18


 順弥の背後に降り立つとすぐに、由紀は魔装鎧を脱ぎ捨て、自分を受け容れてくれた京子に向かって走っていった。

 大竹の攻撃を、順弥が防いでいるから出来ることだが、自分がいつの間にか、少年に絶対の信頼を置いていることに、彼女は気づいているのだろうか。

 泣いていた。

 嬉しかったのだ。

 私は、人間として生きていける。

 あなたがいるから、私はまだ死ねない。

 裸のまま由紀は、京子の胸に飛び込んだ。

 自分の腕の中で、ありがとうと繰り返す由紀を、京子はぎゅっと抱きしめる。

「ごめんなさい、由紀。――愛しているわ」

 自分は、彼女を化物と呼んだ。にもかかわらず、彼女は私を愛してくれている。

 それを感じる。

 言葉ではない。心が感じるのだ。

 それは、由紀とて同じだ。

 化物の自分を、愛してくれている。

「愛してるわ、京子」

 繰り返し言って、由紀は京子の唇に自分のそれを重ねた。

 愛し合う。

 それだけで、人間は他人ひとを受け容れることが出来るのだ。

 二人にとって、長い時間が過ぎた。

 実際には、数秒にも満たぬ時間だったが、それで充分だった。

「戦おう、由紀」

 京子が唇を離すと、由紀の眼をまっすぐ見ながら言った。

 由紀は、京子の言葉に驚きを隠せなかった。

 まさか、京子がそのようなことを言うなどと、思いもよらなかったからだ。

 それは、しかし、京子とて同じであった。

 本当なら、このまま二人で逃げ出したかった。

 たとえ逃げたとしても、あの少年は何も言うまい。

 いや、むしろそれを望んでいる筈だ。

 生きること。

 生命を無駄にしてはいけない。

 今逃げ出せば、二人は助かるかも知れない。そのために、少年は犠牲になろうとしているのだ。

 だが、それは自分勝手な思いだった。

 逃げてはいけないのだ。

 自分も由紀も。

 これは、運命なのだ。

 京子は、ようやく順弥の言った言葉の意味が分かった。

 あの男は、ここまで由紀を追ってきた。ならば、どこまででも追ってこれる筈だ。

 

 そして、運命から逃げることなど出来はしない。

 生き延びるためには、立ち向かうしかないのだ。

 たとえ、生き延びることが奇蹟だとしても、奇蹟は起こさなければ意味がない。何もやらなければ、奇蹟など起こりはしないのだ。

 そして何よりも、由紀が、逃げることを望んでいなかった。

 だから――

「戦って、由紀。そして、生きて還ってきて」

 そう決心したのだ。

「私、待ってるから…」

 愛する者が生命を賭して戦う。もしかしたら死ぬかも知れぬ戦いを見守る――それは、己れ自身との戦いと言えるだろう。

「――ありがとう、京子」

 そう告げる由紀の眼には、もう、全てを決意した光があった。

 愛する京子から身を離し、再び呪われた鎧をまとう。

 いや、もう呪われてなどいない。

 愛されている、その事実を手に入れた由紀にとって、この異形の鎧は『誇り』だった。

「行って来ます」

 振り向き、京子に微笑みかける。

「必ず、還ってきて…」

 京子は、そんな由紀に祈るような気持ちでそう告げた。

 風を巻き、『鳥人』が空に舞い上がった。

 今度は、絶望はなかった。

 そう、未来を切り拓くために。


 そして再び、二振りの剣は激突した。

 順弥が何とか体勢を整えて剣を振り上げたのだ。

 凄まじい力の爆発であった。

「な、なにぃ…!?」

 思わず弾き飛ばされそうになるのを必死でこらえながらも、大竹は驚愕を抑えられなかった。

『騎士』型の鎧は、確かに汎用性を重視して設計されている。『巨人』や『鳥人』、『騎馬』などのようにそれぞれの特異性を前面に押し出した魔装鎧と異なり、別の何らかの力を借りれば馬に乗って槍を振るい、空を飛ぶこともできる。だが、それは同時に、それ一体では『騎士』型の鎧でしかなく、その力も『巨人』のそれには遠く及ぶべくもない。

 その筈だった。

 だが、現実はどうだ。

 目の前の『騎士』は己れ自身で『鳥人』の如く空を飛び回り、『獣人』の身体を引き裂き、そして『巨人』をも上回る膂力を発揮している。恐らく、『騎馬』のように地を駆けることも出来るだろう。

