8

 ようやく再生が終わり、身体に力が戻って来た。何処から戻ってくる力なのか、と自嘲気味に思う。これは、人の力ではない。

 ともかく、江崎――『騎馬』型パラディン・タイプ馬上槍ランスに貫かれた腹や左眼が、今や完全に元通りに治癒していた。驚くべき、いや、当然の回復力である。

 順弥は呻き声を洩らし、ゆっくりと身を起こした。まだふらつく。思わずブロック塀にもたれかかる。

 空を見上げた。

 絶望の色が広がっている。すなわち、夜闇と星の瞬き。

 少年は疾った。

 もう遅いかも知れない。だが、そうだからといって、今ここで走らなければ、自分はきっと一生後悔する。

 順弥は人々の間を全力で走り抜けながら、涙を流していた。

 ああ、外にさえ出なかったら、少なくともあのひとだけは守ってあげられたのに。

 いや、あの女に会いさえしなければ…。

 同時に、順弥はジレンマに襲われていた。

 もっと速く走りたい。鎧を身につければ、人の数倍のスピードで走れるのはわかっている。しかし、それは出来なかった。鎧をまとえば、その邪気が人を刹那のうちに衰弱死させ、走ればそれが巻き起こすかまいたちが人を切り刻むであろうことを、順弥は知っていたからである。

