれて、こんなのばかりつくってるのさ」

 細かい彫りこみ。大胆かつ繊細な造型。人の手でこんなものがつくれるのかというダイナミックさ。

「二千五百万の値がついた。これを支度金にするから、俺とやり直してくれないか」

 文子は目を剥いて、写真の洋から玄田へ視線をうつした。

「あなた、そんなことを言う為に私に会いに来たの?」

「……そうしたら、妖怪『孤独』は退治できるんじゃないかと思って」

「……その浅薄な所、何も変わってないのね」

 厳しい文子の表情に、玄田は居ずまいを正した。

「子育てで忙しいときに、俺が自分の事で精一杯だったことは謝る。でもそこで歯を食いしばって頑張って、ようやく俺はいっぱしの巨匠だ。これでも結構マスコミとかに……」

「私が知らないとでも思ってるの?」

 文子は席を立ち、洋の写真が飾ってある棚から、パンフレットをまるごと持ってきた。

「あっ……」

 それは、第一回「玄田礼個展」から、最新の第三十六回までの、全てのパンフの作品目録だった。

「俺のことを見ててくれたのか……! 離婚してても見ててくれたのか……?」

「勘違いしないで頂戴。私は、いつかあなたに言おうと思って、取っておいたのです」

「?」

「これは、花瓶づくりとして最低です」

「は? 何言ってるんだ。お前、これだけの情念がこもってる芸術品を……」

「だからです」

「?」

「花瓶は、花を活ける為にあるのでしょう? これに似合う花はないわ」

「えっ……」

「一体、なんの花を活けるつもりだったの? これじゃ花と喧嘩するでしょう。あなたと同じよ。自己主張ばっかりで、相手のことなど無視して」

「……」

 玄田は黙ってしまった。花瓶と花のことなんて、自分と妻のことなんて、考えてもいなかった。

「……それでも、生活費を毎月鵠沼さん経由で送金してくれたことは感謝しています。それが前借りであることも鵠沼さんは教えてくれました。花の先生ぐらいで二人の息子を大学に行かせられたのも、そのおかげです」

「……わかった。……俺が自分勝手だった」

「ホラ、またそうやって一人で勝手に決めて」

「?」

「次は花を活かす花瓶を作ってみなさいよ。出来たら、離婚取り消しも考えます、と言おうと思ったのに」

「え、……え?」

「私だって、陶芸家の妻です。これを見れば、どれほどの情熱が込められているかぐらい分かります」

 玄田は、涙をぼろぼろ流した。

「ああああああああ!」

 伝わっていたのだ。十何年も山奥に篭って作り続けてきた情念は、とっくに伝わっていたのだ。

「……シンイチ君、ありがとう」

 玄田はシンイチに言った。

「君に会えて良かった。君が正直に言ってくれて良かった。君に分かって貰えて、洋は幸せだ。孤独で、理解されずに死ぬより幸福だ。人は、理解されない時に孤独になるのだから」

 玄田は、重たい花瓶を頭の上まで持ち上げた。

「……一世一代の、陶芸家コントだ」

 そうシンイチに言って笑った。

「こうじゃねえー!」

 そのまま勢いをつけて床に叩き落し、二千五百万を粉々にした。

「ありがとう。運命が、君の天狗の力で変えられた」

 こうして、妖怪「孤独」は玄田の肩からおりた。


「不動金縛りの術!」

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「つらぬく力!」

 右手から矢印を出し、「孤独」を貫いた。

「火の剣! 小鴉!」

 朱鞘から抜かれた黒光りの剣、小鴉から紅蓮の炎が燃え上がる。

「一刀両断! ドントハレ!」

 妖怪「孤独」は真っ二つになり、炎に包まれて清めの塩になった。


 その後、玄田は花を活かすちいさな花瓶をひとつ造り、文子の家に戻った。洋の写真に花を供える花瓶は、これに代わった。ひとつの不幸は救えなかったが、そこからはじまった縁で、ひとつの幸福を繋ぐことが出来た。

