机上の九龍城、デカルトの罪

この愚にもつかない文章たちのタイトルは「ウーロン茶に騙されている」なのだが、本当はもっと別のタイトルを考えていて、それは「机上の九龍城」というものであった。無論、机上の空論と九龍城をひっかけたものであって(少し恥ずかしいが)我ながら気に入っていた。誓って言うが自分の頭で考えたものである。妄想だけは立派だという印象がつくし、何より語感がいい。これ以外にありえないと思っていた。


ただし一応、念のために既出ではないかどうか確かめるために「机上の九龍城」でgoogle検索してみたところなんと9000件もヒットした。思わず笑ってしまった。ツイッターアカウントや個人ブログ、果てはマンガや映画までありとあらゆるところに机上の九龍城は林立していて私の九龍城はインターネットによってすっかり瓦解したのである。


更に、さほど気に入ってはいなかったが「畳睡蓮」というのも候補には上がっていた。畳の上の水練と睡蓮をひっかけ(また恥ずかしくなってくる)、無為な文章ですよと言う印象を狙っていたのだがこれに関してはgoogleが「畳水練」しか検索してくれない。例の如く「畳水練では?」と聞いてくることもなくひたすらに「畳水練」を出してくるので、つまらんアイデアだと言われているような心持がしてその睡蓮は胸の中に隠してしまった。因みに畳メーカーの商品で「睡蓮」と言うのがあったため畳業界では鉄板ネタなのだろうと思う。


以上から70億もの人がいる世の中で、真に独創的な考えなど一握りの人間によるものだということを痛感したのである。


今ひとくちに70億人と言ったが、人間が誕生して以来(どこからが人間とするかの線引きにもよるが)この地球に生きた人間は400億から1000億と推定されるらしい。推定なのに600億も開きがあっていいのかと思わなくはないが、とにかく最低でも400億人が何かを考えてきたこの人類の歴史の先っぽで細々と生きる私に、独創の余地は残されているのだろうかと考えずにはいられない。


独創のチャンスは新しいものほど多く宿り、古くからあるものほど少ない。科学技術などが前者の例で、後者の例が言葉や創作といったところだろう。前者のことは私にはとんと分からぬ。よって独創をはためかせる為にはまずどうしても後者で挑みかかる必要があったのだが、これにほとほと困窮している。そもそも若輩者である私が「挑みかかることが出来る」と考えているのは言葉、創作の世界への参入が簡単であることを意味する。


コンピュータの世界へ参入するにはプログラミング言語が必要でそれが参入障壁になっているのだが、言語創作と言うのは基本的には入るだけタダというか、一応誰でもウェルカムという体裁を取っている。参入が簡単である故、分母が大きくなる。分母が大きいということは頂上が高くなるということであり、独創があまりにも困難であることを暗示していると見ていい。


どこかで聞いたことの受け売りなのだが、「勉強というのは先人の作り上げてきた山に登るようなものだ。ほとんどの人間は登山に汲々として頂上に辿り着くことすら叶わずに道半ば、志半ばで挫折してしまう。そして限られた一部の人間がその頂上に1つ、石を置くことが出来る」という言葉があり、私はははぁと感じ入ったものだ。全くこの通りであってよしんば何か積み上げることが出来たとしてもたった石1つなのであって、そこに辿り着くことすら常人には夢のまた夢なのである。たまに山を一つ作り上げるような人がいるがそれが天才、鬼才と呼ばれる人種なのだろう。


私は常々考える。例えば自分が70億人いたとして、何か新しいものを生み出せるのかと。恐らく無理であろう。こうしてカタカタ叩いているパソコンも、キーボードのキーも、鉛筆すらも作れない気がする。形あるものが無理ならば何か新しい言葉でも、と考えチャレンジしてみた結果が上のタイトル探しの顛末である。Google検索は残酷だ。是非挑戦していただきたいのだが、なにか新しい言葉、特に洒落めいたものを考えて検索窓に打ち込んで検索数を見る。すると如何に自分が平凡なのか思い知る。私は日本語しか扱えないので日本語検索するのであるが、英語が扱えなくてよかったと思う。分母の大きい山ほど登るのは大変だ。


ここに登場してくるのがデカルト先生である。断っておくが私はフランス語はおろか、哲学を学んだことすらないので非常にトンチンカンなこと言って聡明な方々の怒りを買うかもしれないがその場合は戯言だと思って馬鹿にしながら読んでいただきたい。あくまで言葉尻を捉えただけの遊びだと思ってくださいどうか。これくらい予防線を張っておけばいいだろう。


