おっさんはスカートに高貴な精神を隠す

電車の扉が開き、ホームに降りようとしたら目の前に女子高生風ミニスカートを履いたおっさんが立っていた。


電車の窓からは見えない下半身にスカートを巻き、膝丈の黒い靴下がこげ茶色のローファーから伸びていた。女子高生が使うスクールバッグが両肩から提がっており、それなりの混雑だったのにその扉からはおっさん以外誰も乗り込もうとしなかった。降りる客は彼の顔とスカートを二度見比べてそれでも決して彼と目を合わせようとしない。私が降りる時、彼は改札への道を開けてくれた。とても自然体な姿だと思った。


暑くなるとおかしな人が増えるという。暑くなってくると薄着に着替えて開放的になったりだとか、暑さに耐えかねつい捨て鉢な気持ちになって奇行に走ってしまうであったりだとか、いろいろな話を聞く。梅雨が明け、カエルの嬌声が止んで蝉にとって代わる頃におかしな人が出る。それらが一緒になって風物詩のように語られたりするのも毎年の情景である。私も一瞬だけこんなことを思った。変態だ、と。


ただし、彼は違った。尾籠な話で恐縮だが私もかつて局部を披露してくれる男性や銭湯で執拗に付き纏い臀部を触ろうとする中年に行き遭ったことはある。しかし彼らから感じた能動的な情欲、精神の高揚のようなものが彼からは一切感じられなかったのである。もちろん能動的変態と受動的変態の差異はあるのだが、押し殺している様子すらない静の境地であった。


彼は地球上に我と電車のみありという態度で、恰も下校途中の女子高生が何らかの魔法で気付かぬうちにおっさんの姿にされてしまったかのようであった。確信があるのだが、彼はあの時自分がスカートを履いている、ということは意識の外にあった。私たちも常日頃から「服を着ているな」と思わずに生活しているのと同じように、スカートや靴下、スクールバッグがコスチュームではなく普段着、体の一部と化していた。


私が振り返って発車する電車を覗くと、やれやれという声が聞こえるような疲れた様子で座席に沈み込んだ。何故だかわからないが、そのおっさんが私の意識から離れなくなった。


確認であるが男性がスカートを履いて生活することには何の法的制約もない。法的制約のないものが忌避される度合いというのは大抵生理的嫌悪やら違和感の程度によって規定される。例えば男性の着用するスカートという世界においてスコットランドのキルトは「伝統」という言葉の傘下で一応庇護され、ミャンマーのロンジーのようなものは「私は好きじゃない(嫌い)だけど…」といって受け入れられなくはない印象がある。その中でおっさんのミニスカートというものは全く許されない。女子高生、という属性の付与が更にダメを押している。


今挙げたスカートのうちの前者二種はその布の奥に伝統を隠しているのに対し、おっさんのミニスカートの奥には自らの欲望が隠されている。だから許されないのである。そしてスカートの構造上、その封印が非常に甘い。これが問題で、おっさんのミニスカートは刀剣を鞘に納めずぶらぶらと右手に提げているような、危険と目されてしかるべき所作の一種なのである。


その上で私は先の彼を思い返す。なぜ彼はあんな格好をするに至ったのか。人には他人には想像もつかない事情を抱えているものなので、もしかしたら娘を人質に取られており、身代金を要求する犯人が娘の制服を着てやって来いと注文を出したのかもしれないし、飲み会で余興をしていたところ、妻が倒れたとの報を聞いて駆け付けた帰りだったのかもしれない。


しかし私はそんなのっぴきならない事情、やむを得ない事情によってスカートを履いているのではないと思う。そうでなく、あってほしいのだ。


電車に乗り込む瞬間、恥じらい、喜悦、興奮、悲哀、そんなものからは遠く離れた孤独で誰も及びつかない境地に彼は屹立していて、周囲の視線や好奇、嫌悪をものともしないその姿勢は私の理想とする境地に到達していた。高い精神性の可視化された状態が彼なのであって、私はブロッケン現象のように地上に伸びたその高い精神性を見たにすぎないのかもしれないとすら思った。いずれにせよ、変態という一言で片づけそうになった自分を恥じ入り、いつかあんな境地に立てたなら大自在であるのにとも思った。


これが2日前の出来事である。これを日記に書いてから2日経っているが、未だに泰然自若の彼を思い出す一方、夏の暑さにやられてしまったのは私の方かも知れないとも考えているが、答えはまだ出ていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る