 運命は変えられる。天狗の力で。


    6


 だが、そう思うのは早計だった。後日、スーツ姿の美術商ディーラー、鵠沼さんと偶然再会したときに、シンイチは聞いたのだった。

「玄田礼さん、陶芸家を引退したよ」

「ええっ? どうして?」

「窯も閉めた。もうひとつも作れなくなってなってしまったからさ。あの素晴らしい作品をね」

「ひとつもつくらないの? 何故?」

「俺には芸術をつくる人の気持ちがほんとうには分からんが、奥さんに理解されたい動機が消えてしまったからではないかなあ」

「え、それだけ?」

「勿論それだけじゃないと思うけどさ。でも、それが大きな原動力だったことは確かさ。玄田さんの燃えるような熱情は、どこかに消えてなくなった。個人的には幸福な終わりかも知れないが、人類にとっては大きな損失だ」

「?」

「我々人間は死ぬ。どんな人でもすぐにいずれだ。だから芸術とは、神が定めた運命を超える、人間に与えられた唯一の力なんだ。だから芸術は素晴らしいんだ。十年や二十年の短いスパンじゃない。三百年、五百年、千年先まで、玄田さんの花瓶は残り、その熱情を共有できたはずなんだ。それが未来の人を救えた筈なんだ。それが永久に新作がなくなった。それがどれだけ損失かわかるか? あれ以上の作品を見る機会が永久に失われたんだぞ? 人の力には価値があると、神に示せなくなったんだ!」

 鵠沼は肩を落として嘆いた。そのため息は、心の闇を呼び寄せるように深かった。

「……奥さんと和解の仕方がもう少し別であれば、更に彼の芸術は窯変したかも知れないのに。言っても詮無いことだが、きみは、花ひらく芽を勝手に摘んだ」


 肩を落として去ってゆく鵠沼を見て、シンイチは急に信念がぐらついた。

 自分が良かれと思ってしたことは、本当に正しかったのだろうか。玄田の運命を変えて幸せにしてやったと考えるなんて、なんと尊大なことを考えているのだろうかと、自分の根底がぐらついた。


 てんぐ探偵は、今まで人を救ってきたと思っていた。

 本当にそうか?


 勝手に人の家に土足で上がりこむように、づけづけと心の中に踏み込んで、人の人生を勝手にぐりぐりとかき回し、勝手に改変してドントハレと悦に入っていただけではないのか? 運命を変えるなんて、なんて独善だ。力を鼻にかけた天狗だ。まるで魔道天狗だ。


「……何様のつもりだよ」

 急に腰のひょうたんが、何の価値もないように思えてきた。これは独善の装置である。そう思えて、急に投げ捨てたくなってきた。

 そこへ、野良「心の闇」が、さっきの鵠沼のため息を嗅ぎつけたのか、風に乗って運ばれてきた。妖怪「弱気」。またレベル一からだ。こんなやつ、「つらぬく力」で串刺しにして…………アレ?

 シンイチは右手の人差し指を「弱気」に向けたが、何も出なかった。

「アレ?」

 あせって何度も何度も指を突き出す。しかし何も起こらない。左手でやっても、「ねじる力」に変えても、何も起こらなかった。

「じゃあ不動金縛りで……」

 早九字を切り、「エイ!」とやっても何も起こらない。

「あれえ?」

 じゃあ小鴉で真っ二つに……

「あれ?」

 朱鞘から小鴉を抜いても、炎が出なかった。

「あれ? ……あれ?」

 振ろうがねじろうが、黒曜石の刀身は冷たいままだった。

「火よ在れ! 火よ在れ! 火よ在れ!」

 どれだけ叫んでも、火は出なかった。「最初の日」に大天狗に授かり、遠野早池峰はやちね山での宴会とともに飛天僧正が修復した「火の剣」は、ただの小刀になってしまった。


 天狗の力が、シンイチからまるで失われたのだ。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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