 だから、走れなかった。そして、それ故にもどかしかった。

 マンションが見えた。

 順弥は、姉さんと叫んでいた。

 マンションのロックを解き、駆け込んだ。

 入り口のドアを破っても良かったのだが、下手に騒ぎを大きくするのは、却って厄介なことになる。そう順弥は考えたのである。

 エレベーターは二つあるが、片方は二五階で止まり、もう片方は二〇階で止まっていた。

 エレベーターで昇ってもいいが、今の順弥には、その待ち時間さえも惜しかった。

 次の瞬間、順弥は姉さん姉さんと呪文のように繰り返しながら、階段を駆け昇っていった。

 二〇階までは三分ほどで着いた。

 結局は、エレベーターの方が速かったのかも知れないが、それでも、順弥には待てなかったのだ。

 順弥は、二〇階に着いたとき、息一つ乱していない自分に気づいた。

 これが魔装鎧の、そしてそれを身につける人間の潜在能力の高さなのだと思うと、自嘲めいた笑みがつい浮かんでしまう。

 順弥に休んでいる暇はなかった。

 その一瞬の停滞すら、今の順弥には許されないものであった。

 だから少年は走った。

 走って、京子の部屋の前に立ったとき、絶望を感じ取っていた。

 それを感じることが出来たのは、順弥の感覚が異様に発達していたからだ。

 ドアは閉じられていたが、そのわずかな隙間から自分と同類の人間の気配が洩れてきていた。

 同時に、血の臭いも…。

 ドアは、順弥を迎え入れるかのように、ギィと開いた。

 順弥は、息を殺して部屋に入っていった。

 廊下を、音を立てずに歩き始めたとき、

「お帰りなさい、一〇五号」

 暗闇の中、奥の方で女の声が聞こえた。京子の、あの優しい声ではない。冷たい、氷のような声。表情のない声。

 敵だ。

 順弥の表情が一層険しくなる。

 順弥は、声のした部屋――寝室へ向かった。

 玄関灯はついておらず、室内は暗闇が支配していた。しかし、外の光が射し込んでいるため、完全な暗闇ではなかったが。

 そして順弥には、たとえ漆黒の闇の中でも周囲を見渡せる眼が与えられていたので、それだけの明かりがあれば、部屋の様子は手に取るようにわかった。

 寝室のベランダに続くガラス戸が開け放たれていて、そこから微かに風が吹きこんでいた。その風が、血の臭いを運んでくるのだ。

 そこには二人の男と一人の女がいた。

 その女が、早坂京子のマネージャーであることなど、順弥は当然知らない。

 そして、死体が一つ。

 今、二メートル近い逞しい肉体の男が、全裸に剥いた女の死体の脇腹に啖いつき、その肉を咀嚼していた。

 そして、紫色の忍び装束に身を包んだもう一人の男は、ギラギラと眼を欲情にひからせて、死体の尻を抱え犯していた。

 色の白くなった京子の死体が、血にまみれて赤く染まっている。

 一種、凄愴な美さえも感じさせる。

 ツンと上を向いた形の良い乳房は、すでに右側が無くなっていた。赤黒い肉の間から、白いものが見え隠れしていた。肋骨だろうか。

「少し、遅かったわね」

 女、由紀が艶然と微笑みながら、腰かけていたベッドから立ち上がる。

「――さ、『ノウド』へ戻りましょう。戻って、もう一度手術を受けるのよ。それが、あなたのためなのよ」

「嫌だ、と言ったら?」

 順弥は、流れ出た涙を拳で拭って、由紀を正面から睨み返していた。

「そう言うと思っていたわ。すでに、お前が私たちの仲間を一人、殺しているという報告が入っている。どのみち、お前に選択の余地は残されていなかったのよ。断れば、即刻処刑。――ここで、死んでもらうわ」

 由紀が、京子を犯し、喰らう男たちに、順弥を殺せというジェスチャアをした。

 瞬間、忍者が姿を消した。

「――!?」

 鞘鳴りは背後で生じた。

 そう思ったときには、順弥の左胸から銀色の光が噴き出していた。

 そしてその光は、少し短めの刃になった。

 血が気管に入り、口腔に溢れかえる。

 順弥は、大量の血を吐いた。

 ともすれば消えかかる意識を、順弥は必死でつなぎ止めていた。

 怒りと復讐。

 それだけのために。

 刀が引き抜かれるのを、順弥は紗のかかった意識で感じていた。

 次は、恐らく首を狙ってくる。

 自分が江崎に対してしたように、先ず動きを止め、そして首を落とすのだ。

 順弥は倒れかかる己れの身体を支えようと、足を一歩踏み出していた。

「――!?」

 由紀の美貌が、一瞬驚愕に染まったことを順弥は知らない。

 順弥は咆哮を挙げて、身体ごと振り向いていた。

 その瞬間、魔装鎧『騎士』型ナイト・タイプの二つのプログラムが実行ランされる。

「ちぃ!」

 正面の敵は、『忍者』型だった。

 どのタイプの魔装鎧よりも、敏捷さを要求される『忍者』の装甲は、通常の三分の一程度の厚みしかない。この防御力の低い鎧を身に着けるために、これを身につける者は他者とは違った肉体改造を受ける。この手術がかなりの負担を生体に強いるらしく、完全な『忍者』となったものは数少ない。しかし、その分、反応速度と隠密性は他に比べて数倍勝っているのだ。

 そういう情報が、一瞬で頭の中に流れ込んで来た。

 その『忍者』が、眼の前にいる。

 すでに、背中の忍者刀は抜き放たれていた。

 今、二つの魔装鎧が対峙する。

 瞬間、銀閃!

 金属と金属のぶつかりあう音が弾けた。

「――ぬう!?」

 覆面の向こうで、『忍者』が呻く。

 振り下ろされた忍者刀が、『騎士』の両手に見事にはさみ止められていたのである。

 つまり白刃取りを、順弥は難なくやってのけたのだ。

 順弥は、間髪入れずに魔装鎧の右脚を跳ね上げさせた。

 まさに迅雷の如きスピードで、右脚は『忍者』の脇腹にめり込んだ。

 げっと呻く『忍者』の手から忍者刀が離れ、そのまま『忍者』はすぐ脇の壁に思い切り叩きつけられた。

『忍者』を中心に、無数の亀裂が壁に疾る。

「――!?」

 順弥の背後で風が唸る。

 電光のように身を翻す。と、正面に獣の爪が迫って来ていた。

 再び脳裡に光が走る。情報が流れ込んで来るのがわかる。この現象は、江崎と闘ったときにはなかったものだ。ということは、江崎を倒すことによって、順弥は鎧の能力を己れのものにしたということではないのか。

 そういう推測はつくが、順弥はそれをいちいち吟味することなく受容していた。

 許容量キャパシティが大きいというわけではない。そんな暇がなかったのである。

 ともかく、次の敵は『獣人』型ウルフマン・タイプだった。このタイプは、通常の魔装鎧とは異なり、人間の肉体そのものを変化させる。至近距離からのマグナム弾にすら耐え得る肉体、コンクリートの塊をも引き裂く爪、鉄筋をアメのようにねじ曲げる筋力、そして獰猛な顎。それらを合わせ持つ彼らは、肉体改造手術が他種よりも比較的容易に可能であるため、かなりの数、かなりの種類量産されていた。

 ちなみにこのタイプは、ある特殊な溶液で充たされた水槽の中で、コンピュータによって肉体改造が行われるのである。

 しかし、欠点はある。変身後、人間としての能力――理知性が著しく低下してしまうのである。

 改良を重ねているのだが、今なお遺伝子レベルに組み込まれた肉食獣の獣性に、人間の欲望がかなりの影響を受けている。

 だから、喰ってしまうのだ、人の肉を。

 その『獣人』の爪を一撃くらえば、如何いかな魔装鎧とはいえ、容易に砕かれてしまう。当たり所が悪ければ脳を破壊されて、あの世行きだ。――どうする!?