 何という…何ということだ。

 偶然が生み出した最強の敵。

 そして今また、息もつかせぬ速さで剣を繰り出してくる。

 大竹はもはや防戦一方だった。

 受けるのが精一杯で攻撃など出来はしなかった。

 信じられなかった。

 もうどれくらい、『騎士』の剣を受け続けているのか、大竹にもわからなかった。

 焦燥と恐怖が、心の中を占める。

 そのとき気がついた。

 自分の鎧のあちこちに、無数の傷が生じているのだ。

 何かで斬られたような鋭い傷だ。しかし、自分はこれまでに一度たりとも敵の剣を受けたことがない。確かに、これまで魔装兵士に抗しうる力を持つ者など存在しなかったためでもあるが、何よりも『巨人』の分厚い鎧が傷つくことなど考えられなかった。

 それが今、全身に数え切れぬ傷を受けている。

 まさか――

 悟った。

 これは、奴の剣が生み出す剣風によるものなのだ!

 戦慄を禁じ得なかった。

 負ける――

 そして、大竹はそう直感した。

 このままでは、やがて全身を切り刻まれて、俺は死ぬ。だが――

 そうだ。だが、ここで負けるわけにはいかない。

 早く来い。早く来て、奴に隙をつくってくれ。

 死と背中合わせになりながら、全身を恐怖に絡め取られても、大竹は何かを待っていた。

 その何かとは――

「順弥君!」

 ――来た。

 声が聞こえた瞬間、大竹は兜の奥で凄絶な笑みを浮かべた。が、むろんその笑みに、順弥が気づこう筈がない。

 声は、二人の頭上から降ってきた。

 見上げるまでもない。津田由紀が、再び鎧をまとって戦線に復帰してきたのだ。

 思わず、おそらくそれは本人にとっても無意識の行動だったのだろう、順弥は剣を繰り出す手を止めてしまっていた。

 その一瞬の間隙が、後にどれほど順弥を苦しめることになるか、神ならぬ身にわかる筈もなかった。

「私も、戦うわ!」

 そう宣言し、由紀は地上の『巨人』に向かって、背中の羽を大きく羽ばたかせた。

 烈風が舞い、その空気の激流の中、銀色に光る何かが無数に飛んだ。

 羽根だ。

 大竹は瞬間に悟った。それは、由紀の、というよりも『鳥人』の能力を知っていたからにすぎない。知らなければ、高速で射出される無数の金属製の、しかも魔界の生物と融合した羽根を全身に受け、即死していただろう。

 そしてもう一つ幸運だったのは、大竹の全身が、由紀の羽根の貫通力を遥かに凌駕する分厚い鋼で鎧われていたことである。

 それでも、眼と口は塞がなければいけなかったので、大竹はとっさに両腕を眼前で交差させて羽根の猛襲を防いでいた。

 羽根は、『巨人』の全身に突き刺さっていた。しかし、それは表面に引っかかっている程度でしかない。いかにその羽根が、刺さった相手を即死させてしまうほどの毒を持っていようとも、人体に直接刺さらなければ何の意味もない。

 馬鹿め。

 嗤って、眼を覆っていた腕を下ろし、全身の羽根を払い落とそうとしたとき、

「――!?」

 大竹は驚愕に眼を剥いた。

 何を見たのか――。

 次の瞬間、左眼の視界が真っ赤に染まっていた。

「ぐわああああ!?」

 まさに獣の咆哮が、『巨人』の口から迸る。

 大竹が吼えているのだ。

 今、大竹の左眼には、由紀の細身の剣レイピアが突き刺さり、切っ先が後頭部から突き出ていた。

 羽根は囮だったのだ。

 舐めてかかっていた自分の詰めの甘さに、大竹は怒った。そして、全身を疾り抜ける激痛に身を焦がしながら、大竹は左眼に深々と突き刺さり、後頭部へ突き抜けている剣を引き抜いた。

 右眼で、糸を引いて、剣に刺さったままの左眼を見た。

 発狂しそうなほどの恐怖と戦慄に、全身が粟立つ。

 そして次の瞬間、ごつんと左腕に何かがぶつかるのを感じた。


 何だ――

 大竹は、残った右眼で見た。

 死角になった左半身に眼をやったとき、大竹は不可思議な違和を感じた。

 何か、違う。

 何か、おかしい。

 それがなんなのか、一瞬わからなかった。

 そしてわかったとき、再び絶叫が口を衝いて出た。

 左腕の肘から先がなくなり、地面に落ちているのだ!

顔面を蒼白にしながら、残った右眼を限界まで見開き、大竹は自分の足許に転がる左腕を見た。

 そして、そのすぐ脇に、『騎士』がいた。

 血に染まった剣を構えて、奴は、やったという笑みを浮かべていた。

 その、漆黒の兜の奥で閃く笑みを見た瞬間、大竹は動いていた。

 ふっと意識が途絶えた。怒りが、大竹を衝き動かしたのだ。

 まさに、颶風。

 まさに迅雷のごとき反撃であった。

 手にしていたレイピアを投げ捨て、順弥との間合いを一気に詰める。そして――

「――!?」

 大竹の動きの速さは、順弥にとって予想外であったのか、それとも油断していたのか、鞭のようにしなる巨大な猿臂で手にした剣を弾き飛ばされ、転瞬、その首を正確に捕らえられていた!