デカルト先生は主著『方法序説』の中で述べた「我思う、故に我あり」というフレーズが今もバカ受けしているフランスの哲学者である。岩波の『方法序説』を読んだときは正直、「言い回しが外国っぽいな」「やっぱり宗教裁判とかこわいから予防線張りまくってるのかな、親近感湧くな」という非常に頭の悪い感想と「『方法序説』読んだで!なんか神様いっぱい出てきた!」という虚栄の満足心を得て終わってしまったのだが、ここにきて先生が私の中で別の意味を持ち始めたので恐縮ながら、こんな汚い文章にまでご足労戴いた次第である。


先の有名なフレーズが出てくるのは第4部(かの本は全6部から成り立っている)であるが私の中で最も意味を持つのは第2部にある、「けれども、学院にいたころから、どんなに風変わりで信じがたいことを想像しようとも、哲学者たちのだれかによって言われなかったようなことは一つもないのを学び知った」という一文である。


要はデカルト先生も学生の時分、独創のむずかしさを知ったのである。当時はネットもないので学院での講義が全てであり、そこで知ったことから膨らむ自らの「風変わりで信じがたいこと」もすべて、先人によって語られていることを発見したのである。読みながら当時の先生の心中勝手にお察しして私も辛くなったものだ。


しかし先生はあきらめない。「あらゆることに周到な注意を払おう。そうやってほんのわずかしか進めなくても、せめて気を付けて転ぶことのないように、とわたしは心に決めた」のち論理学や幾何を学んだとある。山を登り始めたのだ。少しでも楽をしようと山の周囲をぐるぐると徘徊するだけの私との違いに愕然とする。そうして「自分の意見をすべて検討に付そうと思って、その時からすでにそれらを無に等しいものとみなしはじめ…(第3部)」と段々到達点に近づいていく。


「我思う、故に我あり」という文言を初めから知っている人は多くいると思う。私も学校の知識としては一応知っていた。しかし学校の知識と言うのは、私の学びが悪いことを棚に上げて言うことを許していただけるのであれば―ひどく平面的である。学校の知識に従うとパスカル先生は生涯で「人間は考える葦である」としか喋らずあとは三角形を書いて遊んでいたかの如くであるし、お釈迦様も「天上天下唯我独尊」と言った後、涅槃目指してただひたすら寝ていたかのように思われる。


同様のことがデカルト先生にも言える。「我思う、故に我あり」という言葉自体のキャッチ―さも相まってまるで流行語であるかの如く軽く、捉えていたのだが、こうして書物の中で具に語られる理論と実践の後にその言葉が見え隠れし始めると私はどうにも苦しくなった。もっと有り体に言えばそれを言わないでほしいと思ったのである。


それはなぜか。それは、私が独創するにあたって最初に挑むべき砦、最初に独創すべきだったものはその言葉だったとやっと気づいた為である。つまり「机上の九龍城」も「畳睡蓮」も既に過去に語られた内容ではあるが、それを考えた自分の存在には疑いがない。この事実から「我思う、故に我あり」を自らの頭で創出することが必要だったと思い至ったのである。


デカルト先生は第4部の殆ど冒頭で「次のことに気が付いた。すなわち、すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。」述べ、上記の格言を残した。翻訳の力もあろうが、非常に分かりやすい言葉で綴られており前段に書いた私なりの「我思う、故に我あり」への助走とは比ぶべくもない。


しかし私、烏滸がましくも主語の拡大を行うなら―我々人間はこれに自ら気付かなくてはならなかった。少なくともそのチャンスを与えられるべきだったのにも拘らず、学校の中でこの言葉のみを先行して15歳ほどの少年少女に教えるのは独創の萌芽を摘んでしまうことに他ならないと思う。そしてデカルト先生は先の格言に気付いたのであれば執筆せずに胸にしまっておくべきだった。デカルト先生が胸にしまっていても誰かが見つけたというならその誰かも胸に隠しておくべきだった。そうして誰もが気付きながら誰も口に出さない、そうあるべき性質の言葉が「我思う、故に我あり」であると私は固く信じている。


そうして秘匿されてきたとして「我思う、故に我あり」を私が見つけ出せたかどうかは分からない。でもやはり見つけるチャンスは与えられたかったと思うのは甘えであろうか。私はこれをデカルト先生の罪だと考えたのであった。


という内容の文章、思想も恐らく世界のどこかにあるに違いないことにもう悲しんだりすることは無い。それは英語の論文かもしれないし、ドイツ語で書かれた日記かもしれない。或いはアフリカのどこかで誰かが話して笑われた内容なのかもしれない。デカルト先生の言を借りて独創を果たそうなどと、努努思うこと勿れ。そう自戒せずにはいられない。


未来に思いを馳せてみると、「机上の九龍城」で検索してこのくだらない文章に行きつく人がいるかもしれないと思うと愉快な気持ちになる。きっとがっかりしているに違いない。また独創が阻まれた、と。しかしそれを想像して楽しくなることくらいは許して欲しいのだ、「机上の九龍城」の供養だと思って。

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