 順弥は手にした忍者刀を持ち直して、

「哈ァッ!」

 裂帛の気合いもろとも、刀を『獣人』の右手に向かって振り下ろしていた。

 賭けである。

 忍者刀が『獣人』の掌を刺し貫くのが先か、それとも『獣人』が刀を握り潰し、順弥の脳を砕くのが先か。

 刀を破壊された場合の対処法は、無論考えてある。が、ともかく、サイは投げられた。

 そして結果は――

 刃は『獣人』の掌の皮膚を傷つけただけに終わった。いくら同じ『ノウド』製とはいえ、所詮、スパイとしての役目を重視する『忍者』の武器だ。仕方あるまい。

 こうなることはある程度予想がついていたので、順弥は素速く行動に移った。

 先ず『獣人』が、右手にかえて左手で攻撃してくる。それを躱しつつ、腰間の大剣を鞘走らせる。そして『獣人』を腰の所で上下に分断するわけだが、ここで予想外のことが起きた。

 背中に、それほど強くはなかったが、鋭い痛みが走ったのである。

 そのために、順弥は剣を引き抜くのが遅れた。その一瞬の間隙を、『獣人』は見逃さなかった。

 屈み込むようにして『獣人』の左手を躱した順弥の背中へ、しかも少年が痛みを感じた場所へ向けて、『獣人』は思い切り左肘を叩き落としたのである!

 順弥はたまらず血を吐いた。

 背中の痛みが、恐らく『忍者』の放ったくないであることは想像できた。そのくないの上に、今、『獣人』が肘を落としたのである。非情な死刃は『忍者』の正確無比な投擲で、順弥の鎧の隙間を縫って突き刺さっていた。それが、身体の内側にめり込んでくる感覚に、順弥は苦鳴を洩らした。

 それを聞いた『獣人』の獣の相貌が、唇をめくり挙げて凄絶に笑う。

 その瞬間――

 耳をふさぎたくなるような嫌な音が室内に響いた。

「ぐええええ!?」

『獣人』が、たまらず絶叫する。

 今まで冷然と腕を組んで事の成り行きを見つめていた由紀が、愕然と眼を見開いていた。

「そ、そんな…!?」

 信じられない光景であった。マグナム弾すらよせつけぬ『獣人』の腹筋を、『騎士』の腕が貫いているのだ。闇色の籠手こては血と脂肪にぬらぬらと光り、内蔵を巻きつけて『獣人』の背中から生えていた。

 そして、その手が二本になったとき、由紀は、『獣人』の強靱な身体が上下に引きちぎられるのを見た。

 部屋が暗いため、立ち尽くす『獣人』の下半身から奔騰する血は黒く見えた。

「けやあ!」

 順弥の背後で化鳥が啼く。

 血に染まった闇の鎧が動く。

 くないを手にし、『忍者』が宙に舞っていた。装束から見える眼は怒りに燃え、血に狂っていた。

 そして今度こそ、順弥の腰の大剣が引き抜かれた。

 放たれたくないを躱し、順弥は『忍者』の首にその大剣を突き刺したのだった。

 首がちぎれ飛び、鞠のように跳ねながら、廊下へ血をまき散らせて転がっていく。首は、壁にぶつかって止まった。忍者の眼は、愕然と見開かれたままだった。

 戦いは唐突に始まり、一瞬で終わった。

「ば、馬鹿な…」

 茫然と呟く由紀の眼前で、まだ息のあった――しかし、動くことの出来ぬ――『獣人』の首を、順弥は剣で叩き落としていた。

「な、何故だ…。奴等は…戦闘経験を多く積んだ、いわばプロだぞ。それを…」

 その声に、順弥は兜の奥の双眸を由紀に向けた。

「次は、お前だ」

 そう宣言した。

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