 しまった!?

「馬鹿め! どれほど魔装兵士を倒し、経験値を上げてきても、貴様はやはり出来損ないだ! 俺を殺す絶好機をまんまと逃すとはなぁ!」

 眼の前に、大竹の凄まじい狂気の笑みが広がる。

 眼が血走っていた。

「そして――津田由紀! 貴様は、俺が殺す!」

 その刹那、大竹の背中から黒いものが飛び出し、空中の由紀めがけて一直線に疾った!

 虚を突かれ、逃れられなかった。

 そして一瞬にして、由紀は大竹の背中から生えた第三の腕に掴み取られていたのである。

「ば、馬鹿なぁ……」

 巨大な手が、由紀の鎧を着けていても華奢な身体をギシギシと締め付ける。

 鎧が悲鳴を上げていた。

 そしてついに、何かがへし折られる音がして、由紀が血を吐いた。

「悔しいか、一〇五号」

 凄まじい形相で、大竹が嗤う。

「死んじゃいけない、だと? だが、どうだ。お前が守ろうとした女が、今、眼の前で死にゆこうとしているのを見て、何も出来ぬ自分がさぞ悔しいだろうなぁ」

 大竹が、自分の腕で順弥の首をさらに締め上げる。兜の奥の順弥の顔は、すでに血の気を失い、真っ青であった。酸欠状態になり、視野狭窄を起こしつつある。

「俺も、悔しかったよ。貴様が、隊長たちを殺すあの瞬間――俺は、何も出来なかった。悔しくて、悔しくて。ただ、見てるだけだった。そして今日まで、いつの日か、必ずお前を殺す、それだけを考えてきた。いいことを教えてやろう。俺のこの鎧には、佐原隊長、高瀬、山岡の身体が融合している。バラバラに切り刻まれた三人の身体を、俺のこの鎧に移植してもらったのだ。四人で殺すのだ」

 大竹が、全身を震わせて嗤った。

「わかるか。嬉しいのだよ。お前が、誰の手にもかからず、今日まで生きていてくれたのが。殺してやる。その身体を百の肉片に引きちぎって、踏みにじって殺してやる。だが、その前に、お前が守ろうとした女の死にゆく様を先に見させてくれる」

「…な…何だと…?」

「お前たちがいたあの部屋に撃ち込んだ銃弾。あれは、どこから発射されたものだと思う?」

 その声を聞いた途端、順弥の顔色が文字通り蒼白になった。

 まさか――!?

「そうだ。今、津田由紀の身体を掴んでいる、あれは佐原隊長の腕を改造したものだが、あれから発射されたのだよ。こんな風にな」

 大竹の顔が狂喜に歪んだ瞬間、砲声が連続して大気を震わせ、由紀の身体がエビのように何度も跳ねた。

「い、いやああああ」

 早坂京子の絶叫が響き渡る。

 狂いそうなほどの絶叫であった。

 それもその筈、由紀の身体に、直径二〇センチ近い穴が開いているのを見たのだ。

 ゴボッという音がして、由紀の口から大量の血があふれる。

「ゆ、由紀さん!?」

 暗くなった順弥の視野にも、由紀の口からあふれる朱は鮮烈だった。

 すでに、由紀の下半身は朱に染まり、地面に赤黒い染みをつくっている。

「――だが、これほどの傷を受けてもなお、死ねぬというのは苦しいものだな」

 大竹の言う通り、由紀が受けた傷はすでにふさがりつつある。魔装鎧に含まれた魔獣たちが、その凄まじいまでの回復力を発揮し、細胞を増殖させて穴をふさいでいるのだ。当然、魔装鎧と融合した由紀の身体も同時に治癒していく。

 大竹の言葉に、由紀は力なく笑った。

 その通りだ、とでも言いたいのだろう。

 血にまみれた美貌が、凄絶なほど美しかった。

「しかし、殺してやろう」

 大竹が、冷たく言い放つ。

 その瞬間だった。

「ぎゃあああああ!?」

 由紀が、凄まじい絶叫を放った。

 まるで電流が疾り抜けるかのように、手や足を、そして全身を痙攣させて叫んでいる。

 何が起こったのか――

 茫然となる順弥に、大竹は由紀をボロ雑巾のように放り捨て、嗤いかける。

「『妖蛆』(ワーム)だ」

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